第6話 犬山弁護士

 なぜか、一度誘拐された被害者を、一度、誘拐したということだけを電話で通告してきただけで、犯人は何もせずに解放してきたのだった。誘拐したということを通告してきてから、被害者側が警察に通報しただけのことなのに、なぜ相手が解放してきたのか、理由は分からなかった。

 解放された被害者はというと、門松署管内の隣である酒殿署管内を歩いているところを保護された。

 歩いていると言っても、本当にフラフラ歩いていて、世知辛い世の中で、普通に歩いているのであれば、誰も気にすることはないだろう。少々ふらついているくらいでも、

「酔っ払いじゃないの?」

 という程度に見られるくらいで、急いでいる時間帯であれば、たぶん誰にも気にされないに違いない。

 それなのに、誰かが気になって声を掛けたというのだから、それこそ、本当にフラフラで、放っておくと車と接触したり、階段から転げ落ちたりして、危ないのが分かったので、声を掛けたのだろう。

 表でそんな人が歩いていれば、まず間違いなく、誰かを巻き込む大事故になりかねないと判断すれば、声を掛けたとしても、それは当然のことだろう。

 警官が駆けつけると、その人は、意識が朦朧としていたという。最初警官は、

「酔っ払いか、薬物中毒」

 なのではないかと思ったようだが、そういうわけでもなさそうだ。

 しかし、足元はふらついていて、意識も朦朧としている。ただ、自分が誰なのかということは分かっているようなのだが、なぜ自分がそこにいるのかということを聞くと、

「よく分からない」

 という回答だった。

 どうやら、ここ数日間の記憶だけがなくなっているようだった。

 病院で検査をしてもらった結果、

「どうやら、短期間の一時的な記憶喪失のようですね。自分が誰なのかということは分かっているようなんですが、なぜあの場所にいたのかということも分からず、一週間くらい前の記憶はあるので、今日が、その次の日だと思っているようなんです」

 と医者がいう。

「ということは、その男の人は、ここ一週間くらいの記憶がポッカリ開いているということでしょうか?」

 と警察に聞かれて、

「そうですね、本人は記憶を失っているという意識はないようで、自分の中で、一週間ずっと眠っていたと思っているのかも知れませんね」

 というではないか。

「そんなことって、普通にあるんですか?」

 と刑事に聞かれて、

「自然な状態でも絶対にないとは言い切れませんが。ほぼ可能性としては、少ないですね。どちらかというと、外的要因で記憶が消えていると考える方が強い。何かトラウマになるようなショッキングなことを見てしまったという可能性か、誰かに故意に記憶を消されたという考え方ですね」

 じゃあ、何かを目撃したんでしょうか?

 と刑事がいうと、

「そうですね。何かを目撃してショックで記憶が失ったのだとすれば、記憶を封印させたのは、自分なんです。それを呼び戻すには、患者の意識を、もう一度、そのショッキングなことが起こった場所に連れていって、どうしてそうなったかということを、その時点をスタートラインにしないといけない。だけど、自分で籠ってしまった意識をもう一度その時点に持っていくというのは危険性がある。もう一度その場所に持って行ったことで、今度は本当に意識を硬化させてしまい、二度と、その期間のショックを、思い出せないように本当に封印してしまわないとも限らない。そういう意味で、これは諸刃の剣だと言えるのではないだろうか?」

 と先生は言った。

「先生はどう思います?」

 と聞かれて、

「彼の意識は今、記憶を封印したその場所でいったん止まっています。これから生まれる意識や記憶は、新たにリセットされたものなので、まったく別のものです。だから、彼にとって記憶を喪失したその瞬間は、いつまで経っても、一週間前なんですよ。色褪せることはないという意味で、今、無理やり記憶を取り戻させるのは危険がある。どうしても、何かの証言が必要だということになっても私はなるべく、彼をそっとしておきたい。しぜ治癒を目指してね。そういう意味で、難しい判断だとは思います」

 というのを聞いて、

「じゃあ、もう一つというのは?」

 と刑事が聞くと、

「それは、催眠術のようなものを掛けられて、強引に記憶を封印させられた場合ですね」

 という答えが返ってきた。

 なるほど、この二つなら、話は通じる気がする。ただ、普通に考えると、二つのうちでは、最初の方が圧倒的に可能性としてはあり得ることではないだろうか。

 ただ、この時点では、まだ、被害者が誘拐されたという事実が分かっていないだけに、どうしていいのか判断が難しかった。

 一つ言えることは、

「記憶を失っているこの人は、自分がどこの誰かは分かっていて、一週間以上前の記憶はちゃんと存在しているということである。だから、本当であれば、この人物の身内に即座に連絡を入れ、引き取りに来てもらうというのが、一番なのかも知れないが、医者は少し難色を示していた。

「記憶がなくなっているという事実があるわけで、それを失ったと考えるのか、それとも、自分で封印していると考えるのかで、状況が変わってくると思うんです。だから、後者であって、この人が自分の中でわざと記憶を失うような状況に持って行ったのだとしたり、故意に誰かに記憶を消されたのだとすれば、今ここで突き放すというのは危険な気がしますね」

 と医者は言った。

「ということは、何か犯罪の臭いを感じるということでしょうか?」

 と刑事が聞くと、

「そうですね。今のまま返してしまうと、失った記憶の中に、実は重要な何かを知っていて、そこに犯罪が絡んでいれば、本来なら聞き出さなければいけないことが、永遠に封印されないとも限らないし、もし、この人自身が、犯罪に関わっているのだとすると、命を狙われないとも限らないですよね? そんな危険なところに返して大丈夫なのかということが恐ろしいと思うんです」

 と、医者は言った。

 なるほど、分かりました。とりあえず、この人の家庭を探ってみることにします。

 ということで、この刑事は、清川邸に探りを入れに行った。

 するとそこには、何やら、不穏な空気が漲っていた。やたら緊張した面持ちの人が入り込んでいる。この緊張感は、ただ事ではないと思った。

 刑事の勘で、

「これって、誘拐事件の捜査だろうか?」

 ということを直感したこともあって、それ以上深入りすることなく、署に戻ってきた。

 実際に警察内部で、門松署で誘拐事件が発生しているなどということは公表されていない。もっとも、誘拐事件というのは、最初は極秘に進めるものなので、

「こういうことも仕方のないことか」

 と刑事は感じながら戻ってきたが、

「なるほど誘拐されたのが、記憶を失っている清川平蔵氏だとすれば、辻褄は合うな」

 と感じた。

 しかし、実際に誘拐事件があったとして、

「あのあわただしさは、まだ犯人の細かい要求が被害者側に示されていないということだろう」

 と感じた。

 だが、実際に被害者は、解放されていた。そして、なぜか記憶が失われているのだ。誘拐においてのショックなのか、それとも、誘拐犯側から、自分たちの身元がバレないように、催眠術のようなものを掛けて返してきたのだろうか?

 もし、相手が故意に記憶を消そうとしているのであれば、よほど、記憶が戻ることがないほどに、自信のある催眠を掛けたということであろう。

 それにしても、被害者宅の様子を見ると、まだ事件はスタートラインということだろう。それなのに、犯人側の人質がいきなり解放されているということはどういうことになるのだろう?

 犯人側に、予期せぬ退却しなければいけない事情が持ち上がり、証拠を消して、消え去る道を選んだのだろうが、解放された人間の記憶が戻ってきて、すべてを暴露されれば、それで終わりだろうから、普通であれば、人質が生きて帰ることは珍しいはずなのだが、よほど監禁の際に、犯人を特定できないほど、被害者と接触していないか、それとも催眠が絶対的な効力があり、少々のことでは記憶が戻らないとタカをくくっているのではないだろうか?

 とはいえ、今回のことをこのまま放っておいて、相手に何も知らせないというのは、人道的にはまずいだろう。警察とすれば、管轄の問題もあるし、微妙な判断ではあるが、果たしてどうしたものなのかということを、酒殿署の方でも、考えあぐねていた。

 病院の先生に相談すると、

「相手の誰か、一番信用できる人にだけ話をしておくことができればいいんだと思いますけどね」

 という。

 そこで考えたのが、

「そうだ、相手の弁護士さんに相談してみるのが一番ではないだろうか?」

 ということになった。

 なるほど、記憶を失っている人は、会社社長だという。それだけの人だったら、いちいち調べなくても、ネットで検索するだけで、情報は少しは出てくる。少なくとも、会社のホームページを見れば、社長の顔写真が掲載されているので、彼が話をした身元に間違いはないことがすぐに分かるというものだ。

 だが、気になったのは、明らかな誘拐捜査が行われているにも関わらず、その情報が流れてこないということだ。

 門松署に出向いても、明らかにおかしな、慌ただしい様子はない。普段と変わりない様子だ。

 酒殿署ほど賑やかではないにしても、ここまで平和な様子は、いくら、極秘捜査だとしても、緊張感くらいは、

「誘拐捜査をしているんだ」

 という目で見れば、それなりに浮かんでくる状況が感じられるものではないだろうか?

 それを考えれば、何か自分たちの緊張感と違うものが籠っていると思われ、

「同じ警察でも、管轄が違えば、ここまで違うものだということがよく分かる」

 というものであった。

 とりあえず、酒殿署の春日刑事が、

「清川エンタープライズの顧問弁護士である、犬山慶一郎氏」

 に連絡を入れるということで、ここは一段落だった。

 さっそく春日刑事は、犬山弁護士にアポを取った。さすがに犬山弁護士は、企業の顧問弁護士をやっているだけあって、結構多忙のようであった。

 普通であれば、簡単にアポが取れる相手でもないのだろうか、

「清川エンタープライズの清川社長の消息の件で」

 という内容であれば、さすがに犬山弁護士も無視はできなかった。

 さっそく、弁護士事務所近くのカフェで待ち合わせをすることにした。

 春日刑事がカフェにつくと、すでに犬山弁護士は到着していて、スーツに身を包んだそのいでたちは、

「明らかに弁護士」

 という雰囲気を醸し出していた。

 春日刑事を見つけた犬山弁護士は、立ち上がって、早速名刺を取り出し、

「これはこれは、連絡をいただいたうえに、ご足労までいただいて、申し訳ありません。私は、清川コーポレーションの顧問弁護士をしております。犬山と申します」

 と言って名刺を渡してくれた。

 そして名刺交換が終わると、今度は、ある提案をしてきた。

「今日のお話は、少しプライバシーが絡むお話になろうかと思うので、奥の個室になっているブースに行きましょう」

 と言って、刑事2人をそちらに誘導した。

 このカフェは、奥に個室が用意してある。たぶん、ノマドスペースのような、表でパソコンを持ち歩いたりして作業する人のためであったり、営業で、込み入った話になる場合に使用するための、ブース形式の個室が用意されている。

 今回のような、人に聞かれたくない場合などは、ブース形式になっているので、ちょうどいい。正直、他の弁護士も同じように使っているのではないかと思うと、少し不思議な気持ちではあるが、

「弁護士に対しての気軽な相談」

 のつもりだったが、話しているうちに、話が込み入ってきた時などは、このブースは重宝される。

 幸いなことに、ブースのスペースも十分に作られているので、満室になるということも、めったになかった。この日も半分以上が空室になっていて、どうやら、これが普段の姿なのだろうと、春日刑事は感じていた。

 コーヒーを注文すると、カギがかかるようになっていて、ウエイトレスが出ていくと、さっそく弁護士の方が話しかけてきた。どうやら、この話に前のめりなのは、弁護士の方であって、春日刑事は、

「ここまで前のめりになるということは、やっぱり何かあったんだな?」

 と、最初の勘がほぼ当たっていることが証明された気がした。

 春日刑事の方では、

「社長が見つかって、無事にいるんだけど、少し体調を崩されているので大事を取って、入院させている」

 ということだけを話していた。

 要するに詳しいことは、何も犬山弁護士は知らないはずであった。だからこそ、前のめりになるのは、当然のことであろうが、とりあえず無事だということさえ分かれば、

「何かの事件に巻き込まれたかも知れない」

 と思ったとしても、一安心なはずなので、前のめりになることはないだろう。

 ということは、やはり想像していた通り、事件性があることに、社長は首を突っ込んでしまっていると言えるのではないだろうか。

 もし、そうだとすれば、相手は弁護士だとはいえ、簡単に返すわけにはいかない。もちろん、事情を聴く必要があるのだが、肝心の本人の記憶が飛んでいるのであれば、どうしようもない。

 一応、医者に、

「まさかとは思いますが、自分で意識して記憶喪失になるなんてことできるんでしょうか?」

 と訊ねてみたが、

「できる人もいるでしょうが、普通の人では無理です。それなりに能力を持った人間が行うか、それとも、催眠術でその力を覚醒することができる人がいれば、その人の手によって、記憶喪失にさせることも可能でしょうが、これには、いくつかの偶然であったりパターンが必要になるでしょうから、急にできるというものではないでしょうね」

 ということであった。

「じゃあ、この人が記憶を失ったのは、ショックを受けたことで、心を閉ざしてしまう場合や、他人からの圧力で記憶を失う場合があるということでしたが、前者の方が圧倒的に強い可能性を孕んでいるということでしょうか?」

 と医者に聞くと、

「それは、当然そうだと思いますよ。ただ、前者だって、まったくのゼロというわけではない。限りなくゼロには近いですがね。ただ、後者の方だって、かなり無理のあることでもありますよ。どちらにしても、何かの組織が働いていないとできることではないので、事件性という意味では大きいのではないでしょうか?」

 ということであった。

 そんな話をまず、医者としてきているので、弁護士ともそれを踏まえたうえでの話になる。

 弁護士は当然、顧問弁護士なので、すべてのことを分かっていて、そして、あれこれ指示を出しているのだろう。

 ただ、電話で

「犬山さんが顧問弁護士をされている、清川コーポレーションの社長さんなんですが、実は、今病院に入院されているんですが、ひょっとして、行方不明か何かで、お探しだったでしょうか?」

 と訊ねると、電話口であっても、明らかに動揺しているのが分かった。

「ああ、そうですか、それは助かりました。面会とかできますか?」

 と平静を装いながら、そういったのだ。

 普通であれば、

「どこで、どのように見つかったのか?」

 などということが気になるはずである。それを気にしないということは、やはり行方不明になっていることは分かっているようだった。そして、門松署の人がバタバタしているのを見ると、

「誘拐事件だ」

 と、すぐに分かったのだった。

 だが、公表はしていない。あくまでも極秘捜査を行っているということは、

「人命第一」

 ということであろう。

 誘拐されたのが、有名企業の社長ということになると、もし公開してしまうと、社会的影響も大きい。犯人からの要求なのか、それとも、当事者の判断か? 少なくともこの時点で警察がいるということは、後者の可能性が高いのだった。

「面会は、今のところできないと思っていただいた方がいいですね」

 というと、少し弁護士は怪訝な様子だったが、

「そうですか。お医者様もおられるということですから、安心ですね。申し訳ありませんが、もうしばらくよろしくお願いします」

 と言って、少し話を流そうとしているように見えた。

 だた、よく見ると、指先が震えているのも分かる気がした。微妙なので、刑事の目で疑って見ているから、そんな風に感じるのか、聞きたいことがたくさんあるということが、見え見えだった。

「清川社長は、意識はあるんですが、ちょっとその瞬間の記憶が曖昧なようなんです。なぜ自分が、そこにいるのかということを忘れているようで、ちょっとしたショック状態から、記憶が少し曖昧なようで、医者の話からは、あまりいろいろ聞いてはいけないということだったので、念のために入院をしてもらうことと、あまりお騒がせをしたくないということもあるでしょうから、まずは、弁護士さんに連絡を入れさせてもらいました」

 と、春日刑事が言った。

 それを聞いて、犬山弁護士は、とにかく一安心という感じだった。

 それは、

「誘拐されていた」

 ということを裏付けているようなものだが、安全が図られたことで、春日刑事には話してもいいとは思ったが、きっと、門松署に依頼している関係で、管轄外の春日刑事に先に情報を流すというのは、まずいと思ったのだろう。

 彼ら弁護士は、必要以上に警察を敵に回すことはしたくないはずだ。ただでさえ、弁護士と警察官というと、犬猿の仲と言ってもいいくらいなので、何もないところで、余計な確執を植え込む必要はないだろう。

 ただ、これで、春日刑事としても、この事件が、元々誘拐事件から始まり、犬山弁護士が、いろいろ指示を出しているのだろうということが分かったのだった。

 春日刑事が気になったのは、

「一体、犯人の目的は何だったのだろう?」

 ということであった。

 先日の清川邸の様子を見ている限り、犯人とのファーストコンタクトはまだのように感じられた。

 まだ、これからいろいろな危機を運び込んでいるのが分かったからだが、そもそも、警察がいつの段階で、どのようにして介入することになったのかということを、酒殿署の方では分かっていない。

 酒殿署は、最近、いろいろな事件が多発しているわりに、門松署の方では、さほど事件らしい事件はなかったのを把握しているので、今回のような事件は、いきなり出てきた大きな事件であったのは間違いない。

 それだけに、少し浮足立っているのも確かであろう。

 なるべく今回の事件を、大っぴらにしたくなかったのは、被害者の命最優先だということは当たり前のこととして、捜査の進め方に自信がなかったというのも本音だったのかも知れない。

 被害者の家族も、そんな門松署に捜査を依頼しなければいけない状況に、苛立ちを覚えているのかも知れない。それは弁護士であっても同じことであり、今来ている、福岡刑事もどれほどあてになるというのか、気になるところではあったのだ。

 そんな状態の中で、なぜか、無事(とは言えないかも知れないが)に、戻ってきたということが分かったのは、弁護士としては一安心だった。

 そこから先の犯人捜しは警察の仕事であり、弁護士としては、

「二度とこのようなことが起こらないようにするという、再発防止」

 というのが、一番の課題となる。

 無事であるということが分かったのだから、後はゆっくり詰めればいい。

 命を最優先としなければいけないわけではなく、フッと肩の荷を下ろすことができるのは、ありがたいことであった。

 本当は、もう少し弁護士から、この事件のことを探ろうと思っていたのだが、どうも、そういうわけにはいかないようだった。

 というのも、肝心の犬山弁護士も事件の概要を、表に出ている部分以上のことは分かっていないようで、聴き出すこともないと思えた。そもそも、事件としてはただ誘拐の事実と、それを家族に犯人が伝えたというだけで、実際に身代金を要求したり、脅迫めいたことを言ったりはしていないので、今のところ、誘拐と、拉致監禁、しかも、どのような環境に監禁されていたのかということも分かっていない状況だ。少なくとも外傷があるわけではなく、迫害を受けているわけではないことから、大きな事件になりそうではない。そうなると、被害者側が被害届を出すということも考えにくい。しかし、誘拐があったというのは、事実だったのだ。

 とりあえずこの日は、春日刑事が、社長が見つかったということを密かに教えにきてくれて、ただ、面会は今の時点ではできないこと、できるようになれば、病院の方か、警察から連絡を、弁護士に直接入れること、そして、このことは、お互いに公表はしないことというのを、条件として、話を終わらせた。

 極秘にすることに関しては、相手方の方が望んでいることでもあり、相手としても、願ったり叶ったりであったが、さすがに、社長の意識がしっかりしているにも関わらず、連絡を取れないというのは、気になってしょうがないようだった。

「とにかく、社長と話ができるようになったら、急いで、連絡をしてもらえることを望みます」

 と言って、それ以上は言及しなかった。

 春日刑事が、弁護士を近づけなかった理由は、推察のように、記憶が半分消えているからであった。

 しかし、春日刑事は、それらしきことを匂わせておいて、さらに、社長の意識がしっかりしているということも、なぜか話した。

 普通だったら、

「社長は、意識不明の面会謝絶」

 と言っておいてもいいくらいではないだろうか?

 命には別条はないとさえ言っておけば、誘拐されて、どこにいるのか分からないというよりも、はるかに気が楽なことであろう。

 なぜか春日刑事は、清川家の関係者、あるいは、犬山弁護士に安心感を与えたくないというような思惑があるようだ。

 春日刑事の思惑がどこにあるのかは分からないが、後ろ髪を引かれるような思いを抱いていたことに間違いはないだろう。

 そんな状態を見ていると、

「まだ、この事件には何か裏があるんじゃないのかな?」

 と思い、犬山弁護士が、まだ何かを隠しているように思えてならなかった。

 確かに、弁護士というのは、

「依頼人の財産やプライバシーを守る」

 というのが、最優先であり、

「依頼人を裏切ると、この世界では終わりなんだよ」

 ということなのだろう。

 だから、相手が警察であっても、さすがに自分の手が後ろに回らない程度に、法律だって、抜け道を探すことだろう。

 つまり、弁護士と依頼人は、特殊な信頼関係で結ばれていないと、お互いに成立しないことになる。逆に言えば、弁護士を信頼していなければ、いくら弁護士に依頼しても、守ってはくれないということだ。

 弁護士としても、何かあれば、必ず、依頼人に仔細を確認するはずだ。聞いていた話と違ったり、ウソをつかれたりすると、弁護士の憤りはかなりのものとなる。

「私には、すべて話してくださいね。そうじゃないと、裁判になったら、弁護のしようがありませんからね」

 というのだった。

 それは当然のことであり、いくら必死に弁護しても、検察が出してくる証拠から、こちらの証拠の辻褄が合わなくなるなどすれば、弁護士は、お手上げである。

「話が違いじゃないですか? もしこれ以上他にウソがあったら、弁護のしようがありませんよ」

 ということになる。

 もう、こうなってしまっては。弁護士と依頼人の関係はぐちゃぐちゃになり、依頼人が弁護士を解任するか。逆に弁護人が、弁護できないということで、降りてしまうかということになる。

 もう一度弁護人を変えるとなると、もうその時点で裁判はかなり遅れを取ることになるだろう。

 そうなってしまうと、裁判はもっと時間が掛かるようになり。最初に比べれば、倍以上の時間が掛かるだろう。

 それは、原告側の精神的な疲労にもつながり、裁判自体をダラダラにさせてしまって、「何が真実なのか?」

 ということが曖昧になってくる。

 そんな裁判がかつてあったかのような気がしたが、実は、そのテクニックは父親である、犬山慶次氏のものであった。息子の慶一郎が、そのことをどこまで分かっているのかは知らなかったが、春日刑事は、

「犬山弁護士は、手ごわそうだ」

 と感じていたのだった。

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