第76話 閉めない扉

 俺は一足先に玄関を上がると、甲塚が靴を脱ぎやすいように明かりを付けた。それでも未だにもたもたしている彼女に目を向けたら、


「私、靴下まで濡れちゃってるんだけど……」と、困りあぐねた目で訴えてきた。


「良い、良い。気にしないで上がっちまえ。どうせ俺も濡れてるし、後で拭くんだからさ」


「そう? なんか、悪いわね」


 甲塚は言われた通りに玄関を上がって着いてきた。廊下を歩きながら不思議そうに首を回している。そうしている間にも、寒そうに掌を擦り合わせているのが如何にも憐れに見えてきてしまった。


 俺は居間へ案内する前に、途中の洗面室を指差す。

 

「あのさ、体拭いて、着替えるくらいはしていくか。甲塚が良かったらだけど」


「え?」甲塚は掌を擦りながら、俺の指差す暗い洗面室を覗き込んだ。「お言葉に甘えたいところだけど……ああっ。せめて宮島に着替えでも借りてくれば良かった!」


 甲塚は思ったより俺の提案に乗り気だ。もうここまで来たら使えるもんは使ってしまおうという気概を感じる。


 しかし、着替えか……。


「俺のスウェットで良ければ、貸すけど」


 パッと思いついたままにそう言った。冬場にいつも部屋着にしているスウェットなら、多少オーバーサイズにはなるけど甲塚が着ても問題無いと思ったのだ。


 一方、流石に甲塚はこの提案に身を引いてきた。


「うわ。……佐竹、自分の部屋着を女子に着せる趣味でもあるわけ?」


「馬鹿、違うって」考えてもみれば当然の反応だが、好意を無碍にされた俺はちょっと気分がささくれ立ってしまった。「どうせ向こうで風呂入って、着替え借りるんだろが。……郁が部屋掃除してる間に、濡れた服着て風邪を引くってのも馬鹿みたいだろ。タオルで体拭いて、乾いたスウェットに着替えるだけでもましになると思ったんだよ……」


 溜息を吐いて早足で居間へ行こうとすると、突然甲塚が裾をくいと引っ張ってきた。


「お、怒らないでよ。……冗談じゃない」


「……」

 

 こいつ、冗談なんて言えたのか……!?


「あ。……あ、そうなの?」


「服、貸してくれると助かる。あとタオルと……濡れた服入れる、袋とか」


 甲塚は少し赤めた鼻を人差し指で掻きながら言った。

 

 *


 リクエストされたものを洗面室の甲塚に渡した後、俺は居間の食卓でちょっとゆっくりしていた。三分くらいそのままぼんやりとして、そういえばこういうシチュエーションでは家の人間が茶でも出すもんだったかと思い立った。


 台所でヤカンに水道水を入れて火に掛ける。その火を眺めていると、そういえば俺の方こそ濡れた服のままであることに気が付いて、慌てて自室で着替えた。それから自室で三十秒ほど放心していると、居間の方でヤカンが沸騰した音が鳴ったのであたふたとそちらへ戻って、二人分の湯飲みにティーパックとお湯を淹れた。


 湯飲みをダイニングテーブルに運んだところで、今度は洗面室の方から「ねえー!」と甲塚からのお呼びが掛かったので、パタパタと閉まった洗面室の扉の前に移動した。


 ……なんか落ち着かないな。こういうのって慣れてないからか。


「どうした?」


「濡れたタオル、どうすれば良い?」


「あー……と、洗濯機あるだろ。その中に入れといて」


「ん」


 甲塚の相槌を聞き届けて居間に戻ろうとしたら、すぐさま甲塚が扉を開いたので驚いてしまった。


「悪いわね。色々借りちゃって」


 スウェットに着替えた甲塚はさっぱりした表情で言った。


「良いよ。勉強教えて貰った礼だ」


「靴下も濡れてたから脱いじゃった。一応シャワー借りて流したんだけど、裸足で歩いて平気?」


 足下を見ると、見慣れない甲塚の足の指が露わになっている。


「あ、うん。別に気にしないぞ」


「了解。スウェット、洗って返すから」


 気軽に頷くと濡れた衣服の入ったビニール袋を担いで居間へ向かった。


 甲塚はさっぱりして上機嫌になったみたいだ。濡れそぼった服を脱ぎ捨てて開放感に満たされているという感じだな。

 

 ……そういえば、下着はどうしたんだろう。あの濡れようだから、水を吸っていない筈は無いのだが――まさか、スウェットの下って……。


 俺は脳みその底から妄想がぐんぐん立ち上ってくるのを、頭を振って払った。


 居間に入った甲塚は、入り口でまた不思議そうに部屋を見回して首を傾げている。


「ほらほら。お茶が入ってるぞ。突っ立ってないで座れよ」


「くくく。気が利くじゃない、佐竹のくせに……」


「お前は一々俺を馬鹿にしないと気が済まないのかな」


「結構感心してるのよ?」甲塚は椅子に座りながらにたにた笑って言う。「どうせあんたのことだから、家に同級生を上げたのなんてこれが初めてなんじゃない。その割には、細かいところに気が付くと思ってね」


「まあ、郁を除けばお前が初めてってことになるかな……。部長に褒めて貰って光栄ですよ」


「くく……」


 甲塚は、例の不気味な笑い声を挙げながらもありがたそうに湯飲みを両手で包み込んだ。それから、少し真剣な表情に持ち直して言う。


「――それにしても、本当に親いないんだ」


「ああ。父さんは今地方に出向していて……母さんは、夜勤の仕事入れてるんだ。だから、俺の家って微妙に生活リズムが合ってないんだよな。中々顔合わせることがないんだ」


「寂しくは無いんでしょうね。佐竹のことだから」


「気楽だよ。お陰で堂々とすけべ絵師の活動ができる。……そっちは?」


 甲塚は少し微笑んだまま頭を振った。


「……察しは付いてるでしょうけど、同じようなもんよ。ママは今、別の高校で教師をしていて。パパは小学生の頃にいなくなった」


 俺は目を剥いた。なにが同じようなもんだ。全然違うじゃねえか。


「いなくなったって……?」


「多分、失踪したんだと思うのよ。ママはその頃のこと余り話さないけど、小学生の頃は無言電話とか、郵便ポストに封筒に入ったカッターの刃とかが届いたりしてて。……今考えたら、借金していたんだと思うのよね。パパが姿を消したのは、多分それが関係しているんだと思う」


「……」


 甲塚の父親が、借金? 今までの情報を整理する限り、甲塚の父親は理事長の息子ってことになる筈だが――相当金遣いが荒かったのか。それとも、妻と子供は怖がらせて、親には迷惑を掛けないというような人格の持ち主だったのか。


 複雑な家庭環境に加えて、幼い頃の恐怖体験。これほど凄絶な幼少期を辿っていちゃあ、甲塚の人見知りにも説得力が生まれてくる。


 というか――今が絶好のタイミングかもしれない。


 俺が、甲塚が理事長の孫だと知っている事実を告白するのは。


「……あの、」


「それにしても、この家不思議」

 

 俺が話を切り出そうとしたら、丁度甲塚の方から話を被せてきた。


「この家が、不思議だって? どこが?」


 そういえば、さっきから不思議そうにあちこちを眺めているけど。


「どこがって言われたら……そうね……。例えば、どうして全部の部屋の扉を開いたままにしてるの?」


 俺は振り向いて廊下の方を向いた。確かに甲塚の言うとおり、扉は開け放したままで廊下が一目で確認出来るようにしている。そもそも俺は家で扉を閉める習慣が無いのである。そのことに疑問を感じたことは無かった。


「……ん? 何かおかしいか?」


「それだけじゃないわよ。居間を見て驚いたわ。クローゼットの戸も、物置の戸も開きっぱなしじゃない。震災対策か何かなの? これ」


「いや、だって……怖いだろ? 扉閉めたままだと」


「何が?」


「何がって……いたら。ビビるし、嫌だろ。だから開けてるんだけど」


「く……くく」


 甲塚は、何故か引きつった笑い声を挙げる。両手に包んだ湯飲みを口に運んだが、手がぷるぷると震えていた。


「まるで、な、何かが出たことあるみたいな言い方だけど……?」


「何か勘違いしているようだから言っとくけど、別にウチは幽霊なんか出ないからな。高校生にもなって、まさかそんなメルヘンなこと信じちゃいないだろうけど」


「……」


 甲塚は黙ったまままた湯飲みを口に付けた。指の震えは止まっている。気のせいか、若干眉間に険が寄っている気がする……。


 俺は溜息を吐いて、事情を説明することにした。


「昔、クローゼットの中に人が入ってたんだよ。知らない人が」


「……は?」

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