第100話 コーコの秘密

 作業二日目の木曜夜。前日と同様の進入ルートで中庭に入ると、コーコは既に作業場に入っていた。昨日のうちに描いた線画を感慨深げに眺めている。銀色に輝く砂浜、空。女の裸体。


「コーコ……」


 声を掛けると、振り向かないまま肩をくいっと上げた。


「ここまで一つのグラフィティに気合いを入れたのは、ウチも初めてだ。……結構、良い仕上がりになりそうだと思わない? 千里の考えたグラフィティを描き込むのは大仕事だけど――うん。中々楽しくなってきた」


 確かに。


 この作業で描いた絵をストリートアートと言って良いのかどうかってところはあるが、普段使わない画材で、体全体を使った作業をするというのは新鮮だ。絵も、一日経って多少俯瞰的に見られるようにはなったが破綻はないように見えるし、多少の傾斜がある『青海』の向こうに、きちんと奥行きがあり、女の存在感を感じられるような気がする。


「よっし。それじゃあ、始めようか!」


「ちょっと待った。作業の前に話がある」


 腰をパンと叩いたコーコに、俺は早速冷ややかな言葉を浴びせかけた。


「何だよ。これからって時に……話って何だ?」


「どうせどん底で終わるなら、一夜の王になりたい――って、昨日言ったよな」


 コーコは鼻を掻きながら頷いた。


「ああ。言ったね」


「お前が知っているかは知らないけど、……あの台詞はさ、売れないコメディアンが犯罪を犯して、無理矢理に昇った舞台で言った言葉なんだ。一夜の王になるってのは、破滅を覚悟した人間の言う言葉なんだよ」


「ああ。そうなんだ」


「『青海』に絵を描く、なんて依頼――無かったんだろ?」


 核心を突いたことを聞くと、コーコは珍しく返答に困ったような顔をして黙った。ふらふらと考え事をする足取りで俺の周囲をぐるりと回り、正面に立ち直す頃には開き直った清々しい顔をしている。


「まあ、ストリートアートやる人間に、一々許可を取るような真面目な人間はいないよね」まいった、というように口をすぼめて細く息を吐く。「うん、そうだよ。依頼なんて真っ赤な嘘。誰に頼まれたわけでもないし、誰にも報せてない。ウチが描きたいと思ったから勝手に描いてるだけ」


「はああ~……!」


 俺は頭を抱えて深く深く溜息を吐いた。


 つまり、美取が危惧していたのはこの絵に関連した何かではない。この絵を描くこと、それ自体だったわけだ。


 学校のシンボルであるオブジェに、勝手に落書きをしてしまうなど――しかも落としにくいスプレー缶で! 叱責や自宅謹慎処分なんかではとても身は濯げない。犯罪だ。


 こっちは学校への侵入なんて可愛い悪事で罪悪感に苛まれていたっていうのに、コーコに関わって以来のこと一から十まで真っ黒な犯罪だというのだから……。痛くも無い頭を抱えようってもんだ。


「それにしても、よく分かったな。ウチが勝手に描いているってこと」


 開き直った態度のコーコが感心したように唸った。……人の気も知らないで。


「察しくらい付く。大体、そもそもこのオブジェも撤去予定なんか無いんだろ……!」


 ――今朝登校すると、教室に入るなり「ちょっと、話があるんだけど」と甲塚に腕を引かれたのだった。彼女の言うことにゃ、昨晩ふと気になって『青海』のことを調べ上げていたら、妙な事に撤去について言及している如何なる文書も確認できなかったという。


 言うまでもなく、『青海』はホームページのトップにも写真が掲載されているようなヤマガクのシンボルだ。それが撤去されるということになれば、ネット上で公表されていないことも、会話のやりとりに昇らないことも妙だ、と。


 そして最後に、


「佐竹。あんたあの不良女の口車に上手いこと乗せられちゃって、変なとこまで入れ込むなんてことはしないようにしなさいよ。あんたはヤマガクのあいつの手下じゃなくって、桜庭の、人間観察部の、私の! 手下なんだから」


 ――などと、ツッコミどころ満載の忠告まで頂戴してしまったのだった。


「なーんだ、それも知ってたの。でも気付くのが遅かったな。ここまで描いちゃったんだから。佐竹蓮も立派な共犯だい」


 何が「だい」だ。アホか。


「……犯罪と分かって、これ以上作業をするつもりは無いぞ。自分の高校ならまだしも、他校での不始末で退学になってたまるか」


 こんなことが知れたら、東海道先生がどんな顔をするか分かったもんではない。


「またまた。そんなこと言って……!」


 コーコはぎこちない笑い方をしながら、俺の両肩をがっしり掴んできた。その腕を、素早く弾くこういう体制で人の言うことは聞くもんじゃ無いと体が憶えていたんだろう。……というのも、郁がよくやるからなのだが。


 突き放された格好のコーコは、珍しく傷ついたように「……何だよっ!」と辺りも憚らず叫んだ。その甲高い声が、俺の感情のどこかを刺激したらしい。


「他人を巻き込むんじゃねえよ!!」


 ――そんな、コーコの叫びを凌駕する怒号がするりと喉から出てきてしまった。


 目の前のコーコが暗闇でも分かるくらいびくりと肩を震わせる。


 俺らしくない。女子に対して感情を露わにするなんて……でも、コーコのやっていることは郁の宮島キックだとか甲塚のアカウント特定とかとはワケが違う。有無も言わせず、他人を騙して、悪事に荷担させたのだ。ラインなら余裕で超えているだろ。


「……大声出して、悪い」


「う……。何だよ……何で……」


 一応口では謝ったが、俺の怒号にコーコはすっかりやられてしまったようだ。ブツブツと疑問を呟いては、視線をあちこちに泳がしている。


 ――こんなコーコは、見たくなかったかな。ちょっと。


「とにかく。俺は帰らせて貰うぞ。……絵は好きにしろ。完成させるなり、落とすなり……どっちも出来るか知らないけどな。この秘密の作戦からは一抜けする」


 毅然と踵を返して、


 ――あっ!! 本番どうすんだ!?


 と、絵を描く直前に決めた覚悟のことを思い出してしまった。甲塚の体を描く、郁にすけべ絵師であることを明かす。そもそも美取のことも全然調べが進んでいない!


 とはいっても、こんな劇的な手切れをしておめおめと絵を見に来られるわけもないし。


 ……ああ、どうしよう。もういっそ、甲塚にはあの裸のデザイン案を見せようか? いや、それはもう彼女のコンプレックスを払拭するとか以前に八つ裂きにされるだろう。流石に。


「――ウチと同じなくせに!!」


 立ち去りかけた中庭から、突如悲鳴の入り交じった叫び声が弾ける。


「……なんだって?」


 突き放した手前良くはないと思ったけど、思わず振り返ってしまった。中庭の『青海』前の暗闇に、ぽつんと泣き出しそうなコーコが弱々しく立っている。


「な、な、何だよっ。佐竹蓮なんて――佐竹蓮なんて、ウチと同じなくせに!! どうせ高校じゃ友達がいなくってさっ。学校生活っていうのに斜に構えて! そ、そのくせして、何時か誰かが自分を見つけてくれるみたいな……馬鹿みたいなこと考えて!」


「……」


「ウチら、……そうだったでしょ!? 失うものなんて何処にあるっていうんだよ! 二人で学校生活なんてものに唾を吐いてやればいいじゃん!!」


「コーコ。あのな」


 ゆっくりとコーコに近づいて、今度は俺が彼女の両肩を掴む。落ち着かせるために。


「ウチを一人に、するなよ……! 年下のくせに、自分だけ大人になったみたいな顔しやがってさっ……!」


「静かにしろ……取り敢えず。警備員に気が付かれるぞ」


「……」


 割とすんなり黙ってくれたが、ぐっと下唇を噛んで血が出やしないかと心配になる。


 ――まさか、こいつがそんな風に激しく思っていたなんて。普段の飄々とした、どこか人を寄せ付けない、あのコーコが。

 

 確かに、俺は学校に友達なんていないし、学校生活なんてものに斜に構えてるし、何時か誰かが自分を見つけてくれるんじゃないかという馬鹿な希望を枕に沈めた夜がある。……でも、それは前までのことなんだ。


 俺はもう、甲塚に見つかってしまったのだから。


「学校をぶっ壊すなんて、本気で出来ると思ってるのか、ただの落書きで」


「う……」


 甲塚の計画に比べたらまるで子供のままごとだ。緻密な計画もない、事前の下調べも甘い。大体アートに何かを壊す破壊力は存在しない。


 ただ、目の前に何かが変わると信じている女子が、一人ぼっちで立ってはいるわけだ。


「……」


 で、今こいつを見つけられるのは俺しかいない、と。


 単純なことか。


 誰かに見つかるのは、一人じゃなくなるってことなんだ。


「約束できるか?」


「……うぇ……?」


「約束。この学校を揺るがしかねない、とんでもない落書きを描いたのが俺とコーコであることを一生、誰にも言わない。誰かに尊敬されようと疎まれようと口を割らされそうになっても、絶対に知らない顔で通す。お前は俺を囮にして逃げたりしない。俺も誰に聞かれたってお前の名前は出さない。秘密を守ること、お前はできるのか」


 コーコは一瞬目を輝かせたが、すぐに俯いた。俺の言葉をじっくり頭の中で反芻しているらしい。再び目を合わせたときには、希望に満ちた光の中に覚悟の決まった鋭さが見て取れた。


「できる……約束する。秘密を、守る」


「あ、そう」


 結局こうなってしまうのか。甲塚が忠告してくれたというのに、しっかりと変なとこにまで入れ込んでしまった。今度忠告を貰うときは、身の振り方まで教えて貰うことによう。


「……じゃあ、まあ。やるか」


 俺はスプレー缶をコーコに放ってやった。

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