第79話 部長の許し
子供の頃の不思議なできごとを話すうち、いつの間にやらとっぷりと時間が経過していた。
「そろそろ、郁の片付けが終わる頃合いじゃないか?」
時計を見上げて言うと、結構夢中に話を聞いていた甲塚はもハッとした。
「そういえばそうね――いや、それより結局どうなったのよ。佐竹はその女に捕まったの?」
「捕まんなかったよ。一人で知らない歩道を延々と歩いていたら、そのうちパトカーが横で停まってさ。定食屋の爺さんか、駐車場で俺の様子を見ていた人が通報したんじゃないかな」
「そう……」
警察から引き取られた俺を待っていたのは、呆気ないほど変わらない日常だった。親は女のことについて何も聞いてこなかったし、翌日の朝にはいつも通り郁がマンションの前で待っている。学校には見慣れた友人たちの顔ぶれがあった。
親の反応の薄さについては、もしかしたら朝、俺が寝ている間に女が両親に何かしらの連絡を取ったのかもしれない。
なんにせよ、結局、今みたいに不思議な出来事として話せるくらいにはあの体験にショックを受けていないわけだ。俺は。我ながら肝が太いというか、鈍感というか……。
しかし、目の前の甲塚は複雑そうな表情で俯いていた。
「……あのさ。そんな深刻そうな顔をされると、俺が可哀想な奴みたいになるだろ」
堪らず俺が突っ込むと、甲塚は顔を上げて頭を振った。
「そんな話、逆にどんな顔で聞けって言うのよ。それに、多少贔屓目で見てあげたら、佐竹は少し可哀想かもね」
「こんな話、笑い飛ばせば良いんだ。可哀想って思われるのは嫌なんだよ。嫌、というか、本当に可哀想な人に申し訳ないような気がする。俺はあの一件でショックを受けたわけでも、トラウマを植え付けられたわけでもないし……」
「あ、そう」
その時、机の上に置いていた俺と甲塚のスマートフォンが震えた。案の定、郁から「今終わった! 来て!」という連絡が来ている。待ち時間は大体三十五分ってところか。タイムオーバーには違いないけど、郁にしては頑張った方だろう。
「良かったな。二時間も俺んちで待つ羽目にならなくて」
俺は見送るつもりで立ち上がった。
甲塚もゆったりとスマートフォンをポケットに入れて立ち上がる。が、何が気になるのか、立ち上がり掛けた半端な姿勢で止まってしまった。
「私は別に…………。こ、こっちで寝ても良いんだけどね」
「……は!?」
「だ、だって、蓮以外に家の人いないんでしょう! 居間のソファとか、最悪カーペットの上で寝れば良いし。それに、着替えてスッキリした後にまた雨の中を歩くのも、どうも億劫というかね……」
「馬鹿。向こうはお前が泊まるからって色々準備してくれてるんだぞ。幾ら人見知りだからって現実逃避にも程がある。……というか、それ以前の問題が色々あるだろ!」
「うっさいわねえ」甲塚は溜息を吐くと、廊下を先に歩いて行った。「そんなこと分かってるわよ。言ってみただけ! ちょっとした冗談でしょ。マジに受け取らないでよね。ほんっとすけべなんだから……」
「俺がすけべなことは関係ないっつの。常識の話をしてるんだよ」
そう言いながら、濡れた靴をはき直す甲塚を通り越して玄関の扉を開いた。そこで気が付いたのだが、さっきは屋内でも容赦無く聞こえていた雨音が今は少し落ち着いている。止んだわけでは無いだろうが、丁度外に出るタイミングに雨量が少なくなる瞬間が重なったみたいだ。
「ほら。今は丁度雨が落ち着いているみたいだぞ」
「はいはい。……ああっ、もう。濡れた靴ってなんでこんなにキモい感触なんだろ! せっかく足洗ったっていうのに!」
「どうせ郁の家で風呂入るんだろ。文句言ってないで、今のうちに移動するぞ」
甲塚は几帳面にもしっかりと裸足にスニーカーを履き込んでいた。学校のカバンと濡れた着替えで両手が塞がっているから、俺が傘を差してやる他無いだろう。
俺がシューズロッカーの縁に掛けていた親父のこうもり傘を持って出ると、甲塚が玄関の内からこんなことを言い出した。
「――ねえ、蓮。あんた、本気で子供の頃の事件が大したことないって思ってる?」
「あん?」
俺は、こうもり傘の先を地面に突いて振り向いた。
甲塚は両手にそれぞれ荷物を持ったまま、俺を見つめている。
「さっきも言ったけど、別にショックを受けたわけじゃないんだよ。トラウマも。だから、あんな出来事は大したことじゃない。……俺を見てみろよ! 普通に、健全な、人並みに隠し事を抱えている男子高校生だろ!」
俺は両手を広げて笑って見せた。
それを、甲塚はあくまで仏頂面で眺める。
「あのね、蓮。あなたは客観的に見てショックとトラウマを受けてる」
「……」
「それに、自覚出来るショックとトラウマだけが、人生に影響を与えるものじゃないと私は思う。……あんたが今ダンゴムシになっているのは、その出来事が全く影響していないと、本気で思ってる?」
「……」
「私がはっきり言ってあげるけど、断じて違うわよ。あんたはね、子供の頃のそんな恐ろしい出来事が原因で、友達がいなくて、すけべで、変な部活の一員にされるような人生になっちゃったのよ」
「……なんか無茶苦茶なこと言ってないか?」
甲塚は、鼻の下を指で擦って笑った。
「くくく。あんたは自分の力ではどうしようも出来ない、周囲の環境のせいでこんな目に遭ってるってこと。残念だったわね、私なんかに目を付けられてさ」
「……それって、典型的な現実逃避ってやつだよな」
「ばーか。蓮は私の部員なんだから、大人しく私の言うことを鵜呑みにすれば良いのよ」
そこまで言うと、ようやく甲塚は玄関から出てきた。言いたいことを言いきったような、スッキリした顔をしている。
しかし、面と向かって環境のせいにしろ、何て言われると清々しい気分になってくるのが不思議だ。
「俺はお前の部員じゃなくて、人間観察部の部員なんだからな。……強いて言えば、東海道先生の部員なわけで……」
「うっさいわね。雨が止んでる内に早く行くわよ」
そう吐き捨てると、俺の住んでるマンションを我が物のように歩いて行く。俺は慌てて追い縋りながらも、そういえばこいつ俺のこと名前で呼んでいるなと気が付いていた。
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