第78話 般若

 眼を覚ますと、既に車は知らない道を走っているところだった。


 昨日は夜のうちに随分郊外まで来たものだと思っていたけど、今走っている道は最早田舎だ。屋根の低い家々すら無く、地平線まで車のいない道路の両側には延々と田んぼや畑が拡がっている。

 

 起き出した俺がキョロキョロ周辺を眺めていると、煙草を咥えてハンドルを握る女が目も向けずに言った。昨日よりは随分蓮っ葉な態度だ。その頃は、『蓮っ葉』なんて言葉知らなかったけど。


「今ね、温泉に向かってるの」


「温泉?」


「そう。朝にお風呂入るとスッキリするでしょ」


 そういえば、結局昨日はイタリアンに行った後はそのまま車で寝ちゃったんだっけ。


 子供の俺は、確かに朝に温泉に行ったらスッキリするだろうなあと思った。そんな、どうでも良いような共感がどうしてか女に対する警官心を一段階引き下げる。


「着替え持ってきてない」


「……着替え!」


 女は、その発想は無かったというように言うと、咥えていた煙草を全開の窓からほっぽり出す。ポイ捨てだ。その仕草で、俺の中の警戒心が今度は一つ上がる。


「そういえば、私も着替えなんて持ってないわ。温泉行く前に、服買おうか」


「こんな所に服屋なんて無いと思う」


「探せばあるのよ」


「無いと思う……」


 何しろ、周辺は家屋一つ無い田舎風景である。


「絶対にある。良い? その気になって探しさえすれば、どんな場所にだって服屋も温泉も見つかるのよ。田舎道でも砂漠でも、月の裏にだってある」


 無いと思うけどなあとは思ったが、ハンドルを握っている女がそこまで言い切るのなら俺としては文句の付けようが無い。


 ところが、地平線に段々と古くさい建物の影が見えてくると、あっさりと服屋――というか、滅びかけのブティックが見つかったのだ。


 店先の道路に車をドカンと停めて、試着もせずに子供服と自分の服を買い込む女を、俺は助手席から唖然と見つめていた。まるで未来を知っていたような女の態度が、当時の俺には不思議で仕方なかった。

 

 後の事を考えれば、女はその時もう死ぬつもりだったのだろう。死を腹に据えた人間というものは、ある種の霊感を持つものなのかも知れない。


 同じ街に、銭湯があった。女は先程買った服をタグが着いたまま寄越して二人分の料金を払うと、さっさと女風呂へ歩いて行った。勿論俺は男湯だ。


 女がどれほど入っているかも分からない俺は、カラスが行水するみたいに湯船でさっと汗をかいて、体を洗い、上がった。何となく、女が俺より先に上がってしまったらこの知らない土地に置いていかれるような気がしたのだ。その直感は、今振り返ってもそれほど間違ってはいなかったように思う。


 つまり、俺が女の下から逃げ出すチャンスは余りあるほどあった。だが、人間というものを信じていた俺にはそんな考えはちっとも浮かばない。

 

 温泉を出た後は、そのまま同じ街の小さな食堂で何かの定食を食べた。その時、初めて年老いた店主から俺たちに怪訝な目が送られた。


 顔見知りしか来ないような店に来た、女と子供だ。それも、子供の方はタグが着いたままの服を着ている。視線に気が付いた女は警戒心を丸出しにして半分も料理に手を付けず、じっと俺が食べ終わるのを待っていた。だが、結局俺たちは何事も無く店を出た。


「ま、親子には見えないか」


 車に乗り込むと、自嘲気味に笑った。


 それから、女は暫く無言で車を走らせた。特に話題は無かった。車中は、ラジオで掛かっていた流行の歌と、窓から吹き込む風が絶えず流れていた。そのうち俺は退屈の余りうつらうつらと眠ったり眼を覚ましたりを繰り返す。


 それでも、唯一印象に残った会話があった。

 

「ぼく、おばさんのこと怖くないの」


 歌と風の音の中で呟いた女の声を、俺はどうしてか聞き逃さなかった。


「あんまり怖くない」


「どうして?」


「優しそうな人だと思うから……」


 女は高らかに笑い声を挙げた。


「世の中、一見優しそうな人ほど怖いものよ」


「じゃあ、怖そうな人は怖くないの?」


「勿論怖そうな人は怖いわよ。でも、怖そうな人は一目で怖いと分かる分、お友達にならないことも出来るでしょ。それに、案外怖がりなこともある……」


「ふーん」


「むしろ、一見優しそうな人が怖いのは、その怖さが分からないことよ! そういう人間に騙されて、お友達になっちゃったら恐ろしいわ。本当の怖さっていうのは、お友達になってから見えてくるものなんだから……」


「ふーん……」


 車はいつの間にか郊外に戻っていた。


 女は何も告げないまま、ホームセンターの広い駐車場の、入り口から最も遠い位置に車を停める。


「じゃあ私、ちょっと買い物してくるから」


「うん」


 それから、長い時間を俺は車中で過ごした。


 考えるのは、女のさっきの話である。


 ――人の怖さ……。


 俺の小学校の友達の中に、そんな怖さを抱える人間はいるのだろうか。分からない。一見優しそうな人ほど怖いという実感のこもった話は、子供の俺にはホラー映画に出てくる怪物が実際にいるんだと囁かれたようなものだった。


 あの女は、どうなんだろう。


 家のクローゼットから出現するという不気味な衝撃と共に現れ、半ば脅迫されるような形で車中泊をして今日。……女が優しそうに見えるという俺の感想は嘘じゃない。温泉にも連れて行ってもらったし、新しい服まで買って貰った。それに、あの田舎道から郊外まで車を走らせたところを見ると、結局俺を家に帰すつもりなのではないだろうか。


 女が店先に立っていたのは、大体一時間ほど後の事だった。何か重たそうなビニール袋を左手に抱えて突っ立っている。俺がその女に気付いた時、丁度目玉を上目遣いに俺へ向けていた。


 目を合わせた瞬間、女が大股でこちらへ近づいてくる。その顔が、さっきまで隣で運転していた女のものとはとても思えない。重ねて言うが、俺は女の顔を覚えていない。しかし、その時はハッキリと鬼に――般若に変わるまでの彼女の顔を見たのだ。


 怖かった。溜まらなく。


 俺は一人車中で叫び出すと、慌ててドアをガチャガチャ引いた。開かない。鍵が掛かっている。どうやってこの鍵は開けるんだろう? そうしている間にも、女は十数メートルの距離に迫っている。右手に掲げたビニール袋には、七輪が入っている。


 ……窓だ! と、咄嗟に思った。運転席の窓は開きっぱなしのままだったのだ。俺は土足であるのも気にしないで、必死に窓から体を引き摺り出して、地面に落ちた。落ちた拍子に、強かに肘を擦りむいて血が溢れ出したが、もう全力で道路に飛び出し、そのまま知らない住宅の隙間に逃げ込んでいった。……


 これが、俺の小さい頃の不思議な体験だ。


 それ以来、家の扉は開いたままにするようにしている。


 闇があれば、そこに般若が立っているような気がするんだ。

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