第129話 誰かを好きになる、十分な方の条件
「えーと……待ってね。えーと、えーと、あっこのページ! 読んでみてよ!」
もう最接近しているというのに、小説を広げた郁がもう一度尻を押しつけてきた。半自動的に俺が壁の方にスライドして、鞄に体が半分埋まる。
で、郁が開くその小説を読んでみた。
まず、ページの八割が文字で埋まっていることに驚く。郁のことだから台詞、改行、台詞、改行、句読点、改行みたいな簡易な小説を読むイメージだったのに、瑞々しい比喩表現、抽象的な心理描写満載の、まさしく純愛小説じゃないか。そして、郁がマーカーを引いたらしい一説は、こう言う文章から始まるのだ。
――美樹は拳に込めた力を解いて、ふと夜空を見上げた。そこには色取り取りに花火が散っていて、それが夜の底に散らばった宝石のようであった……(中略)……伊月と自分との間にあった筈の記憶の一つ一つが輝いて、消えた後も美樹の目を捉えて放さない。それは、彼とだから輝く思い出の数々。彼とだから、であった――
うん……。
やっぱり小説って途中から読んでも何が何だか分からないな。こういう固い文体であれば尚更。
「とにかく、悲恋らしいということは分かったよ」
辛うじて感想をひねり出したというのに、郁は不満そうな顔をしてきた。
「うっすい感想だなあ。蓮はこんなに綺麗で可愛い文章を読んでもドキドキしないわけ?」
「逆に、こんなに小難しくて端正な文章に郁が感動していることに驚いているんだけど……お前、これでよく国語赤点取れたな?」
「趣味と実益は別でしょ?」
照れくさそうに鼻の先を掻いて言う。俺は呆れて頭を振る。
「とにかく、解説してくれ。郁の言いたいこと、分からないよ」
「そうだね――。これは、美樹っていうヒロインが、売れない芸人の主人公との思い出を、花火を見ながら回想するシーンなの」
「花火か」
俺は思わず昨日甲塚と見た花火を思い出す。不思議なことに、花火の明るさよりも部室の暗さがまず先に頭に浮かぶんだよな。思い出というのはその色合いに関係無く暖かいもんだ。
郁は、今度は自分でページを捲り、諳んじるように説明を続けた。
「……このヒロインさ、周りの人それぞれに色んな人格を作って接しているような人なの。友達、行きつけのカフェの店員、大学のサークル。でも、物語の終わり頃になって、主人公と過ごしていた人格が見る、古い映画だとか、水族館のヒトデだとかの一つ一つだけが、思い出の中で輝いていることに、気付くんだよ」
「へー、そうなんだ」
まるで自分の、大事な思い出のように語る郁を前に、素直に相槌を打つしかない。彼女は本当にこの小説の話を真摯に考えているらしい。
これでも俺は創作をしている人間だ。だから、純粋にフィクションを大事にする人間というのは愛おしく思うものだ。
「私、このヒロインに凄く感情移入しちゃうんだよねえ。別に多重人格ってわけでもないし、好き嫌いで自分の顔を変えているわけでもないんだけど、確かに蓮や甲塚さんと、他の友達とって考えたら、私って全然別のキャラクター演じてるかもしれない。というか、無意識だけどそうなんだと思う」
「……郁が、全く別のキャラってことはイメージできないけど……。まあ、コミュニティによって、求められる役割が違うことはよくある話だ――」身近で分かりやすい人間を挙げるなら甲塚だろう。あいつは他人の秘密を知っているか否かで、全然違う人格が表に出てきてしまうから。「というかこれ、人を好きになるって話だよな? 郁の考えてること、面白いけどさ」
郁は笑いながら襟元を摘まんで、パタパタと風を入れた。そういえば俺たち、滅茶苦茶汗掻いていたような気がする。
「あはは、人を好きになる話だよ。私が言いたいのはさ、他人を好きになるのが分からない、っていうことなら、どういう自分が好きなのかっていう風に主語を入れ替えて考えれば良いんじゃないのってこと。人を好きになるって言うことは、きっとその人と接している自分の仮面が好きだということと同じなんだよ。その人と体験する色々なことに、普段以上の感動ができたり、大切な思い出になったりするってことなんじゃない?」
「あ、……ああ……」
恋愛のことはよく分からんが、郁が滅茶苦茶真っ当なことを言っている――と思う。
人を好きになることは、その人と接する自分を好きになること……。
転じれば、好きな人と一緒にいるということは、好きな自分でいられるということだ。そういう感覚は俺でも理解できる。問題は、俺という人間は大抵どんな奴に対してもフラットに接している気がすることなんだが。
郁を初めとして、甲塚、東海道先生、美取……彼女たちと放すときの俺は、一々違う顔をしていただろうか?
「凄いな、郁。ちゃらんぽらんなことを言い出すのかと思ったんだけど。めっちゃ勉強したとは言っていたけど結構ガチじゃん」
「でしょ?……んまあ、Youtubeの解説とか色々見たんだけどね」
そう照れて笑ったきり、郁はむっつりと開き慣れたページの文章を目で追い始めた。こんな状況じゃストーリーなんて全然入ってこないだろうに――というか、俺の逃げ場が無い展開は相変わらず続いていて、俺がカッチリした回答をしない限りここから帰れそうもないのだった。
「郁、あの」俺は尻を動かそうとした。が、郁の体がピクリとも動じない。まるで漬物石だ。「ちょっとどいてくれる?」
「何? 返事まだ貰ってないんだけど」
「いや、飲み物飲み物。喋ってたら喉渇いてさ」
「ああ」
郁は、テーブルにコップが無いことに今更目を丸くして、素直にどいてくれた。
「じゃあ、私コーラね」
*
郁と二人きりの部屋を出た俺は、足早に廊下をドリンクバーまで歩いた。で、コップを取るでもなくまずは甲塚をコールする。……出ない。スマホのバイブレーションに気付いていないのだろうか。それとも移動中か……?
こういうとき、頼りになる相談相手が人間不信の甲塚ってのも情けない気がする。けど、あいつの他にこんなことを相談できる奴もいないんだよな。
しぶとくコールし直す俺の背中が叩かれた。振り向くと、さっき廊下で擦れ違った郁の友達がコップを持って突っ立っているではないか。
「ちょっと、邪魔なんだけど」
「あ。すまん」
俺が道を空けると、ガサガサと二人分のコップに氷を入れ始めた。どうやら向こうじゃ女が飲み物係らしい。さしてこちらの存在を気まずく思う風でもなく、淡々とドリンクを注いでいる。
にしても出ねえなあ、甲塚……!
不在を告げるメッセージに切り替わったので、溜息を吐きながら一旦通話を切る。
その様子が、郁の友達の関心を惹いたらしい。
「そっち、ど? 郁と上手くいってる?」
背中を向けたままいきなり喋り始めるので、俺は一瞬デカイ独り言かと思った。
「……え!? ん!?」
女は、コップを置いてカウンターに腰を掛けた。耳元のスマホからは、コール音が続いている。
「そんなにビビらなくても良いでしょ。純粋な疑問なんだけど、あんたら二人でカラオケ来て、一体何歌うわけ?」
「あ……そういえば俺たち一曲しか歌ってない」
「は? じゃ、あんたらカラオケ来て何して――ちょっと待った」
不意に、カウンターからぴょんと降りた女が俺の胸元に顔を近づけてきた。そして、郁の体とくっついていた半身へ鼻をすんすんと動かしていく。
「……発情した女の匂いがする……」
俺は慌てて身を離した。もしかして、女同士だけで分かるそういう匂いが――いや、冷静に考えたらそんなわけがない。からかわれているんだ。
「アホかお前!?」
「アホだよ。郁ほどじゃないけどさーっ!」
そんなことを言い残して、女はギャハハと笑いながら去って行った。
何なんだ、一体。
やっぱり女ってよく分かんないな……。
「首尾はどう?」
その時、ようやく甲塚の声がスマホから流れ出した。
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昨日は更新できず申し訳ありません。
今日もう一本分更新します。
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