第一章 幼馴染の秘密
第1話 流離いの男
帰り道、近所の公園を通りかかったときのこと。
「あっ」という声が夜の中から響いた。
何かと思ってブランコの方を見ると、懐中電灯で足下を照らす大人が一人とうちの制服を着た女子が突っ立っている。
男の方が、懐中電灯を向けてきた。
「ちょっと、君」
お巡りだ。それで、俺は瞬時に状況を理解した。
今は深夜十一時を回っていて、恐らくあの女子は一人。
補導だ!
巻き込まれたら面倒なことになる――と後ずさりしたところで、老いたお巡りは意外なことを言い出した。
「ここで待ち合わせしてた?」
「は?」
俺が困惑しかけると、「そうです」と暗がりに立っている女子が言う。
「え、いや」
一体何を言い出すんだ。俺は教室の帰りにここを通り掛かっただけなのに。
今度はその女子に懐中電灯が向けられる。今度は俺が「あっ」と言う番だった。
宮島じゃないか。
宮島郁。
気まずそうな目を俺に向けていやがる。
彼女は所謂幼馴染みで、家も近所だ。お互いの親の仲が良く、近所同士で家に遊びに行ったりもしたし、昔は普通に話した。
俺たちが言葉を交わさなくなったのは、中学に上がった辺りからだろうか。
喧嘩をしただとか、特別仲が悪くなるような出来事があったわけじゃない。まず部活が別になったことで登校する時間が別々になり、クラスが離れると、自然と仲の良いグループも変わる。
近所で顔を合わせても、俺は気付かないふりをした。
そこには(多分)熾烈な空気の読み合いがあって、どちらかがいつの間にか歩幅を狭めて、いつの間にか視界から消えているのだ。
だが、高校は同じだった。ここらは(自分で言うのもなんだが)都会も都会だから、通う高校なんて私立を含めば幾らでもあった筈なのに。
同じだっただけなんだが。
「本当に、待ち合わせをしていた友達っていうのはこの人なんだね?」
「だから、そうだって言ってるじゃないですか」と、高校生の宮島が言い訳染みたことを話し始めた。「うち、ここから近いんで。ねえ?」
「あ、うん」
勢いに載せられて返事をしてしまうと、彼の興味はこちらに向いてしまったようだった。
「君、生徒手帳持ってる?」
え……。
嫌だな、と思ったが断る文句も思い浮かばないので渡した。
「佐竹蓮君。……はい。本当にここからは近所なんだね」
「だから、さっきからそう言っているじゃないですか」
「だからって、ねえ。夜も遅いんだし。近所と言ったって、賑やかな通りもここから近いんだ。子供が夜に出歩くもんじゃ――」
「すいません。私達急いでるんで。いこ、蓮」
「あ……おう」
こいつ、俺のことを名前で呼ぶのかよ。
こっちは苗字で呼んでるのに。
――そして、俺たちは数年ぶりに二人で帰ることになった。
こんな状況では、今更お互いが無視し合うのも変だ。しかたなしに俺が口火を切る。
「こんな時間に何してたんだ」
「こんな時間に何してんの」
声が重なってしまった。また妙な間が生まれて、俺たちはどんどん気まずくなっていく。
「連には関係ないし。さっき散々聞かれてたんだけど」
「俺には聞いてくるくせに」
「いいじゃん。で、何してたの」
「ただの帰宅途中だよ。絵画教室の」
「絵画教室? へええ~!」宮島は大袈裟に相槌を打つと、昔に見慣れた笑顔を見せた。「まだ絵掻いてたんだ。上手くなりたいの?」
「そりゃ、一応美大志望だし」
「うそ。マジで?」
「うん」
「すっご!」
こいつ、適当に相槌うってないか?
公園から俺の家へは結構明るい夜道を歩く。街灯もあるが、歩道に立っているポールの一つ一つがぼんやりと足下を照らしてくれるのだ。こういう所はちょっと都会的だよな、と歩く度に思ったりする。
宮島は、何の気なしにこう聞いたのだと思う。
「じゃ、絵上手いんだ?」
「上手いなんて言えねえよ」食い気味に言ってしまってから、言葉に熱が、卑下する気持ちが過剰に入らないように一息吐いた。「絵画教室じゃ俺より年下で俺より上手い奴なんて幾らでもいるし」
「それって、つらくない?」
「……そんなもんだよ」
気取って言ったつもりだが、正直滅茶苦茶辛い。めっちゃくちゃつらい。才能という切符を持った人間は、世の中には存在する。
それにしても、どうして俺は宮島に俺の進路の話なんかしているんだ。
「普通の大学目指せばのに。まだ高一なんだし」
「好きなんだよ」と、話題に辟易して言った。
「えっ」
唖然とした宮島の顔を見て気が付いた。これじゃあまるで突然告白をしたみたいじゃないか。
「絵を描くのが、な」
「あ……」
家に着いた。俺の家は、左手に見えるファミリー向けのマンション三階。三○一号室。
宮島の家は真向かいにある、一軒家だ。庇の付いた車入れに、玄関の門扉からは家主のいない犬小屋が数年来そのまま放置されている。俺たちが中学一年の頃に死んだ「ジョン」の思い出が、その中にまだ居座っているみたいだ。
「それじゃ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
そして俺たちは別れた。
明日の朝になれば、またお互いが半透明になって、透過度を足し合うような関係に戻るんだろう。
と思ったら――
「あ~~!」
マンションの自動扉が開いたとき、背後から宮島のうなり声が聞こえた。
驚いて振り向くと、彼女は一直線に歩いてくる。少し起こったような足取りで。
「私、失恋しちゃったんだよ」
「あん?」
「だから! 失恋したの! だからぁ……」そこで声が震え始める。「ひ、一人で泣いてた……から」
宮島の突然の激白に、俺は大分間抜けな顔をしていたと思う。
失恋した――宮島が?
こんなとき、一体何を言えば良い。
「それは」たっぷりと間を取って、頭をフル回転させた結果――
「ドンマイ、だな……」と毒にも薬にもならない言葉が俺の口から出てきた。
「馬鹿!」
その瞬間、俺の脛に宮島のローキックが突き刺さる。
「っ!! あ! いだっ!」
「馬鹿! 馬鹿、何がドンマイよ」
「ちょ――洒落にならん……!」
宮島のローキックが次々と襲い掛かってくる。つま先で蹴ってくるので、まともに喰らうと血が逆流するような汗が噴き出す。思わず足を開いたり閉じたりして避けたら、その動きが面白かったのか宮島は「あははっ」と笑い出した。
「あーあ。あほらし」
「なんでそんなこと、言う気になった」
「何となく……フェアじゃないし」
そう言い捨てると、宮島は背中を向けて彼女の家の門扉を開いた。最後に、「今日のこと、誰かに言ったら殺すから」と言い残して。
――何だか寝付けなくてスケッチブックを開いた、夜の二時。
宮島が失恋した。
いや、それも眠気を遠ざける衝撃の一つだが。
宮島と話した。超久しぶりに。
なんだか新鮮な思い出が生まれたみたいだ。ふと走らせていた4B鉛筆の先に彼女によくにた目許がある。筆先に力を込めて、その目の上を強く擦った。
その時スマートフォンの画面が光って、俺のSNSアカウントにコメントが付いたことを伝えた。きっと俺のファンだろう。
そうさ! 俺にはやるべきことがある。
俺はスケッチブックを閉じて机の棚に乱暴に押し込むと、代わりにパソコンの横に立てかけていたタブレットを机の上に引っ張り出した。
モニターに映した真っ白いキャンバスに、宮島の影に上塗りするように輪郭を描いていく。
俺は、えっちな絵を描かねばならないのだ。
断じて言うが、何も俺はスケベ根性でこんな趣味を持っているわけじゃない。……いや、スケベ根性が全く無いとは否定するつもりは無いが、こんなことをするのにはきちんとしたわけがある。
絵が上手くなるために、大抵の凡人は絵を描き続けなければならない。
そして、絵を描き続けるためには、絵を描くことにモチベーションが無ければならない。
俺にとってのモチベーションは、SNSのいいねの数だ。
元々、大抵の絵描きがそうするように俺もSNSで自分の絵を上げていたんだ。ハッキリ言って、この年代で俺は結構絵が上手い方だと思っている。一時期は漫画のようなイラストも描いたし、特に流行のアニメのキャラクターを上げたときなんてフォロワーの十倍を超えるいいねを貰ったことがある。
その時の快感が俺の脳みそにこびり付いている。
ところが、その後絵を上げてもいいねの数は伸びなかった。それどころか、激増したフォロワーも掌から砂が溢れ落ちるようにするすると減っていく。そうしたSNSアプリの数値を見る度、絵を描かない時間が増えた自分の弱さに俺は驚いたのだった。
絵を描くのは好きだ。これは絶対的な感情だ。だが、好きという感情だけでは物事が続かないものだという事実は、俺が凡人であるという事実を突きつけてくる。
そんな時だった。ある一枚のイラストが俺のタイムラインに流れてきたのは。
良い絵だ、と思った。殆ど裸の、なんなら乳首が半分見えているくらいの衣装を着た、いわゆるアニメ調の女の子。良いとは思ったが、それが技巧的に素晴らしかったというわけではない。もっと言えば、俺の方が上手い。
……俺なら――
そうして描いた絵を、別のアカウントでアップロードしたのが始まりだった。
所謂、裏アカってやつか。
俺はさすらいのすけべ絵師「rens」。リアルの交際経験は、まだない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます