第77話  @ rensの、自覚の無い秘密

 帰宅した家のクローゼットに知らない女が入っていたのは、小学校高学年の、何てことは無い平日だった。その頃の俺には同級生の友人が多くいて、郁の印象を疑わなければ『人気者』ってやつだったのだと思う。


 父さんはその頃家にいて、母さんは今のような夜勤勤めの生活では無かったから、家に帰ると大抵夕方には家族と顔を合わせてご飯を食べる。


 ところがその日は、夕方になっても親は帰ってこなかった。珍しいことじゃない。俺は部屋の布団に寝転がってで漫画を読んでいるうちに一眠りしてしまって、起きたら開きっぱなしのカーテンから真っ赤な夕陽が部屋に差し込んでいた。


 台所でジュースをコップに注いで、ダイニングテーブルで飲む。そのとき、何の気なしにクローゼットの扉が半開きになっていたことに気が付いたのだった。


 その戸に手を掛けると、何か妙な気配を感じた。


 異音を聞いたわけでも、異臭がしたわけでも、勿論異物が目に入ったわけでもない。強いて言えば、この中に恐ろしい何かが隠れているのではないか、という子供らしい妄想の気配をそこに感じたのか。俺は半ば冒険心に押されたような勢いで戸を開いた。


 そこに、女が立っていたのだ。


 季節外れのロングコートに、無造作に伸ばした長い髪は傷んでいて、所々に白い毛が混じっている。コートの下は、どこかの会社で働いている女の人、という印象だった。


 俺は叫ばなかった。人間、心の底から仰天したときは案外呆然としてしまうものなのだ。


 女は慌てた風でもなく、茶色いストッキングの足を居間へと滑らせて言う。


「ぼく。お父さんは?」


 俺は黙って首を振った。声を出そう、という考えは思い浮かばなかった。


「お母さんは?」


 再び、首を振る。


「そう……」


 女はつまらなそうにダイニングテーブルに座ると、俺が口を付けたジュースを一息に飲んだ。それから、呆然と突っ立ったままの俺を眺めて笑った。不思議そうな表情でクローゼットから現れた自分を見つめる子供が愉快だったんだろう。


 実際その時の俺は頭の中が真っ白だった。


 だが、後々になって思うことは、ショックを受けたときの子供の反応ってそんなものではないかということである。表からは無痛のような表情でいて、後頭部には強かに殴られた痕が残っているような……。


 女はにたにた笑いながら俺の目の前までやって来た。何か、楽しいことを思いついたような笑顔だった。膝を折って、洞穴の様な目を俺の高さに合わせる。


「ぼく、今日はおばさんとご飯食べに行くんだって。何食べよっか?」


「え?」


「何、食べたい?」


「……スパゲティ……?」


「良いわね。それじゃ、行こうか」


 女は俺の腕を掴んで、シャキシャキと歩き出した。


 女の顔は覚えていない。というか女について殆どのことを、俺は覚えていない。時たま当時のことを悪夢のように思い返すことはあるけれど、記憶の中の俺はマネキンみたいな長身の女に連れられていて、吹き出しの中で喋る彼女と話をしているのである。


 女はマンションを出ると、表に停めてあった車の助手席に俺を乗せた。それから前を回って運転席に座ると、


「ふうっ」


 ――とコートから包丁を取り出して、ダッシュボードの中に放り込んだのを鮮烈に記憶している。


 その時、初めて俺は横に座っている女が危険な人間だと気が付いたんだ。


 *


「ね、ねえ。ちょっと待って」


 小さい頃の俺が不審者の車に乗り込んだ所まで喋ると、スウェットを着た甲塚から待ったが掛かった。


「なんだよ。中途半端な所で止めやがって」


「……え? じゃあ何。その女は、包丁を持って、あんたの家のクローゼットに隠れてたってことなの?」


「そうだよ。季節外れのロングコートは、長い凶器を隠すために着ていたんだろうな」


 甲塚の顔が段々青ざめてきた。何しろ、そんな出来事があったクローゼットは今、彼女の目の前にあるのだ。


「あの人がどうしてこの家に入って来られたのかは分からず終いだな。家に帰った俺が、うっかり鍵をかけ忘れたのかも知れないし、どうにかしてウチの合鍵を作ったのかも知れない。とにかく、女は何か……目的があって、クローゼットに忍び込んでいたんだろうな。それも、初めに父さんのことを聞いてきたってことは――」


「佐竹のパパの、その……。浮気相手、だった?」


 言いにくそうにしながらも、話を聞いた責任を背負うような顔で尋ねてくる。

 

「俺はそうだと思うんだけど、どうかなぁ。今となっては確かめる術はないし」


 何しろ彼女は今、生きているかどうかも分からないんだ。


 *


 それから、俺は女の走らせる車で知らない街の知らないイタリアンで本当にスパゲティを食べさせて貰った。


 俺が住んでいるエリアからは少し離れた、やや郊外だったと思う。というのも、女が危険人物だと気付いた俺は、隙を突いて家に帰れやしないかと命がけの思いで道を憶えようとしたのだ。結局、道を六回程度曲がった所でわけが分からなくなってしまったのだけど……道が段々と広く、建物の高さが徐々に低くなっていったのはそういうことなんだろう。


 郊外のイタリアンレストランの客は、俺たちの他には近所に住んでいるだろう老夫婦が二組だけ。年季は入っているものの清掃が行き届いた狭い店内は、当時小学生の俺には全くの異世界だ。


 食事をする間、俺たちの間には全く会話が無かった。店内にいた客も店員も優しそうな大人だ。もし俺が声を挙げたら、助けてくれるかも知れない。


 だけど、俺はそうしなかった。


 今となっては笑ってしまう話だけど、そのときの俺は本気でスパゲティを食った後は家に帰して貰える可能性が高いと考えていたのだ。それほど、俺は人間の口から出る言葉を信じていた。


 ……しかし、誘拐犯と、誘拐された子供の二人だった。もしかすれば、女は俺が妙な動きをしないかと注視するあまり無言になっていたのかも知れない。その証拠に、イタリアンを出た後の車中では打って変わったように俺に喋り掛けてきたんだから。


 やれ、学校は楽しいかだの、何が流行っているのかだの……親戚の叔父さんが振るような話を散々飛ばされて、気が付けば車はどこか広い駐車場の隅で停止していた。


「さっきお父さんから連絡があったんだけどね。今日はお父さんもお母さんも急な用事でお家に帰れないんだって。だから、おばさんが蓮君のこと頼まれてるんだ」


「ふーん。分かった」


 俺はあっさり話を呑み込むフリをしながらも、いや、この人が電話を出来たタイミングは無い筈だと冷静に考えていた。……女の方も、俺がそう考えているのに察しが付いていたような気配だ。つまり女が言い出したのは、取り敢えず共通認識としてそういうことにしておくから、今日は家に帰すことはしないという宣言だったんだ。


 女に家から連れ出されてからは異常な体感速度だった。多分非常に緊張していたんだろう。そのせいか、女が寝静まってからこっそり車を出るつもりが、いつの間にか俺もすっかり熟睡してしまっていた。

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