第5話 解放

「被害者の会」

 というと、どうしても、弁護士の力が有力だったのではないかと思ったので、刑事とすれば、

「誰か、優秀な弁護士さんがついていらしたんですか?」

 と聞かれた会長は、

「ええ、そうですね、まだ40歳になるかならないかというくらいの若造ですからね。自分一人で、そんな被害者たちをまとめていくだけの力も知識もありません。会社の顧問弁護士が優秀で、裏からいろいろ手助けしてくれていました。ただ、そこには、その弁護士の思惑もあったようで、被害者の会の発足を促した人物は、どうやらその弁護士が裏で糸を引いていたようなんです。でも、顧問弁護士とはいえ、そんな簡単に人を集められるわけもないでしょうね。ここからは私の想像なんですが、先代がそこに絡んでいたと思うんです。最初の言い出しっぺが弁護士からなのか、それとも先代からだったのかははっきりとわかりかねる部分はありますが、ただ、この二人が手を握って、作戦を考えていたとすれば、それはかなり強力だったと思います。だからこそ、被害者の会では、何とか、裁判を起こしても、被害者たちにとって、悪いようには決してなっていなかったですからね」

 というではないか。

「そういうことだったんですね。先代がそれだけしっかりしていたということなんでしょうが、やはり会社の創始者というだけのことはありますね」

 と福岡刑事は言った。

「ただ、被害者の会と言っても、結構いろいろな人がいましたからね。被害を受けた本人だけではなく、被害者が身動きが取れなくなってしまって、家族の方、息子さんが出てくることもありました。この場合、本当をいえば、息子がもっとしっかりしていれば、被害者が、詐欺にあうこともなかったんですよ。それなのに、被害者の会が立ち上がったのをいいことに、ここぞとばかりに出てきて、いかにも被害者面する連中もいたんですよね。さすがに弁護士も私も、そんな連中の浅はかな考えはすぐに分かり、本当は除名したいところなんですが、どうしても、除名まではいかない。しかたなく、そんな連中にはなるべく、有利にならないようにしようと画策はしましたね」

 と会長は言った。

「それでうまく行ったんですか?」

 と刑事が聞くと、

「ええ、まあ、そのあたりは案外と簡単だったですよ。それだけ弁護士の先生が優秀だったとも言えるのでしょうが、本人たちにも自分たちが少し他の人に比べて、あまり得をしていないという感覚になっていないとは感じさせないように、うまくやってました。本当に敏腕な弁護士さんだったんですね」

 と会長は言った。

「なるほど、でも、まさかその時の人がいまさら何かを企んだりはしないと思いますけどね」

 と刑事がいうと、

「それはそうでしょう。でもですね。その後しばらくして、その時に少し不利な条件で落ち着いた息子さんに当たる人が、少ししてうちの会社を脅迫してきたんです。どうやら、どこからか、情報が漏れたかのようだったので、最初は、優秀な顧問弁護士に探らせたんですが、どうも、よく分からないということだったんです。そこで、今度は私が個人的に影で、探偵を雇って、密かに探らせると、何と、顧問弁護士が裏で画策をしていたようだったんですよ。弁護士は、先代が目を掛けてやっていたんですが、私の代になって、不安になったか、それとも私に恨みのようなものでもあったんでしょうかね、完全な裏切り行為に私は彼をクビにしました。すると、他の会社ですでにちゃっかりと顧問弁護士になっていて、ビックリしました。ひょっとすると、それもやつの計算づくで、顧問弁護士についた会社と、密約か何かがあったのかも知れないと思っています」

 というではないか。

「そうなんですね」

 と刑事がいうと、

「はい、今度の事件とは関係がないかも知れないですが、弁護士というのは、こちらの見方であるはずなんでしょうが、裏切りに走ると、実に厄介なものです。一応、弁護士というのは、社会通念上の違反さえ犯さなければ、つまり法律違反ですね? 後は、依頼人の権利を守ることがすべてに対して優先されるんですよ。その依頼人が、実は表に出ている依頼人と違っていれば、卑怯に見える態度も、正しい行動だということになってしまうんですよね」

 と、会長は言った。

「今の弁護士さんは、どうなんですか?」

 と聞かれた会長は、

「そうですね、昔の経験があるので、誠実な、というか、この会社にふさわしい人を私が選んだつもりなんです。ちゃんとしっかりやってくれていますよ、私が社長時代には、すべてをキチンとまとめてくれましたからね、彼の場合は、何かが起こってから対処することよりも、災いを未然に防ぐというところがしっかりしているようで、そのあたりが頼りになる人なんですよ」

 という。

「確かにそうですよね。未然に防ぐというのが一番です」

 と、少し苦笑しながら福岡刑事がいうと、それを察してか、社長もニンマリと含み笑いを浮かべて、

「ええ、そうですね。特に刑事さんたちは、その言葉を身に染みて感じるんじゃないですか?」

 と言われ、福岡刑事は、

「痛いところを突かれた」

 と感じた。

 何と言っても、警察というところは、

「事件が起こってからでないと、自分たちは動けない」

 という足枷を身に染みて分かっているからだった。

 特に今のようなストーカー事件であったり、DVであったりするものは、よほどの証拠がないと動けない。それこそ、被害者が殺されたりしない限り動けないのだ。

 ストーカーにしても、DVにしても、犯人はうまく隠してしまう。被害届を出しても、ストーカーであれば、

「あなたの家や通勤路を少し重点的にパトロールするようにします」

 であったり、

「もし、危険な目に遭いそうな時、ケイタイ電話からあなたの番号で連絡があった場合、電話に出なかったりすれば、危険性ありとして、最優先で対応するようにします」

 というだけである。

「危険な目に遭いそうで、電話で警察に連絡を取るような場合は、もうそれでは遅いではないか? 警察が駆けつけてみれば、殺されていたというのでは、シャレにならない」

 とは思うが、警察がそういうのであれば、どうしようもない。

 被害者とすれば、勇気を振り絞って警察に相談に来ているのに、完全に身体から力が抜けることだろう。

 一縷の望みが断たれてしまうということであろうか。

 DVや、幼児虐待などでもそうである。子供が危ないというのを、他の保護者が察知して警察に通報しても、自治体から、人がやってきて、簡単な調査や聞き取りをしただけで、

「問題ない」

 と判断されてしまうと、二度と誰も、助けの手を差し伸べることはないだろう。

「一度、係の人間が赴いて、話を聞いていて、怪しくないという報告を受けている」

 と言えば、それ以上の詮索はできない。

 そもそも、幼児虐待をしている親に対して、

「あなたは、子供を虐待していますか?」

 と聞いて、

「はい、しています」

 というやつがいるわけもない。

 自治体の人間と言っても、家庭のプライバシーには入り込めないというジレンマを抱えているのか、それとも、お役所根性で、

「面倒なことには関わりたくない」

 ということなのか、もし何かあって、問題になれば、最初に面接に行った人間が、非難を浴びて、ただでは済まないということを分かってのことなのだろうか?」

 それを考えると、警察にしても、自治会にしても、完全に、

「お役所仕事」

 というものである。

「一体何が一番大切なことなのか?」

 ということを分かっておらず、結果として、自分のことしか考えていないということになるのだろう。

 そういう意味では、お金を相当分払っている、顧問弁護士などは、会社のために、汚れ役を引き受けるだろう。ただ、中にはここにいた弁護士のような、一風変わった男もいたというのは、どこまで安心できるか、分かったものではないということである。

 署内で持って行った道具を科学班にセットしてもらい、とりあえず待機するしかないのだが、なかなか犯人からの連絡はなかった。昨日連絡してきたのだから、今日中にはあるだろうと思って、待機していたが、この日には、連絡が入ることはなかったのだ。

 社長が誘拐されたことで、会社の方はさぞパニックになっていることだろうと思っていたが、

「会社の方は、とりあえず、副社長と専務が仕切っているので、何とか持っています」

 という話だったので、そのあたりの危機管理も会社としては、しっかりしていたのだろう。

 ただ、奥さんの方は精神的にかなりきついようで、元々、精神的に弱いところがあるようで、それが身体にきたのか、少し寝込んでいるようだった。何と言っても、最初に電話に出たのが奥さんだったようで、その時のショックはかなりのものだったという。それを考えると、寝込んでしまったのも無理もないということか、特に最近では、躁鬱症の気があって、神経内科に通っているということだった。

 社長との間に、子供は一人いて、今はまだ中学生だという。子供としても、親のことが心配なのかと思いきや、実は今家出中だとかで、行方は分かっているのだが、今のところ、好きなようにさせているという。

 会長がいうには、

「息子も、高校時代には家出をしたことがあったんですが、居場所も分かっていたので、好きなようにさせていたんです。大学受験に成功すると帰ってきたので、孫も同じようなことだと思っています。今回のこの事件のことは、孫は知りません。だから、その知らない間に、何とか息子を助け出してやりたいんです」

 ということだった。

「そうですか。その選択は間違っていないかも知れないですね。いたずらにお孫さんを刺激するのはまずいと思いますし、皆さんとしても、知っている人がなるべく少ない方が、犯人を刺激しないということなんでしょうね」

 と刑事がいうと、

「ええ、そうだと思います。孫も、別に家出をしたからと言って、悪い道に走っているというわけでもなく、息子もそうでしたが、家族から離れて、自立の第一歩なのだろうと思っているんですよ」

 というのだ。

「分かりました。被害者の奥さんのことも、お孫さんのことも心配でしょうが、今は息子さんが、無事に帰ってくることができるように、我々に協力ください」

 と福岡刑事は言った。

「協力と言っても、私には何もできませんよ?」

 というと、

「今のところ、犯人から、具体的な要求がないので何とも言えませんが、誘拐ということは、身代金の要求があるかも知れません。これが、警察内での公開捜査であれば、警察側でお金の用意もできるんですが、今回のように、極秘で、しかも、一部の人間しか知らないとなると、身代金の用意はできません」

 と警察の事情を話した。

「ええ、もちろん、分かっています。こちらから、極秘でというのはお願いもしていますので、そのあたりは分かっています。こちらも弁護士に相談しながら、できるだけのことはしていくつもりです。身代金にしても、少々の金額であれば、用意することはできます。だから、後は、いかに、息子を助け出すかということだと思っております」

 というので、

「そうですよね。とりあえずは、犯人グループからの連絡待ちになりますね」

 と福岡刑事は話すと、その会話はそこで終わってしまった。

 いつ連絡があるか分からない状態で、この緊張感というのは、刑事でも結構きついのにm年齢もすでに70歳を過ぎていて、会長職を務めるだけでも、結構な神経を使うのだろうと思っているので、この息の詰まるような極限状態は、なかなかきついものだ。

 二階で休んでいる奥さんも、医者が来てから、鎮静剤を注射したりして、抑えているが、当初はかなりきつかったようだ。

 それでも、早朝の警察への電話も、かなり身体を無理させていたようで、警察も電話を掛けてきた奥さんの話をもう一度聞きたかったのだが、まさか、倒れて、ほぼ危篤状態になっているなど思ってもみなかったので、

「奥さんの方には、当分、面会はできないでしょうね」

 と弁護士がいうので、そこは断念するしかなかった。

 とりあえず、警察としては、誘拐された社長の父親である会長と、緊急時にすべてを仕切っている、ここの顧問弁護士に話を聞くしかなかった。

 ここの顧問弁護士は、基本は会社に雇われているのだが、そもそも、同族会社なので、家族のことも、トラブルがあれば、解決してきた。名前を犬山慶一郎といい、2代目なのだという。

 2代目というのは、この清川家の顧問弁護士になってからの2代目ということであった。犬山慶一郎の父親の犬山慶次という弁護士は、平成の時代の、昭和の泥臭さと違い、人間性の薄れてきた時代を、法律の網を抜けるような手法にて、何とか切り抜けてきた、法曹界でも有名な弁護士だった。

 人によってうわさの内容が違ってくるのは、

「相手によって、その態度を変えることで、世渡りしてきた」

 という証拠であろう。

 逆に言えば、それくらいのことができなければ、平成の世を渡ってこれなかったということであろうか。

 平成の時代というと、犯罪も多様化してきた。

 昭和最後の事件としての、老人を狙った、あの詐欺事件といい、複数の食品メーカーを狙った事件といい、平成に入ってから、その極悪非道さが、次第に人の感覚をマヒさせたかのように、

「こんなひどい事件、見たことがない」

 と、昭和の頃では言われていたようなことが、平成になると、平気で起こるようになってくるのだ。

 社会問題もいろいろ変格してきた。

 学校では、いじめ問題が増えてきて、不登校になり、そのまま引きこもりになるという例が増えてくると、それが、いつの間にか、当たり前のようになってくる。

 引きこもってゲームばかりをしているので、それが当たり前になってくると、事件も次第に様変わりしてくるのだ。

 パソコンが普及し、インターネットが当たり前になってくると、いろいろな詐欺事件が増えてくる。

 送られてきたメールを開くと、コンピュータウイルスに感染し、情報を抜き取られたり、電話で不特定多数にかけまくって、そこで、ネットを利用したことで発生した利用料を振り込まなければ、罪になると脅して、振り込ませるなどの手口が増えてきた。

 昭和のような、特定の人をターゲットにするわけではなく、とにかく、

「下手な鉄砲数打てば当たる」

 とばかりに、手当たり次第に電話して、反応した連中をまたターゲットにするというような詐欺であった。

 手口が分かってくると、今度はまた別の詐欺が流行ってくる。そのうちに、今度は、昭和最後の詐欺事件との重ね技のような事件も起こってくる。

 いわゆる、

「オレオレ詐欺」

 と言われるやつで、孫がいる一人暮らしの老人をターゲットに、

「事故ってしまって、人にケガをさせた」

 だとか、

「仕事でミスって、自分が弁償しなければいけない」

 などと言った話を、まるで孫が自分から電話を掛けてきたかのように、

「オレオレ」

 と言って、老人を騙すやり方をするので、

「オレオレ詐欺」

 というのだが、時代は変わっても、老人の孫可愛さであったり、寂しさに付け込むというのは、詐欺として狙われやすいものである。

 孫が困っていると言われれば、放っておく老人はまずいないと思い込んでのことだろう。

 もっとも、5人のうちの一人が成功したとしても、十分なくらいではないかと思うが、やっていることは犯罪なので、それがバレた時に被る自分たちの損害を考えると、そこまで犯罪に対して真剣に取り組んでいないのかも知れない。

「今の犯罪は、誰もがやっているような手口で、気軽に、それこそゲーム感覚でやっているのかも知れない」

 と思うと、やり切れない気持ちにもなるというものである。

 やっていることは、卑劣でえげつない犯罪なのだが、それをやっている連中がゲーム感覚だとすれば、たまったものではない。

「ちょっとした小遣い稼ぎ」

 くらいに考えているのだとすれば、言い方は悪いが、昭和の頃の犯罪の方が、もっと真摯に犯罪に向き合っていたという意味で、まだ、

「潔い」

 と言ってもいいのではないだろうか?

「ひょっとして、犯罪マニュアルのようなものがあるのかも知れない」

 などとも考えたりする。

 これは犯罪だけではなく、仕事においてもそうなのだが、例えば、プログラミングなど

昔であれば、それなりの学校を出た人が、専門知識を身に着けて、当然最初の頃は、プログラマーなどは、本当に専門的な勉強をした人しかできなくて、それだけに会社には先輩がいなかっただろう。

 そうなると、部署内で教えるということもできず、おのずとコンピュータの開発メーカーが、講座を開いて、そこにプログラマー養成という形で、数日間の研修を受けることになるだろう。

 しかも、昔のコンピューターは互換性がないので、メーカーごとに開発環境であったり、それを使うための捜査が難しかったりする。そのため、購入した会社のセミナーや研修を正しく受けなければ、動かない。それだけ、メーカーごとに独自のOSが存在し、今のように、互換性のあるものはなかったのだ。

 パソコンが普及し、マウスによるウインドウズのようなOSが出てきてやっと。共通の開発ソフトが生まれてきた。

「データを入力して、伝票を印刷する」

 というのも、昔は、いちいちプログラミングをしていた。

 それが、ウインドウズなどのOSが出てくると、エクセルやワードのように、打ち込んだものを、印刷用にページ設定さえすれば、いくらでも出せるようになる。

 要するに、打ち込んだデータをいかに、保存しておくかということさえクリアできれば、普通の事務員でも、営業社員であっても、簡単に使えこなせる時代になったのだ。

 さらに、今はほとんど互換性を気にすることもないので、

「パソコンができるのは、当然である」

 という見方をされるようになる。

 だから、就職活動において、普通自動車免許と同じくらいに、エクセルとワードができるくらいは、当たり前となってきた。むしろ、

「エクセル、ワードができないような人はいらない」

 とまで言われるようになった。

 昔は、入力専用の女子社員を雇っていたのだろうが、今では誰もができて当たり前。そんな時代になってきたのだ。

 そんなことを考えていると、犯罪が多種多様化してきたのも分からなくもない。前述で示した、

「犯罪マニュアル」

 なるものだけではなく、ひょっとすると、陰で、

「犯罪教室」

 なるものもあるかも知れない。

 それだけ、会社で普通に仕事をする人と同じくらいに、犯罪に加担している人もいるかも知れない。

 要するに、パソコンでのちょっとした事務処理に使うプログラムくらいは、エクセルなどで普通にできて当たり前の時代である。専門家でなくても、ちょっとした犯罪ならできるというものだ。

 後はノウハウだけの問題で、それを教える教室のようなものがあれば、そこに通う人も多いかも知れない。

「ちょっとした犯罪くらいであれば、たくさんの人が関わって、少しずつ、ほとんど内容に無関係の人間がかかわっているとすれば、それは犯罪者の元締めとしてはいいのかも知れない」

 と言えるのではないだろうか。

 メリットとしては、

「警察に目をつけられても、階層のようになっていれば、なかなか上には辿りつけない。さらに、底辺でたくさんの人が関わって、底辺での横のつながりは分かっても、そこから上に上って行って。黒幕に辿り着くのは。困難である」

 と言えるのではないだろうか?

 それだけ、

「犯罪自体はワンパターンなのだが、そんなに難しいことを考えなくても、ちょっとした詐欺くらいはできるのではないか?」

 ということである。

 警察というのは、科学捜査は出てきたが、それでも、犯罪になかなか追いつけないのが現状ではないだろうか? 上層部が昔の、まるで昭和を引きずっているようで、犯罪に追いついてこない。それに比べれば、犯罪者の方は、どんどん細分化されていき、犯罪が表に出て、やっと警察が捜査に乗り出した時には、犯人グループは、すでに抜けていたとでもいうのだろう。

 事件が急転直下したのは、その日のうちのことだった。

 犯人からの連絡を根気よく待っていたが、一向に電話がなる気配もないし、連絡が他から入ってくるということもなかった。

「警察に連絡をしたので、警戒しているんでしょうか?」

 と、会長がいうと、

「そんなことはないと思います。警察には連絡が行くとこは、やつらにも最初から分かっていたことでしょう。何しろ、絶対に言わなければいけない、警察には言うなという言葉を一言も言わなかったんですからね」

 というと、刑事がその横から、

「でも、どうして、そう断言できるんですか? 犯人だって人間です。ムカついてしまうと何をするか分からないし、緊張していると、言わなければいけないことを、ついつい言いそびれてしまうことだって、あるんじゃないですか?」

 というのだった。

「それはそうかも知れませんが、相手は落ち着いていたんでしょう?」

 と刑事が訊ねると、

「ええ、それは確かに落ち着いていましたけど、やっぱり、警察にいうのは、控えた方がよかったんでしょうか?」

 というので、

「いや、そんなことはないと思います。とりあえず、連絡がなければ、何もできないので、待っているしかないと思います」

 福岡刑事は分かっていた。

 連絡がないのは、すでに身代金を必要としなくなった。いや、取ることができなくなった。つまりは、被害者はこの世にいないという考え方だった。

 ただ、それはあくまでも、最悪の場合のことで、考えられてもその確率はかなり低いだろう。

 まだ、事件は始まったばかりで、一度も脅迫してきたわけではない。今だったら、ただの誘拐で済むだろうから、これが殺人ともなると、何もしていないのに、重大事件になってしまうことを、誘拐を最初に考えるだろうか?

 もし、恨みがあっての殺人であれば、誘拐するだけの計画性に優れているのだから、殺人だけにターゲットを絞れば、それほど難しいことではないだろう。

 犯人の目的も、犯人像もまったく分かっていないのだ。それだけ、事件としては、

「発生した」

 というだけで、それ以上のアクションはまったくない。被害者家族も、心当たりはまったくないという。

 すると、社長職だからという理由や、この家での出来事からの恨みや、営利目的ではないということだろう。

 もちろん、この家や、会社で表向きに分かっていることを調べると、被害者が人から恨まれるようなことはないという。

 もっとも。逆恨みなどでは、本人やまわりにとって、

「こんなことで、まさか恨みを買っているなんて」

 ということもあるだろうし、営利目的であれば、動機は、

「借金か何かがあって、切羽詰まってきたことで、周りにいる金持ちを誘拐し、お金だけを拝借する」

 というようなことはあるかも知れないが、そうなると、範囲は相当増えてきて、被害者とまったく縁もゆかりもない相手ということもありえるのだ。

 そんなことを考えていると、警察から連絡があった。

「福岡刑事。被害者の清川平蔵さんが、見つかったそうです」

 ということだった。

「見つかった? じゃあ犯人が何かの理由で返してきたということなのか?」

 と聞くと、

「よくは分からないんですが、フラフラと歩いているところを、旅行者が見つけたそうです。場所は、隣村にあるダム公園だったそうなんですが、見ていて、脚がふらついているので、危ないと思い、制ししたんだそうですが、完全に無表情で、疲れ果てている状態だったそうです。最初は薬でもやっているのかと思ったそうですが、薬物ではなくて、睡眠薬を飲まされていたようなんです。もっとも、一気に眠ってしまうほどではないそうですが、医者とすれば、それまでの記憶が実に曖昧で、意識がハッキリしてからも、しばらくは様子を見ないと難しいと言っています。だから、彼から証言を取るのはしばらく難しそうです。でも、犯人は、どうして、簡単に逃がしてくれたんでしょうかね?」

 というのであった。

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