葉書屋
森野哲
第一葉『Postcard to lover』
(差出人:桐野やなぎ/受取人:小宮ゆき)
大学がしんどい。
要約するとそんな内容だった。
それまでに何通も国際郵便の手紙が届いてはいたものの、僕は彼女に返事をしなかった。
その手紙が届いたのは、二週間前だ。
彼女は見かけによらず結構まめに手紙やら葉書やらを律儀に出すような人間なので、留学してから二ヶ月が経った今でもこうして手紙が届いていた。だいたい一週間に一通のペースで。
けれど、今週に入って週末を迎えても、まだ手紙が届いていない。
大学がしんどい。
頼れる人間は限られていて、文化も違えば言語も違う。周りの人間や環境には常に緊張感を持たないといけないし、大学寮とはいえ彼女は女性なんだから防犯にも気を付けないといけない。食べるものだって日本とは全然違うし、着る服やサンドイッチの食べ方まで違うものだ。
「私、留学するから」
留学しようと思うんだ、ではなく、留学するから。
そっけなく彼女は言った。
けれど、別れよう、とはひとことも言わなかった。
冬のシーズン。放課後の通学路。いつもの川沿いの道を歩いていると、彼女はなくしたものの場所を思い出したかのように、ふと「そういえば、私、留学するから」と言った。
面食らって直ぐに反応できずにいる僕に向かって、彼女は確固たる意志を持って「もう決めたから」と追い打ちをかけるようにして言った。
「勝手にしなよ」
咄嗟に口をついた言葉は、僕にも思いがけないような言葉だった。それは彼女も同じだったらしく、驚いたような顔をしていた。喉の奥からこんなに低く冷淡な声が出るなんて思いもしなかった。彼女はすこし悲しそうな顔をしてから、そっと息を吐くように「うん」と言った。そのか細く自信のない声は、冬の冷えた空気に溶けこんだ。僕がつぎの声をかける前に両手をぎゅっと握りしめてその場を走り去って行った。冷たい風に揺れる彼女の崩れ落ちゆく涙は夕陽に照らされていた。
酷いことを言ったと思う。
彼女だって、海外留学の厳しさを十分に理解しているはずだ。暇を見つければ英単語帳を開いて難しい顔をしていたことを、僕は知っている。彼女から言い出してくれた時は、素直に見送ろうと決めていた。けれど、どうやら理性と感情はまったく別の生き物らしい。
不安な気持ちを抱く彼女が、勇気を振り絞って決意を伝えてくれたのに、僕は突き放した。
自分でも最低だと思う。
でも、一度口にした言葉は二度と戻って来ない。
なぜなら、僕の言葉は彼女の耳に今もなお残り続けているからだ。
あの日、夕陽色の揺れた彼女の瞳を見たとき、心臓をきゅっと掴まれた気がした。彼女の悲しそうな表情を見たとき、ぎしり、と音を立てて心臓が軋んだ。アスファルトの道路に落ちた涙の波紋を見たとき、心臓に流れる赤いはずの血が墨汁のように黒く感じた。
僕はなんと答えればよかったのだろう。
彼女は割に繊細な人間だった。
通学バスの中でイヤホンの音漏れを気にするくらいには神経質だし、ふたりで座席に座っているときに、僕がイヤホンを付けて音楽を聴きだすと、可愛らしく不機嫌になるくらいには行儀を知っていた。僕はそんな彼女のことが好きだし、彼女も僕のことを好きでいてくれていると思っている。
海外に留学する、と言われたとき、現実味がまるでなかった。
もし、彼女があのときに「だから、別れましょう」と言っていたのなら、僕はこんなにも苦しんではいなかった。手を伸ばせば触れられる距離にいた彼女が、もうどれだけ手を伸ばしても届かない異国の街にいる。そのことが、僕の心をきつく締めつけた。
大学がきつい、という報せを受けてどこか安心したのは、きっと僕が彼女をどこか遠い存在のように感じていたからだろう。その報せを受けて、僕は彼女が近しく人間なのだという当たり前のことを実感して安心したのだ。僕はどこまでも最低だ。
けれど、彼女はそんな僕とは随分と違った人間だった。
秀才で、綺麗で、遠い存在だった。
だから、高一の冬、彼女から告白されたときは嬉しかった。胸の内側が密かに熱を持ち気分が高揚した。
付き合って、直ぐに一度不安になって「なぜ僕なのか」とさりげなく聞いたことがある。
そのとき、彼女は「筆箱」とひとこと言ってそれ以降そのことについては喋らなかった。僕もそれ以降に同じ質問をすることはなかった。
僕らは拙いながらも互いのことを想い合っていた。
だから、僕は彼女から「留学をする」と言われたとき、言葉にできない感情を抱いたのだ。
* * * * *
桐野やなぎは外出がてら郵便受けをさりげなく確認した。けれど、そこには恋人からの手紙はなく、あるのは怪しげな広告紙だけだった。なんとなく、ちらりと目を通すと、そこには「ハガキ
「ハガキ屋は訪れる人の願いによって姿を変えます。
ご来店をお待ちしております。」
その手書きの文字の右下に小さく電話番号が書いてある。
斬新な詐欺だな。と小さく呟きながら、僕はその紙を郵便受けに戻し鍵を閉めた。
僕はそのまま大学へと向かった。
* * * * *
全ての講義を終えたあと、僕は商店街のアーケード通りを目的なく歩いていた。
しばらく歩いているとアーケード通りに似つかわしくない洒落た古本屋のようなデザインの店が見えた。その店を見た瞬間に僕の記憶はフラッシュバックした。
その店は、高校時代に僕と彼女がデートで初めて行った古本屋だった。
しかし、高校時代のときと明らかに違うのは、店名は「かえで堂」ではなく「有明堂」だったということ。それも随分と古いシャッター開きの店だった。
こんな場所にあったっけ、と思いつつも、僕は店に入った。
店内は恐ろしく静かな空間だった。アーケード通りの喧騒が微塵も聞こえてこない。ここだけ別空間のようだ。店内には僕しかおらず、店員と思しき女性は古びた木製のカウンターに背を預けていた。店の人なのかどうか、一瞬疑ってしまうが、図書館の司書のような作業エプロンを着ている辺り店員で間違いないだろう。店員は僕に気付くと振り向いて言った。
「ようこそ。ハガキ
不思議な貫録を含んでその女の人は言った。
恐ろしく透明感のある声だった。
「お探しのものはご用意しています」
そう言って一枚の葉書を右のポケットから取り出した。
「宛先はこちらで書いておきました。ご確認ください」
言われてその女の人から葉書を受け取った。その宛先には、いつも恋人から送られてくる手紙の住所と、彼女の名前が書かれていた。「小宮ゆき」。それは僕の筆跡だった。僕は急に恐ろしくなり、思わずその葉書を手から落としてしまった。なぜこの人が彼女の名前を知っているんだ?なぜ僕の筆跡で書かれてあるんだ?……疑問を叫ぶ前にその店員がじろりと僕を睨んで言った。
「どうか丁寧にお取り扱いください。この世に一枚しかない貴重な葉書ですので」
それと、と続けて言った。
「疑問に思われ驚かれるのは無理のないことですが、あなたにはその葉書をすぐに出されることをお勧めします」
その言葉を聞いた僕の表情を見て、女は柔らかい薄ら笑みを浮かべながら、
「小宮ゆきさんは、大変に心を痛めております」
「……」
「いま、彼女は心を蝕んでおられます。貴方も良くおわかりでしょう?彼女の痛みは貴方の言葉でしか癒せません。……お早めに葉書をだすことをお勧めします」
最後に念を押すように、お早めに、とその女の人は言った。
そんなことを言われても、今さらなんて言ったらいいのかわからない。
そう思って、僕は俯いた。
「彼女はあなたを愛していますよ」
不意に、優しい微笑を浮かべて彼女は言った。
「なぜそれがわかるんだ」
僕はついむっとしてそう言い返してしまった。それは少しばかり鋭利な言い方だった。
「好きでもない相手に、頻繁に、それも海外から手紙を送るなんてしないでしょう」
それと、と、彼女は続けた。
「小宮ゆきさんは今でもあの筆箱を大切にしています」
「え?」
「どうか彼女の想いを察してあげてください」
そう言って店員は含みのある笑みを浮かべた。
まだ、持っているのか。あの筆箱を。
僕はそのまま胸の内に微温な感情を抱えたまま、戸惑っていた。状況が上手く掴めなかった。けれど確かに言えることは、この店員の言っていることはおおむね正しく、的を射ているということだった。
けれど、葉書が海外まで届くものか?
店員は怪訝そうな僕の表情をしばらく観察するように眺めたあと、にこりと笑った。
「ご安心ください。それは世界中のどこへでも届く特別製の葉書です。そちらの郵便ポストに投函していただければ、小宮ゆきさんのもとへ届きます」
店員はカウンターの脇にある赤い郵便ポストを手で示した。にわかに信じがたい。
「店内でお書きになられますか?」
けれど、不信感を持っていながらも僕は無意識に「はい」と答えていた。
「承りました」
そう言って、店員はコンビニに売ってそうなボールペンを僕に差し出して来た。
「その机でお書きください」
そう言ったきり、店員は店の奥へ引っ込んでしまった。
僕はしばらく呆けていたが、悩んだすえ、椅子に腰かけ葉書に向き合った。
もしあの店員が言ったことがすべて真実だとしたら、僕は大ばか者だ。
僕のことを想っていて、想い人へ毎週手紙を書き、寂しさに眠れない夜はあの筆箱を抱えているとしたら。
彼女が心を痛めているのなら。
僕の言葉で少しでも彼女の心が軽くなるのなら。
想いを、綴ろう。
彼女に宛てた、僕だけの本心を伝えるんだ。
気が付けば二時間が経っていた。悩みに悩んだ二時間だった。
窓の外の商店街は真っ暗で、腕時計は故障しているのか時間が分からない。店内には置時計のたぐいの物は一切ないため時間が分からない。
書き終えた丁度そのタイミングで、あの店員がひょっこり現れた。ちらりと葉書を物色したのち、「素晴らしい言葉選びですね、お客様」と声をこぼした。
僕は、赤い郵便ポストに両手で投函した。
「きっと、伝わりますよ」
「そうですかね」
「ええ、きっと」
にこり、と優しい笑みを浮かべる。
「そのための葉書ですから」
そう言った店員の笑顔は心から葉書を愛する人間の表情だった。
その微笑を浮かべながら、店員は綺麗にお辞儀をして「ご来店ありがとうございました」と言った。
僕はそのまま清々しい気持ちのまま店のドアノブに手を掛け、ふと気が付いた。
「そういえば、まだ代金をお支払いしていません」
その言葉を聞いた店員は、微笑を崩さず、
「もう頂戴しております」
と言った。
その言葉を最後に、僕の意識は暗い微睡みのなかへと溶け込んでいった。
* * * * *
夢を見た。
高校受験当日の試験会場の夢だ。
彼女と初めて出会った場所。
そのときは、僕はまだ彼女の名前すら知らなかった。
受験が始まる数分前、他の受験生が緊張した面持ちのまま息をひそめて座っているなか、僕の隣の席に座る前髪の長い女の子が焦った様子で学生鞄の中をかき回していた。いかにも、人付き合いが苦手です、とでも言いそうな女の子だ。流石に見ていられず、僕は彼女に二つ持っていた筆箱のうちひとつを貸した。僕は昔からの文房具マニアで、筆箱を常に二つ以上携帯していた。その甲斐あって、どうにか彼女は入学試験を乗り越えた。受験が終わって帰ろうとしたところを、校門で待っていた彼女に止められた。
「あ、の」
「うん?」
もじもじと、何かを言いたげに、両手で大事そうに筆箱を抱えている。足元を小刻みに動かしたりしていた。筆箱を返すために待っていてくれたのだろう。律儀だなあ。
僕はなんだか微笑ましい気持ちになり、「気にしなくていいよ」と言った。
「もともとあげるつもりだったし」
「そ、そんな!助けてくれた上に……」
「いいんだ。文房具好きが増えるのは僕も嬉しいから」
僕は謎の理屈を唱えた。
「そ、そうですか?」
僕の言葉に戸惑いながらも、彼女は遠慮気味で学生鞄の中に筆箱を仕舞い込んだ。
「あの」
「?」
「本当にありがとうございました」
そう言って彼女の柔らかくもぎこちない笑顔を見たとき、笑うと可愛いな、ということを僕は知った。寒い冬の季節。僕たちの周囲の温度だけ温かい空気が漂っていた。
その後、僕たちはぎこくちなくその場でお別れしてそれぞれ帰っていった。
帰りのバス停で冷たい風が吹いていた。
心がどこにあるかなんて知らないけれど、あるとしたら、僕の心の温度は確実にこの冬の空気よりもはるかに温かいはずだ。
それが彼女と僕の最初の出会いだった。
そんな彼女の笑顔を近くでずっと見ていたいと、思っていた。
だから留学すると言われたとき、本当はちょっと寂しかったんだ。
同時に心配でもあった。
高校に入学してから、それこそ彼女は変わった。人慣れもしたし、活動にも積極的になった。けれど、僕だけが知っていた。彼女が誰かのためにそう在ろうとしていたことを。
僕は知っていた。
彼女がどれだけその形を変えようと、その本質は変わらないということを。
優しく、律儀で、礼儀正しく。
誰よりも心の弱いひとりの女の子だった。
淋しかったら泣くし、悪口を言われたら相応に傷つく。悲しいことがあったら塞ぎこむ。
僕につらいことがあれば一緒に悲しんでくれるし、寂しいときは気を使って甘えてくれた。そんな彼女のことが、僕は好きだった。
そんな彼女が、いま、笑えていない。
誰よりも寂しがり屋で、弱くて、泣き虫で。
そんな彼女を、僕は一人にした。
だから、僕は葉書を書いたのだ。
彼女に笑顔でいて欲しくて。
* * * * *
朝、目が覚めると、僕は自宅の寝室にいた。
昨日、大学で講義を受けたあと、どうやって帰って来たのか覚えていない。たしかどこかでゆきさん宛てのレター・セットを買って、喫茶店で書いて送ったと思うのだが、その記憶の細部がぼんやりしていて思い出せない。
僕はのろのろと起き上がり、時計を見た。
昨日と思っていた日付から、もう三日も経っていた。
「?」
僕の頭に浮かんだのは、三日も眠っていた事実と、大学の講義を逃したという焦りだった。昨日から三日も経っているのなら、今日はレポートの最終提出日じゃないか。
僕は慌てて支度をするために、ベットから飛び上がった。
起き上がると同時に、ピンポーン、とインターホンが鳴る。
控えめな音のような気がした。
僕は焦っていたのでろくに誰が来たのかも確認せず、ドアを開けた。
目の前にはここにいるはずのない、ゆきさんがいた。
「久しぶり。やなぎくん」
そう言って彼女ははにかんだ。
「え?」
「葉書、ありがと」
一気に寝ぼけた頭が冷えてきた。
「……え」
「嬉しかったよ」
「なんでここにいるの?」
「言ってなかったっけ?短期留学だったから、昨日帰って来たんだよ」
「そ、そうなの?」
「うん」
彼女は嬉しさを隠そうともせず、うん、とかみしめるように言った。
短期留学だったなんて、聞いてないよ。
「でも、ちょっと意外だった」
「……?」
何のことだろう、と、僕は素で思い出せなかった。
「あんなことが書いてあったら、ねえ?飛んで帰ってきたくなっちゃうよ」
「え?あんなこと?」
なんて書いたんだっけ?
「自分で書いたのに忘れたの?」
もう、きみらしいなあ。と、あの日の可愛らしい笑い方で彼女は言葉を綴る。
「あんなに葉書を広く使って、真ん中に『会いたい』の文字だけを小さく書いて送るなんて、ちょっと君らしくなくて笑っちゃった」
「は、え?」
「可愛いところもあるんだね」
急に顔が熱を帯びる。
恥ずかしくて死にそうだった。
「でも、ほんとに嬉しかった」
そう言って、ゆきさんは僕の背にそっと腕をまわす。
温かい人のぬくもりを感じた。
「ありがとう」
その言葉は、冷えた冬の空気に溶けることなく、僕の心にしっかりと溶けこんだ。
冬の冷たい空気よりも温かい空気が、僕たちをそっと包み込んでいた。
執筆:2022.8.21
葉書屋 森野哲 @hyakushoseinen1230
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