第75話 濡れそぼった二人
学校から家までの歩き慣れた道のりは短い。
だが、学校の校門を出た所の信号に引っ掛かって、俺たちは地面を跳ね返る雨に随分足下を濡らされてしまった。それでなくとも、駆ける足には蹴り返した水たまりが納豆のように糸を引いてくるのだ。
「こりゃ酷いな!」
横断歩道を渡りながら唸った。
一応傘は持ってきていた。持ってきていたが、折りたたみ傘だった。こんな豪雨の前じゃあ、頭にハンカチを乗せているのとそう変わったもんじゃない。
「大雨だあっ」
「見たら分かるって! 早いとこ行くわよ!」
郁の方はもう少し立派な折りたたみ傘だったが、そちらも殆ど顔に貼りつけるようにして胸から下は完全に水没している……。白いカーディガンが重たく胸から剥がれる程に。
俺たちの中で唯一まともな傘を持っていたのは甲塚だったが、こちらも大変苦労しているようだった。骨が丈夫な分、風を受ける力をまともに受けてしまうためひ弱な彼女が持っていては一々ひっくり返りそうになるのだ。もう滅茶苦茶である。
つい一時間ほど前には、「テスト当日に風邪なんか引かないでよ」と甲塚が冗談半分で言っていたのが、割と洒落にならない感じになってきた。こんな状態で漫画喫茶に行くなんて、今となってはちゃんちゃらおかしい。俺たちの家へ辿り着くだけでこんな有様なんだから……。
*
やっとの思いで、俺と郁の家の前まで辿り着いた。おざなりに手を挙げて別れの挨拶をすると、急ぎ足でマンションのエントランスに入り込む。
自動扉が閉まると、混沌とした風圧と雨粒の音が一気に遠のいていった。
「……ふう~」
俺は階段に座り込んで安堵の溜息を吐く。
これほど酷い雨に降られたのは久しぶりだ。これだけ酷いと明日は秋晴れに違いない。
……郁たち、風邪を引かないといいけど。
というか、今更だけど甲塚は平気だろうか。おばさんとは一度顔を合わせたとはいえ、あいつは相手の秘密を知らない限り人見知りが発動してしまうのだ。……それに、よく考えたら宮島のおじさんもいるしな。
――そんな心配をしながら折りたたみ傘を畳んでいると、突然エントランスの自動扉から喧噪がワッと流れ込んできた。
「ちょ、何!? 何!?」
「ごめんごめんごめん!」
何故か、びしょ濡れの郁が傘を差したままの甲塚の背中を押し込んで来たのだ。予想だにしない事だったので、べちゃりと目の前で二人が倒れ込むまでを見守ってしまった。
「……何してんのお前ら!?」
「知らないわよ!!」甲塚は背中に乗っかった郁の体から這いだしながら叫ぶ。「こいつの家の玄関に着いたと思ったら、扉の前で急に喚きだして……! ん!? この!」上半身まで自由になったところで、尻が支えたらしい。腕立てのような姿勢でぐいぐいと暴れ出す。
俺は郁を助け起こして、甲塚を自由にさせてやった。すると、抱っこから降ろした猫のようにビャっとエントランスホールまで駆け出して自分の服を整え始める。
「あーっ! もう、びしょ濡れじゃない! なんなの!?」
「元々びしょ濡れだっただろ。……おい、郁。一体どうしたんだよ。家に入れないのか?」
「いや、入れるんだけどね……ごめぇん! 甲塚さん!」
突然謝罪しだした郁の前に、がに股の甲塚がずんずんやってきた。これは結構な怒りっぷりだ。あまり相手にしたくない状態だな……。
「急に何なの!? ここまで来て私を家に上げないってわけ!?」
「あ、上げる上げる! 絶対泊まらせてあげるって! でも……ちょおっと待って欲しいな~……」
「どういうことなんだ?」
郁が助けを求めるような目で俺を見た。
「私、そういえば部屋片付けてなかったの。最近勉強で忙しくってェ……」
「……はぁ?」
思わず、呆れきった声を上げてしまった。
郁の部屋というと、あの趣味全開四方八方乙女ゲー塗れの部屋か。
よく考えたら、今日甲塚はあの部屋で寝泊まりするわけだ。
……あそこが片付いていない、となると……。
「それは……ちょっと、ゾッとするな。まさか床にエロゲーが転がってる部屋で寝るってのも……」
「うっ! えっ!? えっ!? えろげえ!? んんっ……!? 何のこと!?」
郁は滅茶苦茶下手くそな演技で乗り切ろうとしているが、こいつの部屋の棚にエロゲーが刺さっているのは既に承知のことである。あれほど怒っていた甲塚ですら身を引いているし。
「ちょ――嘘でしょっ。私、あんたの性癖なんて流石に知りたくないわよ!? ていうか、まさかもっと変なの転がっていたりしないでしょうね」
「もっと変なのって?」
「それは……もっと変なのよ」
何故か甲塚が俺から目を逸らして言う。
だが、郁には『もっと変なの』の正体に何となく察しが付いたようだ。
「無い無い! 無い!…………。無いよ!」
「その変な間は何!?」
その二人のやり取りで、すけべ絵師の俺は流石に分かった。なるほど、『もっと変なの』か。……いやいや、流石に無いだろ――とは言い切れないのが怖い所だな。両親と暮らす家でエロゲーをコレクションしている女子高生の生活というのは、中々想像しきれない部分がある。
まあ、とにかく。あの部屋に人を入れる前に十全のチェックをしたい、というのは男子高校生として理解できる感情だ。
ここは助け船を出してやるしかないだろう。……というか、郁もそれを期待してこっちに甲塚を引っ張ってきたんだろうし。
「分かった分かった。それじゃあ、郁の部屋の整理が付くまではさ、一旦俺の家に上がって待ってれば」
「私が蓮の部屋に!?」
甲塚がすっ飛ばした解釈をするので、慌てて「俺の部屋じゃなくて、俺の家に!」と補足する。「ウチの親夜はいないんだ。夜勤で。タオルで頭を拭く位はしていけよ。本当に風邪引いちゃうぞ」
「親が、いない……」
甲塚が反応したのは、むしろそちらの方だった。
人見知りの甲塚にとっては、何より有り難い条件なのではないだろうか。
「郁が部屋片付けてる間、おばさん達の相手するってのもアレだろ? 郁、お前、部屋片付けるの何分あれば良い?」
「二時間」
アホか。
「……じゃあ、部屋を取り繕うのに何分あれば良い?」
「……二十分? あ、いや、ごめん。三十分! 三十分ちょうだい!」
「分かった。良いな? 甲塚」
「うん、まあ。――流石に、文句は言わないわよ。こっちはお世話になる側なんだし。でも、お願いだから枕の横にいかがわしい物体が転がってるとかは、止してよね」
「だっ! なっ……無いってば! そんなの! 蓮! 無いからね!!」
そんなこんなで、冷え切った俺の家に甲塚が三十分お邪魔することになってしまったのだった。
*
「はぶしっ」
三階へと上がるエレベーターの中で、甲塚がくしゃみを一つした。続けて鼻水を啜る。
「寒いのか?」
「当たり前でしょ」甲塚は濡れそぼったカーディガンを胸元から引っ張って言った。「これじゃ、カーディガン着てきたのが完全に裏目ね」
俺は、ふ~んと思った。それで会話は一旦終わった。
話題の浮かない時の俺と甲塚なんてこんなもんである。俺の方はさして気の利いた話題を振るでもないし、甲塚の方はとにかく運命へと呪詛を吐く。それだけ。これが友人レベルの男子高生と女子高生の日常ってもんだ。
ところが、今日の甲塚はひと味違ったのだ。
「そういえば、佐竹の家ってどんなんかしら」
「……俺の家?」
甲塚は感慨深げに唸った。
「考えてもみれば、私あんたのことってあまり知らないなって。裏アカでエッチな絵描いてること以外は……。あんたの恋愛観がぶっ飛んでるってことも、絵画教室にヘンテコな友人がいるってのも、直近のニュースだし?」
「そ、そうか?」
こちらとしては、甲塚の前では結構開けっぴろげでいるつもりなんだけど。
「なんか不思議。私、あんたのこと自分で思ってたより知らないんだ……」
三○五号室へ歩きながら、後ろで甲塚が独りでに笑う。
俺は扉を開いた。
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