第114話 恋愛講座・初級編

 視界の中の郁の顔が、三秒くらい掛けて驚愕の表情になるのを俺は見た。


 どうしたんだろう――と疑問を抱きかけた瞬間、今度は目の前の千里から「ギャア――!!」と鶏みたいな悲鳴が挙がったものだから驚いてしまった。


「な、なんだよっ! 急に大声出して。田舎モンだと思われちゃうぞ」


「鼻血! 鼻血っ!」


 慌ててポケットティッシュを引き出しまくる千里が不穏な言葉を言う。


「鼻……えっ!?」


 眼下を見ると、焼きそばのプラスチックの蓋に嫌な赤が垂れているではないか。それどころか、テーブルや制服にまで……これはちょっとマズい。


 千里から受け取ったティッシュで鼻を押さえながら立つと、周囲の生徒がモーゼの滝のように道を譲る。そんなに俺の血が汚いと言うのか。……汚いか。


 内心舌打ちしながら、慌ててテントから出た。


「千里。悪いけど、テーブル拭いといて。ちょっと洗ってくる」


「えーっ!? 私グロいの嫌い!」


「い、いいから! ここから動くなよ!」


 くそっ。なんだって俺の体はこう分かりやすい設計になっているのかな……! 以前郁にも指摘されたとおり、俺は何故か目の前で男女――特に知っている女子であるほど――の仲が睦まじい場面を目の当たりにすると、鼻血が吹き出てしまう体質らしい。ビックリ人形か俺は。


 寝取られたような感情と、鼻血が吹き出るメカニズムは解明されていないが、俺としては現実の衝撃で死滅した脳細胞が鼻から出ている、のだと思う。


「あ~……」

 

 俺はグラウンドの水飲み場で血を洗い落としながら、溜息を吐いた。こちらの方面は出し物がないからか、開けた景観の中に人っこ一人見えない。まあ、惨めな気分の俺には丁度良いけど。


 ……そういえば、前に郁に聞かれたっけ。『彼氏とデートしているとこに居合わせたら、果たして俺は鼻血を出すのか』的な。図らずもそれが実証されたわけだ。


 郁が彼氏とデートしていたら、俺は鼻血を出すのか? 答えは『はい』。


 そのとき、俺は郁の彼氏に嫉妬をするのか?……答えは、『はい』。


 認めよう。俺はショウタロウに嫉妬している。


 嫉妬しているということは――


 俺は強く水を出して、ガシガシと顔を洗った。それで雑念がこそぎ落とせるわけもないが。


 ……何にしろ、すけべ絵師としての俺を郁が受け入れるわけもない。一方、ショウタロウには彼女に対して後ろ暗い部分なんて一つも無いわけだ。


 俺が嫉妬している部分はそこかもしれない。


 身構えもせずに人に好きだと言える身ぎれいさを、俺は憧れているのか……。


「おーい。鼻血止まったー!?」


 校舎裏の方から千里が駆け寄ってきた。……こいつは本当に人の言うことを聞かないな。

 

「なんとかな。ていうか、お前さっきの場所にいろって言ったのに……掃除は?」


「知ーらない。なんか、『私が片付けておくから蓮に付いてあげて』って、綺麗なお姉さんに言われたんだもん」


 俺を蓮と呼んで世話焼きで綺麗なお姉さんと言うと……郁だよな。


 ……あいつが俺の鼻血を? あいつも普通の感覚をした女子高生の筈だ。男の鼻血なんて汚らしいと思わないのだろうか。


「ちなみにその綺麗なお姉さん、俺のこと何か言ってた?」


「え? ん~。別に?」


「あ、そう……」


 千里が何かを察したように細い眉毛を顰める。


「何? 蓮、あのお姉さんと知り合いなの?」


「知り合いというか、うん。まあ幼馴染みって奴だけど」


 努めて平静に答えた筈なのに、何故か千里の目がぐにゃりとクソガキの目に変貌してしまう。こいつを俺がクソガキと呼ぶ所以の一つは、この他人の薄暗い感情の嗅覚にあるのだ。


「あ~! 好きなんだ~!! コーコと仲良いくせに~~!」


「大声で喚くなっ。大体、コーコとは恋人でも何でも無いって前にも言っただろうが!……まあ、郁も恋人でも何でも無いんだけど」


「……本当に好きなの? あのお姉さんのこと」


 ティッシュで雑に水滴を拭うと俺は校舎に向かって歩き始めた。クソガキムーブは何処へやら、心配そうな顔をして千里は後を付いてくる。


「私はコーコの方が良いと思うんだけどなあ」


「なんだよ。どうしてお前は俺とコーコをくっつけたがるかな」


「だって雰囲気似てるんだもん。二人。レンアイっていうのは、気の合う人同士の方が上手くいくんだよ!」


「ははは。小五のガキンチョに恋愛の何がわかるってんだ」歳に似合わない『恋愛』などというものを語り出すので、俺は笑い出してしまった。「どうせ、お前の恋愛観なんてメイドイン少女漫画だろが。そういうことはな、ボーイフレンドの一人でも作ってから喋れっての」


「え? 私彼氏いるよ」


 驚いた俺は、足下の段差に気が付かず見事にずっこけてしまった。千里はひょいと身軽にジャンプして、俺の目の前に立ってくる。


「な……なんだってえ!?」


「彼氏くらい普通にいるよ。ほら、私天才だし、結構モテるんだもんね。今年はもう五回は告られたんだよ」


 驚いたことに、千里の目はクソガキモードじゃない。ということは、八割の確率で嘘を言っていないということだ。


 あの千里に彼氏が――というか、五回も告白されるって……。普段の上下水色みたいなダサい私服から考えると全然考えつかないことじゃないか。というか、それが事実とするなら、俺は目の前の小学生にこの分野で二手も三手も遅れていることになるのか。


 ……なんか、すっごく嫌だな。それ。


「と、とか言って、彼氏と言ってもごっこ遊びみたいなもんだろ」


「えー? そんなこと言ったらさ、結婚するわけでもないのに恋人になる人みんなごっこ遊びじゃん」


「あー……」


 小学生の感覚だとそうなるのか……? 男女関係と聞いて結婚をイメージするような純粋さは、俺には無いから分からないけど。


「ちなみにお前、その彼氏くんとどこまで行ったんだよ。今時の小学生はキスとかすんの?」


「えっ……しないよ。隣のクラスのミオちゃんはしたって言ってたけど、本当かどうか分かんない。あの子よく嘘吐くから。少なくとも私はしたことないし」


 ふーん。まあそんなものか。


「じゃあ、ハグとかしてんの?」


 千里はちょっと赤らめた顔で頭を振る。


「してないよお。ていうか、今の彼氏と付き合い初めてまだ二ヶ月くらいだし」

 

「二ヶ月って、結構時間経ってるだろ……じゃあ、お前ら彼氏彼女ってことになって一体何をやってんだ」


「えっとね、ゲームしたりしてるよ。学校から帰った後に、夜ご飯までいっつもオンラインでパーティ組んでるの」


「……はぁ?」


「あと、休みの日に街まで遊びに行ったりしてるかな。恋人なんてそんなもんでしょ?」


 ゲームに買い物って、恋人がそんなもんだとするなら俺は郁と恋人の十分条件をとっくに満たしているような気がするんだが。……必要条件は、心の距離か。


「それは付き合っていると言えるのか? 彼氏彼女なんだろ?」


「何言ってんの!? 向こうが私のことを好きだって言って、私も向こうのことを好きって言ってるんだもん。……ていうかさあ。さっきの綺麗なお姉さんのこと、本気で好きなら辞めた方が良いと思うなあ。滅茶苦茶イケメンな彼氏っぽい人いたんだよ? 正直、蓮じゃ勝ち目無いよ。ケケケ」


 生意気なことを言い出したので、千里の頭をぐしゃぐしゃにしてやった。セットをしているわけじゃないから、幾らぐしゃぐしゃにしてもどうせ元の形に戻ってしまうのだ。


「綺麗なお姉さんのことはともかく、滅茶苦茶イケメン彼氏に俺が勝てないなんてことは百も承知なんだよ。そもそも奴と比べられて相手になるような男子はどこにもいない」


「ふーん……。ああ、でも勝ち目ないこともないかも」


「あん?」


「私、今年五回告られたって言ったでしょ? 今私が付き合っている人は、告白してきた五人の内何番目のイケメンだったでしょうか!?」


 俺は多分引っかけ問題だな、と思いつつも「一番だろ」と投げやりに答えた。


「ブブーッ! 正解は三番目! 言ったでしょ。恋愛は気の合う人同士の方が上手くいくんだって。蓮も、せめて三番目くらいの気の合うイケメンになれるといいね。どうせ一番目は無理だから。ケケケ」


「このクソガキ、言わせておけば……」


 いい加減拳骨でも喰らわそうかと思ったところで、「キャァー」と嬉しそうに悲鳴を挙げながら校舎の中へ逃げていった。


 まったく、子供の相手は大変だ……。

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