第133話 部長の尾行技術

 マンションエントランスで待っていたら、十一時頃に向かいの家の扉から郁が出てきた。彼女の私服は久しぶりに見たが、流石にデートとあっていつもより気合いが入っているような……気がする。


 黒いタイツに、膝丈くらいのスカート。上は黒い襟付きシャツに、カーキのピーコートか。色合いも暗いし、地味と言えば地味だがシックと言えばシックかな。


 郁は俺のマンションを見上げてから学校の方に歩き始めた。コートの袖を捲って腕時計を見ると早足になる。


 さて。早速尾行を始めよう。


「ぐえっ」


 ――と、エントランスを出ようとしたところで甲塚に後ろ襟を引かれた。幾ら非力といえど、物理的に首がしまる。


「待ちなさい。今出たら宮島に気付かれるかも知れないでしょ」


「だ、大丈夫だって。郁だぞ? 尾行するくらいチョロいだろ」


 甲塚は盛大に溜息を吐いた。


「これだから素人は困るのよ。良い? 宮島はあんたのことが好きで、これから好きでも無い男とのデートにあんたの頼みで行くのよ? そんな道の途中で、呑気にえっちな絵を描いているだろう部屋を振り返らないと思う? 今出てったら、バッチリ私達が視界に入っちゃうじゃないの」


「流石に考えすぎだろ。あいつは道を歩くとき前しか向かないんだ」


「助言どうも。でも、こと人間を観察することに関しちゃアンタなんて足下にも及ばないってこと忘れないで欲しいわね」


「……確かに。それはそうだけど」


 甲塚は、小学生の頃からスクランブル交差点を行き交う人々の観察に週末を消費していたような、生粋の人間ウォッチャーだ。彼女がそう言うんだから流石に説得力がある。


「そういえば、俺たち一緒にスパイ的な活動するの初めてじゃないか? 尾行と潜入は郁と経験したけど」


「そりゃそうでしょ。私は一人で動いた方が佐竹三人分の働きが出せるんだから」


 甲塚は冗談でも皮肉でも無いようなテンションでそんなことを言い出す。本気で、俺三人分の働ける自信があるってことなんだろう。まあ俺としては複雑なんだが。


「そこまで自信があるってんなら、お手並み拝見させて貰おうかな」


 さしてプレッシャーを感じている風でも無く、


「別に良いけど、足引っ張んないでよ」と格好良く言い切った。


 ところが甲塚の目線が俺の顔に留まると、何故か表情が不安に雲る。視線が俺の顔から足の先までゆっくりと降りた。


「……ちょっと待った。あんた、何でそんなダサい格好してるわけ?」


「え」


 自分の服装を見ると、下は寝間着のスウェット、上は白いシャツにレザーの黒ジャケットで……言われて見ればダサいような気がする。


「仕方が無いだろ。起き抜けで飯食ってたらお前がやってきて、いきなり外に連れ出されたんだから。服を吟味している暇なんてないよ」


「ま、逆に良いかもね。宮島も、まさかあんたがそんなダサい格好して出歩いているとは思わないだろうし」


「散々な言われようだな。……ていうか、そういえばこのスウェットお前に貸したやつなんだけど。少しはありがたく思えよ」


 甲塚の顔が、針で突かれたように顰む。


「キモいよ、佐竹……」


「軽々しく女子が男子にキモいとか言うな。根に持つぞ」


 甲塚は、自動扉の前に立つと慎重に外の様子を窺いながら言った。


「感謝はしてるけどね。でも、その丸出しの頭はちょっと差し支えるかも」


「そうかな?」


 確かに、俺の顔が視界のどこかに入ってしまえば一発アウトというのはシビアだな。とはいえ、俺に帽子を被る習慣は無いから家に戻ったってどうにもならないし。


「しょうが無い。慎重に行くから、佐竹はとにかく私の後ろに付いてくること。分かった?」


 俺は素直に頷いた。


 *


 甲塚の尾行には、感心するべき部分が多々あった。


 まず、距離感。甲塚は非常に緩慢な足取りで郁の足取りを追って、ともすれば二ブロックほどかけ離れることすらあるくらい、慎重に郁の足取りを追うのだ。そんなに距離を離してどうして見失わないのかと言うと、甲塚はここら辺の地理をだいたい頭に入れているらしく、あの角を曲がればあそこの道を歩く、あのデパートの通路に入ればぐるりと回ったこの通りに出る……なんてことを一々把握しているのである。


 それに、甲塚が注意していたのは郁の足取りだけではない。


 例えば、東京の人間は道を曲がるときに後ろを振り向くことがある。自転車が歩道を走っていた場合、急に方向転換すると事故が起きる可能性があるからだ。


 甲塚はそういった細やかな振り向くタイミングを一々予測して、その度顔の方向をずらしていたのだ。その手腕と言ったら見事と言う他無い。あるときは壁に寄りかかってスマホを弄り、有るときは突然後ろに振り返って歩き出す。


 説明も無く行われるそれらの擬態行動に付き合わされる俺も大変だったけど、とにかく、甲塚の尾行はかなり洗練されていたんだ。


 JRに乗り込む頃にはすっかり参ってしまった。こりゃ、一朝一夕じゃ甲塚には敵わない。


「大したもんだな。流石に人間観察部部長なだけはあるよ」


 俺たちは今、電車の連結部の扉窓を覗いている。尾行対象の郁は普通座席前の手すりに掴まっていて、スマートフォンの画面を一心に眺めていた。あの年頃の女子は大体そんな感じだ。


 甲塚は殆ど車両感の扉に寄りかかり、片方の目だけを郁に向けていた。


 この線の車両はいつも人がごった返していて、二人で乗るとお互いの息が感じられるくらいの間合いになってしまうのだ。


「別に褒められたって嬉しくない。尾行が得意な女子高生なんて、キモいでしょ」


「そんなことは無いと思うけどな……特技だろ?」


「特技じゃなくて、習慣だから。欲しいと思って身に付いたものと、いつの間にか身に付いていたものは大きく違うわよ」


「確かに、そうかもな」


 俺は、色々と思考を巡らせながらも深く突っ込まずに甲塚の感想を流した。


「それにしても、ショウタロウが郁を何処に誘うのかと思えば――山手線なら、あそこだよな?」


「多分、あんたの考えてるとこで合ってる」


 次は、新宿――。新宿――


 その時流れた車両アナウンスに反応して、郁がするりするりと出入り口付近に移動した。

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