第142話 禁忌の一歩目

 目が覚めると、知らない天井が目の前にあった。


「……」


 いや。見覚え……あるな。二段構造になっている隙間から間接照明が光っていて、洒落たフロアライトが二つ。


 なあんだ。ここは東海道先生の家の、リビングじゃないか。


 腑に落ちると同時に、猛烈な不安が足下から襲ってきた。

 

 ――ちょっと待て。どうして俺は東海道先生の家のリビングで目覚めた?


 慌てて飛び起きると、俺が寝ていたのはL字のソファだ。窓から見える景観はマンション五階の割に悪くなく、まだ日が昇りきっていない静かな朝の高級住宅街が一望できる。


 ……朝!!


 状況的に、俺は東海道先生の家で一晩を明かした、ということになるんだろうな。


 時計の短針は六時を指していた。寝慣れない環境が幸いしたのか、あまり眠りが深くなかったんだろう。


 ちょ……ちょっと落ち着こう。幸い、学校が始まるまでまだ時間はある。


 昨日は何があったんだっけ?


 確か、俺が東海道先生を食事に誘った。先生は俺の誘いを待っていたかのように、頬を赤らめて快諾したんだ。それから、この家にはすぐに食べられるような食品なんて置いていない、ということが分かって、タクシーに乗って数分の渋谷の飲食店に行った……そこまでは鮮明に覚えている。


 それから?


 思い出せ、思い出せ。


 ガツンガツンとこめかみを叩く俺の目の前には、コンビニの袋がある。中には手つかずの酒の缶。それが呼び水になったのか、一挙に昨日飲食店に行ったときのことが脳裏に浮かんだ。


 そうだ。ウーロンハイだ。


 俺たちが行ったのは大衆寄りの中華料理店だった。時間も時間だったので、店内は夕食というよりかは平日夜の飲み会という雰囲気が色濃く、酒の匂いがするテーブルの横でそれぞれ定食を頼むということになったのだが、ドリンクを決めるところで少し揉めた。


 どうやら先生は俺の前だからと遠慮して、ソフトドリンクを頼むつもりでいたらしい。俺の方は先生が酒好きなのを知っていたから、そんな遠慮は不要だ。どうせ今日の食事は俺のバイト代から天引きしてくれていいのだから――と、そんな問答をした憶えがある。


 誓って言うが、別に強制したかったわけじゃない。先生が、物欲しそうな目で隣のテーブルのグラスを見つめていたから……良かれと思って……。


 で、それが大失敗だったわけだ。


 食事が来る前に卓に付いたグラスを、キュっと可愛い効果音で飲み干してしまうともう歯止めが利かない。「もう一杯頼んでい~い?」と例の上目遣いで乞いてくるので、俺は深く考えもせず、進路の悩みを一方的に語りながら、次々とグラスを開けていくのを看過してしまった――


 店を出てから、ようやく彼女がへべれけに変貌しているのに気付いた。店の照明が薄暗かったので彼女の顔色に気付かなかったが、いつの間にか赤黒く変色していて、目がとろんと力を失っている。そのまま路上に近寄ってタクシーを呼ぶのかと思ったら、電信柱に激突して「にゃはははっ!」と嬌声を挙げるではないか。


 それからの記憶がかなり混沌としている。


 先生を家へ送り届けるにも、タクシーで移動していたから場所が分からない。


 頼みの綱はへべれけの脳みそなんだが、へべれけの脳みそはへべれけしているものだからあっちへ歩いたと思ったら道を引き返して、こっちへ行くのかと思ったら路上演奏のギタリストからギターを借りて歌い出すし。かと思えばコンビニに寄って追加の酒を買い込むし。


 このままでは埒が明かないと悟ってようやくタクシーに突っ込み、財布の身分証明書から彼女の住所を伝えてここまで連れてきた。で、結局自分はここからどうやって帰るんだと一人途方に暮れる内に、ここで力尽きていた……と。


 冷静に考えたら、一晩経ったからといって状況は全く変わっていない。タクシーを呼ぶにしても俺には払う金が無いし。電車は近くに無いし。


 ……いや。そうでもないか?


 スマホの地図アプリを起動して、現在地を確認する。


 どうやら、ここは渋谷から南の方面にある高級住宅街の一角らしい。昨晩タクシーで移動したとき、随分すぐに付いたと思ったがこんなに近かったのか。徒歩で歩けば自宅までは――三十分ぐらいかあ。


「あぁ~……」


 面倒臭いな……。どうしよう。学校に間に合うんなら七時に出たって同じじゃないか。まだ日も出てないから外は寒いだろうし。はあ……。


 ――


「ああっ……!!」


 突然背後から悲鳴が挙がって驚いた。


 瞼を開くと、いつの間にやら背後に青ざめた東海道先生が立っているじゃないか。目をこぼさん限りに見開いて、顔を覆う両手の指の間から俺を見つめている。


「あ、先生……」


「ま、まさか、あなた、わたくしの家で夜を……?」


「はい。……これって、結構まずいですよね?」


「ああぁっ」


 東海道先生は、膝を折って泣き声に近い呻き声を上げ始めた。……いや、本当に泣いている! 大人がマジ泣きする光景はちょっと迫力があって、おいそれと慰めの言葉を掛けられない雰囲気だ。


「生徒を――それも異性の生徒を家に泊めるなんて……わたくしは、な、何てことを……!!」


 俺は、恐る恐る泣いている先生の肩を擦る。


「先生、大丈夫。……きっと、大丈夫」


「だ、だ、大丈夫なんかじゃありません! 教師が、一人の生徒を家に宿泊させたのですよ!? これは懲戒免職ものの問題行動よ!……いえ、もしかすれば、犯罪になるかも……」


 犯罪。……そうか。俺が一晩このソファで眠りこけただけのことで、東海道先生は犯罪を犯したことになるかもしれないのか。そう考えると、俺にも責任がないわけではないし、気の毒に思えてきた。


「俺の親は、俺が家に帰っていないことなんて気付きようがないんですから……言ったでしょう? うちの家族は、平日なんて殆ど一緒の空間にいることが無いんです」


「え――」


「俺たちが言わなければ、誰にも知られようが無いことじゃないですか。それに、俺は先生に猥褻なことをされたわけじゃない」


「……」


「秘密でさえいれば、問題は無いんです。きっと」


「そうかしら……。でも、わたくし、あなたのご両親に申し訳無いわ……やっぱり、直接謝罪を――」


 俺は、ますます慌てて泣いている東海道先生の顔を持ち上げた。すんすん鼻を鳴らす彼女と間近に目を合わせる。


「そんなことをしてどうなると思ってるんですか。どうせ俺の親から学校に苦情が上がって、それであなたはクビになるんでしょ。それで、人間観察部の顧問は不在になって、甲塚たちとは離別することになる。先生は、それで良いんですか?」


「そ、そう言われると……よ、良くない気も、するわ」


「そうでしょう? 先生が学校からいなくなるのは、困りますよ」


 そこまで励ますと、ようやく先生は泣き止んでくれた。


「……そ、それでも、困ったことになったわ。わたくし、もう学校へ向かわないといけませんもの。あなたはどうするの?」


「一旦家に帰りますよ。ここからなら歩いて三十分くらいでしょ。もう外は太陽が暖めているし……」


「三十分って――ダメじゃ無い。それでは遅刻してしまうでしょう」


「え?」


 俺は、部屋の時計を見直した。今は八時。


 八時……。


「八時!?」


 さっきは六時で、余るほどの猶予があった筈だ。八時となると、到底のんびり家に帰っている時間は無い。


 まさか――俺は。


 二度寝、したのか……?

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