第74話 季節外れの豪雨

 定期テストが着実に迫る中、俺はコーコに文化祭の手伝いをする旨の申告をしたり、面会を延期した3takeさんと仲が冷え切らない程度にチャットをしたり、東海道先生の授業を真面目に聞いたり……そして、それらが些事に思える程定期テストの対策に集中した。


 人間観察部では目下の気がかりであった郁の学力も、甲塚による苛烈な教育によって一般的な桜庭生徒並には持ち直した――のかな?


 いつものように放課後の部室。十七時を迎えて、ふと立ち上がった郁がカーテンを閉めた。


「蓮、寒くないの? そんなカッコで」


「寒い……」

 

 いよいよ来週にテストを控えた金曜日は、寒かった。


 十月の半ばと言うと夏と冬の境目とも言える秋の入り口である。木曜は上着を脱ぐほどの日照りだったというのに、今日に至ってはシャツと制服の間にもう一枚欲しいほどの寒さだ。


 郁や甲塚は学校指定である白地のカーディガンを着てきているが、こっちはそんな気が利かないもんだから夏のスタイルと変わらない、肌着とYシャツだ。せめてもっと厚手の肌着を着てくればよかった。


 外は、暗い。


 夏の日の長さを考えると、この時間は少し物寂しさを感じる。


「気を付けなさいよ。これだけ私の時間を奪っておいて、いざテスト当日に風邪を引いたら許さないんだから」


 甲塚はそう言いながら、机の上のクッキーを一つ摘まむ。これは東海道先生が陣中見舞いにと、デパ地下に売っているような焼き菓子の詰め合わせを持ってきてくれたものだ。


「俺は風邪なんかよりも暗記科目が心配だよ。甲塚の方こそ、郁や俺に教えてばっかりで自分の成績の心配はしないのか?」俺はスマートフォンの日付表示を眺めて言った。「来週だぞ。テスト。暗記とかさ……」


「私は佐竹に心配されるほど馬鹿じゃない」


「あっそう……」


 甲塚がそう言うのなら、心配は無いんだろう。


 というか、甲塚は普段の授業だけで上位グループに入る程の実力者だ。もしかして、俺たちと勉強したことが……というか、勉強を教えてくれたことで更に躍進するかも知れない。


 つくづく末恐ろしい奴だ。


「あれっ? ねえ。ちょっと雨降ったかも。地面濡れてるような気がする」


 さっきから窓際で外を見ていた郁が心配そうに言う。


「予報では朝から雨だったけどな。結局降り出したのは夜からか」


「そろそろ今日は帰らない? これから激しくなるんじゃないかなあ」


 郁は満更現実逃避という風でも無くそんな提案をするので、俺も窓から外を眺めてみた。


 確かに、薄暗い学校前のアスファルトは雨に濡れた形跡がある。空は雑巾を被せたようにごわごわとした雲が途方もなく続いていた。


「本当だな。もうすぐ本格的に降りだすんじゃないか」

 

 人間観察部では大体午後六時半から七時までには活動が終わっている。なので、この時間だとまだ一時間半ほど勉強時間が残っている。


 ……しかし、家の近い郁が降り出す雨の心配なんかを本気でしているわけじゃないことは俺でも分かった。彼女が気を揉んでいるのは、電車を使って帰る甲塚なのだ。


「ねえ甲塚さん! 今日はもう帰ろう?」


 ところが当の甲塚は郁の心配を知ってか知らずか、


「馬鹿言わないで。テストは来週なのよ?」と断固拒否の姿勢を取ってしまうのだった。「そうやって甘えた態度でいるから、今困ってるんじゃない。今回できちんと勉強に追いついておいたら、次のテストは多分楽になる……筈よ。こっちはテストの度に一月も面倒を見るなんて嫌なんだから」


 甲塚の言い分はごもっともである。九月から面倒を見てきて貰った身としてはぐうの音もでない正論である。しかし、こちらとしては甲塚の帰路を心配しているわけなのである。……そういうことを直接伝えると、却って意固地になってしまうから甲塚という女子は難しいのだが。


「まあ、それはそうだけどさ……」


 それでも郁の意を汲んで甲塚を説得しようとすると、「……良いから! つべこべ言わずに再開しなさい。佐竹は暗記! 怪力オタクは英文法の仕上げ!」と、椅子にふんぞり返る。


 思わず、郁と目を合わせて小さく溜息を吐いた。


 ……ま、仕方ないか。


 これから雨が本降りすると決まったわけでもないし。


 ところが、俺たちが勉強を再開した十分後程度で本当に雨の本降りがやってきたのだった。


 ――それも、天気予報で見た可愛い雨マークのような振り方ではない。十月には珍しい、梅雨前線の置き土産とでも言うような激しい豪雨だ。


 結局いつも通りの時間に部室から引き上げた俺たちは、玄関口で唖然と外を眺めていた。


 もう、外ではゴウゴウと音が鳴るほど雨が降っている。降っているというか、落下している。それに雷の音も響いてくる。……不思議なことに、いつもは俺たちよりも遅くに部活を終える運動部の姿が無く、玄関で呆然としているのは我ら人間観察部の面子だけだった。


「……おい、なんで運動部の連中はそそくさと引き上げてるんだ? 今日豪雨なんて言ってたっけ?」


 暗闇に降りしきる雨を、というより絶え間なく水を跳ねる地面を眺めながら誰にともなく呟いた。


「違うでしょ。今はテスト期間なのよ。……部活は控えているんじゃない。私達みたいに部室で勉強している人間を除いて、ね……」


 甲塚は、幾らか呆気にとられたような声のまま的確な返答をする。

 

「あ。なるほど。……じゃあ、今学校にいるのって俺たちだけかよ」


「東海道先生は?」


「東海道は職員玄関から出てる筈だけど……」


 と、丁度噂をしていたら東海道先生がわざわざ職員通用口からぐるりと廻って生徒用玄関に姿を現した。俺はその様に、思わず息を呑んでしまった。


 お洒落な傘を頼りなさげに掴んでいるが、あまりの激しさに腰から下の高そうな服がすっかりびしょ濡れになってしまっている……。顔はまさしく必死の表情で、ころりと溢れ落ちそうな程に瞳を開ききって、唇を青くしているではないか。……ただでさえこの冷え込みだもんな。そりゃこうもなるか。


 東海道先生は、お洒落な傘を必死な形相で掴みながら玄関に入ってきた。


「こ、こ、甲塚さん。で、電車止まってるんですって」


「……まあ、そうよね。この豪雨だもん」


「ど、どうしましょうか? お母様にお迎えに来て貰うのは……?」


 甲塚は黙って頭を振った。


「……お婆様は?」


 理事長か。横に立ってる甲塚を見ると、やはり黙って首を振る。


「……学校から私の家となると、結構遠いから。急な豪雨だもの。きっと道路は渋滞しているでしょ。それなら近くの漫画喫茶にでも泊まった方が良いじゃない」


「漫画喫茶!? い、いけません! 女子高生が一人でなんて……!」


「甲塚、俺も先生と同意見だよ。……流石に、女子高生が漫喫に泊まるってのはなあ。しかも、多分下半身ずぶ濡れで一晩過ごすことになるんだぞ?」


「仕方ないでしょ。私が言い出して学校に残ったんだもの。それくらいは我慢するわ」


 そういう彼女の言葉の裏に、気弱な態度が見え隠れしていた。甲塚もさっきの俺たちの提案を拒否したことを申し訳無く思っているんだろう。


「……あのな。お前が我慢するかどうかじゃなくて、俺が見過ごせないって言ってるんだよ。というか、ずぶ濡れの女子高生が店に行って素直に利用できると思うか? この雨だぞ。そもそも満席かも知れないだろ?」


「……そんなの分からないでしょ! というか、佐竹に許可を得ないと、私は漫喫にもいけないわけ?」


「そういうわけじゃないけどな」


「甲塚さん、あなたさえ良ければ、わたくしのお友達のお家に泊まるのはいかが? 実はわたくしも今日はそのつもりで……」


「私が、先生と一晩過ごすって? それこそ倫理的にどうなのよ」


 ……うーむ。東海道先生が言うお友達というのは西原さんのことだろうが、昨今教師の振るまいには厳しい世の中である。同性とはいえ、教師と生徒が一晩同じ屋根の――下手をすれば同じ部屋で眠るというのは如何なものかというところではあるな。


「それは……でも、どうしたら……」


「何よ。話を聞いていれば、困るのは私だけじゃない。佐竹と宮島は家近いし、先生は友達の家に転がり込むって言うんでしょう。さっきも言ったけど、私が言い出して学校に残ったんだから、私が困る分には別に構わないじゃない。さっさと帰りなさいよ」


 甲塚は面倒臭そうにそう言い放つと、玄関口に座り込んでしまった。困ったな……という視線を東海道先生と交わすと、意外なところから解決案が飛び出した。


「それじゃ、私の家に泊まれば良いんじゃないかなあ」


 郁である。


 ……その手があったか!


 郁の家は近場だし、部活仲間の家に泊まるってのは別におかしな話じゃない。それに、同じ女子となると色々都合も良いだろう……着替えとか、そういうの。


「……私が、宮島の家に?」


「良いじゃん。前に家に行ったからおばさんとも顔馴染みだし、漫画喫茶なんかで夜を明かすよりは十倍増しだろ。風呂にも入れるだろうし、ご飯もご馳走になれるだろうし、着替えも借りられる。どうだ?」


「……」


 俺は、甲塚の沈黙に手応えを見た。こういう正攻法的な攻略は普段の甲塚には中々通用しないけど、今は別だろう。


「それに、郁の勉強を見ることも出来るから都合が良いだろ。明日は土曜だしな」


「え゛」


「それは、確かにそうかもね」


 郁の下手くそなラッパみたいな悲鳴を無視して俺たちは話を続ける。


「……これだけ勉強を助けてくれたんだ。郁の家に一晩泊まるくらいしても、おつりが出るだろ?」


「……そ、そうだよ。甲塚さん。帰って勉強するどうかは置いといてね……!」


 そこまで俺たちが言うと、座り込んだ甲塚は上目遣いに俺を見て、東海道先生を見て、最後に郁を見た。


「そこまで言うんなら……泊まってあげても良いかな」


 ここまで来てその態度を貫くのかと、俺たち三人は思わず笑ってしまった。だけど、それは嘲笑というよりは安堵の微笑みに近いのだった。

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