第65話 ストリートアートのコーコ

「お前、こんな朝っぱらから一人で何してんだ?」


「今日の課題やっつけてたんだよ。ほら、こういう場所って人間のデッサン描くには題材に困らないし、朝なら――ほら」


 コーコは細い顎を、ビールグラスを持ってぼーっとしているおじさんを示した。


 なるほど。あのおじさんを描くのならあまり苦労しないだろうと納得する。こういうので難しいのは、モチーフが動いてしまうことなんだ。


 以前、絵画教室で動物園でのデッサン会が催されたことがあった。


 デッサンというものは観察する対象をそのまま二次元に落とし込む行為だが、動物なんてこっちが描いているのなんてお構いなしにポーズを変えてしまう。


 一体どうしたものかと考えあぐねていたら、隣でデッサンをしていた小学生のガキが見事なレッサーパンダを描いている。目を瞠って手元を見ると、特別描くのは早いわけではない。そもそも、当のレッサーパンダを見るとスケッチブックに描かれているのとはまるで違うポーズをしているのだ。だというのに、描かれた方はリアルで、一瞬をカメラで切り取ったように精巧ではないか。


 まるで魔法に魅せられたように、俺は小学生がスケッチを終えるのを丸々眺めてしまったのだった。


 後でそいつに聞いたところ、動物とかの動く対象はそもそも瞬間を捉えるのではなく、その骨格、筋肉の伸び、関節の位置など「動きの法則」を捉えるものなのだと嫌みったらしい口調で教えられた。


 静止物のデッサンにも苦戦していた俺には言葉も無いことだ。


 今のところ、俺が絵画教室の課題で提出しているのは静止物のデッサンだが、一学年上のコーコは受験を見据えてより本格的で実践的なデッサン力を身につけようとしているのだろう。

 

「そっちこそ何してんだ。朝っぱらから女子侍らせて、青春か?」


「勉強だよ。定期テスト近いんだから。教えて貰ってんの」

 

「ああ、そう」


「うん」


 それで、俺たちはあっさり会話を切り上げてそれぞれの作業に取りかかった。


 昨日は3takeさんの件で途中から集中できなかったが、彼と九月の半ばに面会する段取りを付けると逆に「どうにでもなってしまえ」というような気分になっていた。こんな調子だから甲塚に浮ついているというのも仕方が無い。


 ……とにかく!


 とにかく、俺の目前の敵は定期テスト、それ一点と思うことにしよう……。


「いやいや。ちょっとちょっと!?」


 いきなり隣の郁が俺の肩を揺さぶってきたので、ノートに置いていたペンがあらぬ方向へぶれてしまった。せっかく勉強に前のめりになったというのに、とんだ邪魔入りだ。


「おい、何だよ急に」


 俺が低い声で唸ると、目を白黒させている郁がコーコの見えないソファの影で彼女を指差す。

 

「……誰!?」


「前に言ってた絵画教室の友達だよ。見て分かると思うけど、ガキじゃなくて変人の方」


「聞こえてるよー」


 そう釘を刺す割に、コーコは大して気にする風でも無くスケッチを描き続けている。周りに何と言われようと、自分の行く道を裸足で歩き続けるようなタイプなのだ、こいつは。

 

「信じらんないっ……! 本当に、蓮の女友達が実在してたなんて……!!」


「頭を抱えて言うことか? というか、お前、この間の話俺の虚言だと思ってたのかよ……」


 そんなことを話していると、後ろの席から苛ついたような溜息と共にコーコがやってきた。


 コーコとの付き合いは、俺が中学二年の頃から絵画教室に通い出してからになるのでほぼほぼ二年くらいということになるが、俺が記憶している限りこいつは夏冬問わずスプレー缶の塗料で汚れたジーンズと白いTシャツで過ごしている。冬は流石にダウンジャケットを上に羽織っているが、絵画教室に着くなり脱いでしまうので相当な暑がりなんだろう。


 高校二年の女子としてそれはどうなんだという感じだけど、服に付いたままの塗料汚れの柄を見る限り、一応数着を着回してはいるらしい。ちなみに髪は胸元まで伸ばした艶のあるロングで、センターで綺麗に分けている。

 

「あのさ、佐竹蓮。ウチが気になってるようなら、その子達に紹介して。さっきからうるさくてデッサンに集中できないんだけど」


 言われて見れば郁は興味半分警戒半分といった鋭い目付きでコーコを見ているし、甲塚は青ざめたままコップを両手で握り込んでいる。確かに、こんな様子じゃ勉強にも手が付かないか……。


「ああ……」俺は素直にコーコを紹介することにした――とは言っても、俺がコーコについて知っていることなんてたかが知れているんだけど。「こいつは真城紅子。一応学年は一つ上で、高校は……ヤマコウだっけ?」


「違うって。ウチがヤマコウなんて金持ち学校行くわけないだろ。ヤマガクだよ」


「ああ、そうそう。ヤマガク」


 何ともややこしいのだが、ここらには「緑山」と名の付く高校が二つある。一つは緑山大学附属高校――通称ヤマコウ。そしてもう一方が緑山学園高等学校――通称ヤマガク。一応、格の高さで言えばヤマコウということになるのだが、実はヤマガクもここら一帯では人気の高校の一つだ。確かヤマガク出身の芸能人や著名人が多くて、ヤマコウには流石に負けるけど偏差値もそう悪くないんだったか。


「で、えーと。専門は落書きだっけ?」


 そう言うと、コーコはあからさまに顔を顰めた。


「佐竹蓮も一応美大志望なら、落書きとストリートアートくらいの棲み分けは憶えろ。私が描くのはそこらの不良少年の自己主張とは違うんだ」


「ストリートアートって、バンクシーとかのやつ?」


 恐れを知らない郁が、あからさまに変な風貌のコーコに自然な流れで質問した。……やっぱりこいつのコミュ力って俺たちとは歴然とした差があるな。多分俺なら、初対面のコーコにこうもフランクに話しかけられない。


「おっ。そうそう。結構知ってるじゃん。そっちのコ」


「私、宮島郁。蓮の幼馴染み」


 何故か郁が俺の肩に手を置いて自己紹介する。ついでに甲塚に目を向けて、


「そっちに座っているのは、甲塚希子さん。私たち、同じ部活なの」


 ……あれ。いつの間にか郁がコーコに人間観察部の面子を紹介している。


「ふーん。佐竹蓮の幼馴染みに、部活の友達ね。さっきは睨んで悪かったね」


「……あっ。……は……」


 甲塚は申し訳なさそうに項垂れた。


「……甲塚を、睨んだのか?」


「仕方ないでしょ。作業してるってのにこっちの席がうるさいんだから。甲塚希子が喧嘩っぱやそうだからガン飛ばしちゃったんだ」

 

「甲塚はお前みたいな武闘派とは違うんだ。ほら、分かったらそっちで作業してろ」


 立ち上がって背中を押すと、コーコはあっさり歩き出した。……ついでとばかりに、気になることを言い残して。


「あ、そうそう。今日声かけようと思ってたんだけどさ――佐竹蓮、ちょっとウチの高校の文化祭手伝わない?」


「は?」

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