第99話 一夜の王よ

「何をしているんだ。佐竹蓮。悪いけど、ウチらにはあまり時間が無いんだ。急いで作業を進めないと、夜更かしになるぞ」


「あ……おう」


 早速『青海』に黒色を吹き付けるコーコの声で我に返った。そうそう、美取に彼女を止めて欲しいと言われたんだが……どうしろと。もう描いちゃってるんだけど。


 それにしても、ストリートアートっていうのを実際に描いている現場は初めて見たけど、何か凄いな……。


 今、『青海』は塗装している部分のブルーシートだけを取り外した状態で、顔に巻いたスカーフをマスク代わりにするコーコは、何処からともなく取り出していた脚立に昇って上の方から塗っているのだ。片手にはLEDじゃない裸の電球を持っていて、暖色の光で手元を照らしている。


 美取は、コーコが学校中の備品をかき集めていたというから、脚立や電球はあり合わせのものだろうか。


 このオレンジ掛かった色合いの中で作業をしている、というのがサマになっていて、高校生ながら一端のアーティストのオーラが出しているから感心してしまう。


 で……。


 俺は、コーコが線画を終えた部分に、女の体のラインを描いていくわけだ。


 スプレーは非常に隠蔽力の強い塗料を噴霧するので、まず初めに線画のようなものを描き、色を塗り、それから最後に線を描き直す。早速コーコの足下にあるビニール袋から黒色のスプレーを取って、カシャカシャ振りながら『青海』を間近で見上げる。


 デカい。デカすぎてどこから手を付ければ良いのか……口に入りきらない大きさのハンバーガーみたいなな感想を抱いてしまった。


「佐竹蓮。取り敢えず、そこの穴は大雑把に線だけ描いといたから。多少はみ出しても良いから描き始めて。ちょっとミスっても、後で塗りつぶせるから遠慮するなよ。こっちもすぐに終わらせるからな」


「お、おう。……しかし、この脚立だの何だの、一体どうやって持ち込んだんだ?」


「別に持ち込んじゃいないよ。裏手にちょっとスペースがあるから、ブルーシートに紛れて隠してたんだ」


「よくバレないな」


「わざわざ中を確認しようなんて奴はいないからね。皆自分の準備に夢中で、こんな粗大ゴミ見向きもしないんだ」


「粗大ゴミってなあ……」


 あまりにも酷い言われようではないか。制作者どころか、この『青海』そのものが憐れな存在の塊に思えてきてしまった。


 とにかく、俺は事前のデザインをしっかり確認した上でサッと上から下に流れる曲線を二本描いた。女の体を描くと言ってもミクロな作業はこんなものだ。ただし、俯瞰して見たときのバランスが大事ではあるので、絶妙な塩梅で下へ行くほど図柄は縮小し、上へ行くほど拡大しないといけない点は注意が必要となる。


「一体なんでこんな仕事引き受けたんだ?」


 俺は、そんな所から話を切り出してみた。美取が危惧しているコーコの企みは俺には分からないが、あれほど俺に頼み込んできたんだ。美取なりに察しが付いているものがあるのかもしれない。


 そして、それは多分オブジェに絵を描く仕事と関係している。

 

「今更何? あと、忘れてたけど口を覆った方が良いよ」


「あ」


 地面に転がったビニール袋から、安っぽいスカーフを取り出してコーコのように巻き付ける。


「いや……美取が心配していたみたいだからさ。お前、なんか企んでいるんじゃないか?」


「風紀委員のことなんてマトモに取り合う必要は無い。あいつは変わりものだからな」


「変わりもの? どこが。美人で真面目な人気者の風紀委員。おまけにモデルまでやってるんだろ」


「それだけ完璧なのは立派な変わりものだ。……それに、ウチはあの風紀委員、何か臭いと思うんだよな」


 高所での作業を一旦終えたコーコが脚立を降りてきた。今度は俺が昇る番だ。


「佐竹蓮は、この高校どう思う?」


 下の方から逆に質問を返されてしまった。コーコはもう一枚ブルーシートを取り外して、主な見せ場になる大きな穴を豪快に描き始めている。

 

「普通に良い高校だと思うけど?」


「どこら辺がさ」


「有名人がたくさんいるし、校舎は綺麗だし、学祭も桜庭とは比べものにならないくらい賑わっている。あと、警備もしっかりしてる」


 コーコは俺の方を見上げてカラッとした笑顔を見せた。


「それは、この高校の良い部分しか見ていないから言えるんだろっ。実際に一年も通えば、この高校のキラキラした部分はキラキラしていない生徒の普通さに支えられていることに、気付く筈だ」


「それは……どこもそんなもんだろう」


 そう言葉では同意しながらも、俺はちょっと肩透かしを食らったような寂しさを憶えていた。


 丁度繁忙な時期にこの高校に忍び込んで、たまたま美取というピラミッドの頂点に立つ女と顔見知りになった。迷うほど広い校舎。ショーケースに飾られた優勝旗。俺がヤマガクについて知っていることなんてそんなもんだ。


 実際には、この高校には美取みたいな人間よりも美取になれなかった人間の方が多いし、優勝できなかった部活動の方が多いんだろう。

 

「ヤマガクじゃ、夢を叶える人間より夢を諦める人間の方がよほど多いってこと。で、二年のウチはそんなヤマガクという環境に嫌気が差してるわけ。……この、くだらないオブジェにもね」


 コーコは目の前の鉄板をノックするように叩く。それが思ったよりも強く響いてゴオン――と中庭に鐘の音のように響いた。


「……」


 その文脈で怒りを感じているなら、お前は夢を諦めた側の人間になるんじゃないか――


 こんなコーコにも、いや、こんなコーコだからこそ、かつて夢見た時代があったのか。


「そんな時に、この話が来たというわけ。このクソみたいな学校の、クソみたいなオブジェに落書き出来るんだ。断る理由は無いね」


「その理屈なら、それこそ落書きで良かったじゃないか。何も俺や千里まで巻き込んで、お前の言う落書きのデザインを練る必要は無かったと思うけど?」


「それは――おい!」


「うおぅ!?」


 突然コーコが低い声で叫んで、俺ごと脚立を倒してきた。あまりにも急なことだったので、受け身も取れずに芝生に叩き付けられる。その、倒れた俺の上に――


「ぐえっ……!」


 脚立が地面に落ちる、すんでのところで倒れ込みながら脚立の足を掴んだコーコがのし掛かってきた。コーコの柔らかい体が……という男子にありがちだろう感想の前に、単純に体重と骨がぶつかり合う痛みで呻いてしまう。


「静かに……! 廊下を警備員が巡回している。動くなよ」


「はっ……!?」


 首だけ曲げて、中庭を囲う校舎一階の窓を見やると、本当に懐中電灯の明かりがふらふらとちらついているのが見えた。急に近づいたコーコの体温で上がり掛けた体温がギュッと下がる。


「お、おい。やばくないか? 今絵を見られたら……!」


 オブジェは通常ではブルーシートが掛けられている。それが今捲られているのだ。警備員がこの異常に気が付いたらこちらへ近づいてくるんじゃないか。


「分かってるっ! 幸いこっちの様子には気付いていないみたいだ。このまま動かないでやり過ごすぞ」


 ……マジかよ。


 俺は今までコーコを恋愛対象として、ましてや女性として見たことは一度も無い。


 しかし、だけど、こう――体の突起が触れ合う距離感になると、そんな前提もぶっ飛ぶくらいコーコという存在の細部を意識してしまうのは、仕方がないこと……だよな。


 なんか、体中から汗が出てきた。なんでこういう状況で汗というものは出てしまうんだろう。


 懐中電灯の光は、飽くまで廊下の床を照らしているようで、こちらには直接届いてこない。でも、その時が来るとすれば、直ちに俺とコーコは見つかってしまう。


 こんな状況で、コーコは……? と、顔を見たら、スカーフで覆っていない部分が暗闇でも分かる程の赤くなっている彼女と目が合ってしまう。


 互いの息を顔に当てるまま、警備員がふらふらとコの字の廊下を渡っていく。


「佐竹蓮は……」


 小声でコーコが俺の名前を呼ぶ。


「唯の落書きに手を抜く能力がある?」


「……無い、かな」


「壁に絵を描く犯罪行為が、佐竹蓮にとっては唯の落書きかも知れない。だけど、ウチにとっては多分、この学校生活で最初で最後のチャンスなんだ……こんなこと、佐竹蓮に言うのは恥ずかしいんだけど」


「ああ。いや」


 こんなコーコにも人並みに、人並みなことに憧れる部分はある、と。別に衝撃ではない。幾ら奇天烈なキャラクターであっても、人間らしい一面があることは甲塚と接していて重々承知しているつもりだ。


 ……コーコも、キラキラしている人種に憧れはあると。


「どうせどん底で終わるなら、一夜の王にでもなりたいよ。……てのは映画のセリフだっけ?」


「ああ」


 風に吹かれて流れたコーコの髪が、俺とコーコの顔を間を覆った。


「ウチを王にして。……それで、二人でヤマガクを破壊してしまおうか」

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