第103話 コーコのトリック
「おわぉっ!? ちょっと、急に何!?」
絶叫に驚いた郁が、頭を抱えた俺の視線を追う。そこには、見慣れた『青海』――それに、俺とコーコと千里が総力を挙げて描いたグラフィティアートがあるのだが。
……その前には、描かれた女の目線に驚くジェスチャーをしていたり、奇妙なダンスを踊っていたりする若い男女が砂糖に集まる蟻のように集結しているのだ。そして、彼らのパフォーマンスを眺めようと立ち止まる取り巻き。
あいつら――
「Tiktokを撮ってやがる!!」
「え、そこ?」
「畜生……!」
奥歯を強く噛んで呻いた。
あの絵を描くことは、コーコの学校生活への復讐だったんだ。その復讐の総決算が今、そこら辺の芸術の『げ』も知らない連中の、いいねやPVのために利用されている。
奴らは俺たちの決死の覚悟を、その外連味だけを背景にして自分を主役にしているのだ。これで腹が立たないわけはないだろう。
「何だよ、あいつら。プライドとか無いのか!? 他人の絵の前で舐めた表現して、人の注目集めようなんて……!」
突然後ろから背中を押されて、前に立っている人間の背中に押しつけられた。隣に立っている郁は涼しい顔で圧力を押し返している。
「蓮。ちょっと落ち着きなよ。とにかく、私もしっかり蓮の絵を見たいからさ、もうちょっと前に……あれ? ちょ、ちょっと!?」
突然郁が慌てだした。そうこうしている間にも、どんどん人の圧が増していき、俺たちは前方に、密な方向にと押し出された。
「甲塚さんがいないんだけど!」
「え」
絵に群がる連中に気を取られて気付かなかったが、そういえばさっきから甲塚の声を聞いていなかった。既に右を見ても左を見ても、知らない人間の頭しか無い。
……もしかして、はぐれたのか?
そういえば、甲塚は非常に貧弱な体幹をしている。さっきから感じる後ろからの圧力に流されるまま、川に浮いたペットボトルのようにあらぬ方向へ流されてしまったのか。
俺も慌てて背伸びをして辺りを見回す。すると、右斜め前の方向に、こちらに顔を向けながら前へ前へ流されていく甲塚を発見した。パニックに陥った表情で俺たちの方向に戻ろうとしているようだが、努力も虚しくどんどん前へ行ってしまっている。
「あー。いた」
「どこ!?」
「右斜め前の方だ。悲しそうな顔で漂流してる」
「じゃあ、早く捕まえてあげよう!」
「捕まえると言っても……」
とてもじゃないが、進もうと思って進めるわけでもない。俺たちも、後ろから押される内にすっかり身動きが取れなくなってしまったのだ。
と思ったら、両手を前に突き出した郁が、ずかずかと人混みを掻き分けて前の方に進み始めるではないか。まるで地中を掘り進めるドリルだ。そんな芸当、俺には出来る筈もないのでどんどん距離が離れていく。
……これ、俺が孤立する流れか。
頼もしく進んでいく郁の後頭部を、俺は寂寥感と共に眺めた。
「蓮も早くー!」
「無理。そっちは取り敢えず甲塚捕まえてやってくれ」
「えーっ!?」
「後で、校舎の裏手で合流!」
「りょうかーい!」
そのまま、人混みを強引に縦断していく郁を眺めた。無事にキャッチしたのだろう。パニクった甲塚の顔の横で、片手を振り上げる。
よし。
あいつらとは合流場所で落ち合うとして――コーコは一体どこにいるんだろう?
周りの人間の顔を見ても、当然だが彼女の顔は見つからない。いるとすれば……やはり『青海』周辺か。あの寄生虫みたいな連中のパフォーマンスを見るのは癪だが、仕方が無い。取り敢えず近づいてみようか。
*
人混みは前へ進む程その密度が増していき速度が下がっていく。
俺とコーコが絵の見え方を確認するために何度も立った『青海』正面までになると、立ち並ぶ人の壁にずぶずぶと体を沈み込ませるような進み方になってきた。
特別進みが遅く感じるのは、ここら辺に立っている人間の殆どがカメラ撮影をしているからだろう。
一応『青海』が立つ芝生のスペースは三角コーンが立てられて空間が確保されているが、頭の悪そうな連中がさっきから出たり入ったりして実行委員らしき女子を困らせているらしい。ふと気になったのは、周囲のカメラの幾つかはその実行委員に向けられていることだ。……これは、盗撮ではないのか?
当の実行委員の女子は自分に向けられているカメラに気が付いていない筈は無いのに、勇猛果敢に人混みの誘導に挑んでいた。
「すいませーん! 立ち止まらないで下さい! 学校の中へ進んで……! そこの人! 芝生に入らないでください!」
女子の頑張る姿を見ていたら、彼女がぐるりと視線を流したときにバッチリ目が合ってしまった。というか、あの女子――
「あっ。蓮さーん!」
美取じゃねえか。
人流整理なんて仕事を、わざわざ彼女がやっているのか? というか、こういう仕事こそ優秀な警備員が出張るところではないか。
……それはそれとして、俺を手招いているようなジェスチャーをしているのだが気のせいだろうか。
気のせいだよな。別に俺と美取なんて友人という間柄でもないし、きっと俺の近くに知り合いが立っているんだろう。
「蓮さん! 蓮さーん! 蓮さーん!」
そのまま人の流れに身を任せて移動すると、美取が慌てたように俺の名前を連呼してきた。
気のせいじゃなかったか……。
渾身の力を込めて、人と人の継ぎ目に隙間を作り通り抜けていく。『青海』のスペースに辿り着く頃にはこの季節だというのに汗だくになってしまった。さっきから美取が人除けしてくれていたお陰か、取り合えず深呼吸する位の空間は空いている。
「ど、どうも。美取さん」
美取は頷いて挨拶を返すと、すぐに口を俺の耳へ寄せてきた。
「蓮さん。お話したいことが」
「話?」
「ええ。少し、人気の無いところまで付いてきてくれませんか。ご案内します」
「誘導は良いんですか?」
ほつれて口の端に引っ掛かった前髪を除け、やつれた彼女は頷く。その時、人混みの方からフラッシュが数度光った。
「もう……収拾は付かないようです。せめて怪我人は出すまいと頑張っていましたが――流石に、こうなると。もう」
「……そうですか」
確かに、これは怪我人が出てもおかしくない。美取はそれを恐れて盗撮されるのも厭わずここで気を張っていたわけか。だが、ここまでの人混みになると風紀委員一人が声を張り上げたところでどうにかなるもんではない。現に、さっきまで美取が死守していた『青海』のスペースにも監視役が黙ったとみて続々と上がり込んでいる連中がいるし。
「蓮さん。とにかく一旦校内へ入りましょう」
「はい。……あ、その前に、ちょっと」
俺は顔を上げて、『青海』の絵を間近で見上げた。
――光を跳ね返す鉄板に入った、複数のひび割れから覗く穴。穴の向こうには夏の海が拡がっていて、不思議そうに穴の一つからこちらを見返す裸の女性が描かれている。一つ一つの穴から覗く彼女の素肌にはそれぞれ違うパターンのグラフィティが描かれていて、足を見たら胴へ、胴を見たら手へ、手から瞳へと巧みに視線を誘導する構図になっているのだ。
しかも、絶妙に傾斜に合わせた描き方をしていて、思わず本当に女性が存在するのではないかと思えるようなトリックが、この絵にはある。
「トリックアートか……」
……これは昨晩ようやく気が付いたことだけれど、それはある程度離れて見て、初めて機能するトリックなのだ。
至近距離で穴を覗き込んだところで、そこにはただの線と、グラフィティしか目に入らない。とても人の体だとは認識できないようになっている。
全ての穴を一度にみて、俺たちは初めて女を……甲塚の体を見つけることができる……。
――コーコは、これを計算していたのだろうか?
そのとき、俺の目の前を記念写真を撮ろうとするヤマガク生徒の制服が覆った。
……何にせよ、もうこの絵は俺たちの絵じゃないってことだ。一度世に放たれた創作物を一旦腹に戻して伝え方を変えるなんてことは、誰にだってできやしないさ。コーコの意図は誰か一人が気付けばそれで良い。
「行きましょうか」
俺は背中を伸ばして言った。
「もう、いいのですか?」
「ええ。もう、いいです。……で、話って?」
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