第109話 嫌いな名前

「ヒューッ」


 突然美取の喉から笛みたいな音が鳴ったので、ちょっと驚いて顔を見る。律儀に時刻表を眺め続けている――いや、黒目が非常に細かく動いている。頬も赤くなっているし……これは手応えがある、かもしれない。


「いるんですか?」


「い、いないです。恋人なんていないです」


「……いない? 本当に?」


「いないですいないですいないです」


 なるほど。


 恋人の有無なんていきなり聞かれても、そう率直に答える人間はいないかもしれない。何も美取でなくたって、大して親しくも無い男にはそういう答え方をする……のかな? しかしこの動揺のしようは、隠しごとがあるのは見え見えだ。


 ここは、少し回りくどい聞き方をしなければ。……まず、外堀から攻めていくか。


「おかしいなあ。聞いた話じゃ、美取さんはしょっちゅう告白されてるってことですけどね」


「えっ!? そんなこと、誰から聞いたんですか!?」


「別に誰からってことも無いよ。この間見学したときに噂を聞いたんだ。ヤマガクじゃ、美取さんは噂の的らしいしね」


「私が――はあ。そ、そんなこと、全然知らなかった……」


 美取はまん丸に開いた目を俺に向けて言う。どうやらこれは本心らしい。噂の渦中が周りの気圧の低さに気付かないことなんてあるのか。友達がいないとは言っていたけど……なんか、可哀想なような、抜けてるというか。


「でも、実際そうなんでしょ? 告白されたことなんて、それこそ片手じゃ足りないくらいだと思いますけどね」


「……噂話なんですよね?」


「噂話だけど、常識的に考えて美人で優しい人はモテる」


「わ、私は美人でも優しくもないですっ」


 慌てたように顔の前で手を振る。頬に汗が……。


 俺は腕を組んで、溜息を吐いた。

 

「本気でそう思ってるんだから、たちが悪いのかなあ。ヤマガクの男子たちには同情しちゃうよ」


 自分の女子としてのレベルの高さに鈍感で、あまりにも無防備に構えていて、それでいて告白されたらあっさり拒否してしまう。これじゃ毒のあるリンゴが足を生やして歩いているようなもの。一体こいつは何人を昏倒させてきたのか、途方に暮れてしまうな。


 なんにしろ、本人がこの調子じゃ長期戦に構えた方が良いだろう。


 昼休みから桜庭を抜け出して、ヤマガクの学祭をぶらついて……時刻はまだ四時半か。太陽の足は速いが、夕刻といえば夕刻だ。


「美取さん、今日は、まだ時間ある?」


「ヒューッ!」


「うぉっ……」


 また、上気した美取の喉から笛みたいな音が……なんだこいつ。ヤカンの生まれ変わりか?


「あ、あります、あります。私、今日は結構暇なんです。クラスの当日係、何も貰えなくて……」


 最後の情報要らねえな。


「じゃあ、どっかぶらついて、飯でも食べてから帰りませんか? せっかく会ったんだし、そういえば学祭の後にオフ会の予定入れてたし。ついでに」


「ですね!」


 さて。ぶらついて、飯を食うとなるとこの辺りなら……渋谷だな。というか、渋谷しか知らないし。


 *


 私、丁度渋谷で行きたいところあったんです!――という美取に付いていくと、アニメイト渋谷店だった。

 

 コスプレにも興味津々だったようだし、何かアニメのグッズでも見て回るのかと思ったら、人を掻き分けて真っ直ぐに本棚……年齢制限のある同人誌の棚に突っ込んでいくではないか。


 思わず笑ってしまいながら、彼女に付いていく。

 

「美取さんは、ほんと予想通り予想を裏切ってくれるよな」


「えっ? なんですか?――あははっ。なんで笑ってるんですか?」


「いや。なんでもない……」


 美取は大して気にもせずに、肌色の多い同人誌を手に取って嬉しそうな顔をする。


「同人誌は良いですねえ。愛があって」


「そうなのかな?」


「そうですよお。読まないんですか? というか、出さないんですか? 同人誌」


「俺は、あまり詳しくないんだよな。そういえば、絵画教室でもコミケの時期は忙しそうにしている人いるけど」


「勿体ない! 蓮さんの同人誌、絶対ウケますよ!」


「そこは、ほら。漫画と一枚絵を描くのは勝手が全然違うからね……。てか、忘れられちゃ困りますけど、俺一応十八歳未満なんで」


「あっははは! 確かに。でも、コミケは良いですよ。誘われたりしないんですか?」


 この人、この領域になるとマシンガンみたいに喋り出すな。さっきの駅のテンションは一体何だったんだ。


「俺に友達なんていないですよ。――いや、今はちょっといるけど。コミケに行くような人なんて……ってそれも、いるか……」


 考えてもみれば、郁と美取って軸足は違えど近い領域の人間なのではないだろうか。第一印象は混沌としているだろうけど、話せば仲良くなれるかもしれないな。


「羨ましい。私も、そんな友達がいたら、一緒に行けるのに」


 美取は、両手に肌色の同人誌を掲げて溜息を吐いた。


「ん? 行ったこと、あるんだよな?」


「え? 無いですよ」


「……。コミケは良いって言ったよな?」


「そりゃ、良いですよ。コスプレの聖地ですし、エッチな本が沢山あるんだから、良いに決まってるじゃないですか」


 俺は、ハッとした。


 すけべな本が沢山あるということは、そこにはすけべな絵が沢山あるということである。どこを歩いても、角を曲がってもすけべな絵をすけべ野郎が売っているということである。流行の調査にはもってこいだし、単純に全国のすけべがどんな面しているのかも興味ある。

 

「それは、ぐうの音も出ない正論だな……」


「でしょう? 高校生になったし、実は今年の冬は行ってみようかと思ってたんです」


「ふーん。まあ、年齢制限はあるだろってツッコミは置いといて……俺も一回行ってみようか」


「い、良いですね! 今年の年末、二人で。ちょっと変装なんかしたりして、年ごまかして……!」


「え?」こっちとしては『そのうち、一回行ってみよう』のつもりだったんだが。……というか、俺と二人でコミケ? 変装して?……マジで言ってんのか?「いやいや。俺とコミケなんて行ってどうするんですか」


「え?……え、と」


「それこそ、恋人でも連れて行けば良いだろ?」


 美取の膝がカクンと折れる。


 両手に同人誌を持ったまま、ずんと一足で目の前に立ってきた。


 ……ちょっと怒ってる?

 

「だ、か、ら! 私! 恋人なんて! いないんです!!」

 

「美取さんも頑張るなぁ……。別に隠さなくたって良いのに」


「れ、蓮さんこそ。どうしてさっきから私に恋人がいるなんて決めつけているんですか!?」


「だって、告白されても悉く振ってるって聞いたし。それも、寄ってくる連中なんて芸能人予備軍か槍持って前線に立ってる連中でしょう? 既に恋人でもいなきゃ、断る理由なんてないじゃないですか」


「何言ってるんですか!……ありますよっ! 断る理由!」そう言うと、俺の目の前に同人誌の表紙を突きつけてきた。「こんな趣味の女の子なんて知られたら、どんな目に遭うと思ってるんですか!」


「おっ、おう?」


「男性にこの秘密が漏れたりなんかしたら、私なんて――」美取は本棚の表紙を指差して大いに激昂する。「脅されてああいうことやこういうことになるに決まっているんです!」


 俺は美取の指差した先を見た。……なるほど。ああいうことやこういうことね。


「美取さんさ、それはすけべな本の読み過ぎだと思うよ。普通、こういう趣味が知られたってせいぜいがドン引きされるか、……まあ、馬鹿な男子にはテンション上がるような奴がいるかも知れないけど」


「え? あれ? そうなのかな」


 ……今気付いたが、年齢制限棚を物色している周囲の客が俺たちのことを見ている。


 というか、美取を見ている。いやらしい視線では無い。単純に、現実の女性に恐怖している草食動物のような眼光。気持ちは分からないでもない。


 そうだよな。あまりこういう場所で男女が立ち話をするもんじゃないか。


 *


 アニメイトを出てから、渋谷に変わった店があるという話を思い出した。


 何だっけ。


 ……そうだ。犬カフェだ。


 そういえばそんな店もあるらしいと言ったら、是非行きましょうということになった。調べてみればそう何十分も歩くような場所ではないらしい。


 ビルの三階まで細い階段を昇りながら、俺は一体どこでこんな店のことを聞きつけたんだったかな、と不思議に思った。女子と一対一でも、間に動物がいれば話題に詰まることもないわな、と感心した覚えはあるのだが。


「わあ……わ……」


 店内は椅子の無い座敷のようになっていて、客は靴を脱いで上がり込み、その辺を闊歩する豆柴と触れ合うことができるのだ。


 今、くつろいで座る美取の膝を、早速豆柴が濡れた鼻で探っている。彼女がもじもじ、くすくす笑っているのは、くすぐったいのだろう。


 で、「あちゃあ」と俺は頭を抱えた。


 思い出した。犬カフェって郁が言ってたんだよ……。


 というか、アニメイトに犬カフェなんて、前郁が言ってたデートの行き先(希望)まんまじゃないか。アニメイトは偶然にせよ、本人の知らないところで勝手に被せてしまったな。


 ま、来てしまったものは仕方ないとして。


 他の客はおじさん一人と、大学生くらいの男が一人。意外にも女性は美取一人らしい。……それに、他の客から十分距離を取れば小声で話すこともできそうだ。


「さっきの話だけど、確かに男と女じゃ趣味がバレたときのインパクトは違うかもしれないな」


 スカートの上に犬を抱えて幸せそうな美取にそっと話しかける。


「そうですよ」美取は豆柴の後頭部に自分の鼻を突っ込みながら答えた。「それに、今まで告白してきた人って、みんな顔も名前も知らない人ばかりなんです。向こうは私のことを少しは知っているかもしれないけれど、私は向こうのこと知らないわけで……単純に、そういう人たちと楽しくお話するの、ハードル高いし、怖いです」


「まあ、相手がどういう奴か分からないって点じゃ……そうだな。『飯島美取』は清純派の風紀委員だし。イメージに傷が付いたらコトだ」


 そう考えると美取に恋人がいないってマジ、なのか?


 ……というか、なんでおれの所には豆柴が来ないんだろう。豆柴……。


 いやいや。でも、現にショウタロウとデート(?)してた目撃証言はあるわけで。……友人以上恋人未満ってやつだろうか。


「……あれ? 知ってたんですか? モデル活動のこと」


「ん?」


「まあ、隠しているわけじゃないんですけど。中学生の頃、街を歩いていたら声を掛けられて。……一度気軽に引き受けちゃったら、どんどん話が進んでしまって……」


「……ん?」


 あれ。俺今モデル活動について何か言ったっけ。


 俺の困惑を見て取ったのか。逆に飯島の方が不思議そうな顔をした。


「今、私のこと飯島って言いましたよね。そういえば、校舎裏で会ったお二人も私のことそう呼んでいたし」


 こいつは一体何を言っているんだ?


「飯島……美取なんだろ? 苗字で呼ぶのがおかしいかな」


「あははっ!」美取は笑い出して、豆柴を抱きしめた。「飯島は芸名ですよ。だから、知らない人にそう呼ばれたらすぐ分かるんです。ああ、この人は雑誌で私を知ってくれた人なんだって」


「げ、芸名? 本名じゃない?」


 ……そういえば、モデルが芸名を使うのなんてそう珍しいことじゃない。芸名で検索しても、美取のモデルとしての情報はしっかり出てくるわけだし――下調べの段階で気付きようが無かった事実だ。


「私、本名ウスイ美取って言うんです。苗字で呼ばれたら『薄い』って……影が薄いみたいじゃないですか。だから、名前で呼んで貰うようにしているんですよ」


 上機嫌の美取が、お気に入りの豆柴の顔をこちらへ向ける。


「ねーっ!」


 その時、ブンッとくしゃみした犬の鼻水が俺の顔にかかった。

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いつも応援くださりありがとうございます。

明日(12/26)は一日お休みを頂いて、切り抜きエピソードをアップロードする予定です。

元々章を分ける予定では無かった本編ですが、12/27より形式的に新章へ入ります。

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