73.彼女の戦い
「ロラ」
「何も言わないで」
彼女の表情はゾッとするほど淡白だった。
「エッタちゃん、だったわね。彼女を埋めたあたりから聞いていたわ」
「つまり」
「アナタが今どういうつもりでいるのか、全部知ってるわよ」
声はさらに冷たい温度だ。
そのうえ背後からは、より剣呑な雰囲気が迫る。ナカソラコだ。
「私がどかそう」
「そこまでしなくとも」
「すでに通報してあって、一分一秒を足止めする段階かもしれない。ムダな会話してる場合じゃない」
ある意味作戦会議とも言えるのに、ある程度ロラにも聞こえる大きさで話す。
図星だったら、という反応を窺っているのだろう。実際彼女なら、些細な動きや目線といった心理学的分析よりも、正確な測定ができるだろう。呼吸、発汗、心拍。嘘発見器だ。
ロラもそれは分かっているだろう。
「安心して。そんな余裕なかったわ。聞き入っちゃって」
そのうえでケロッと両手を上げる。
「だから少しトーンを落としましょう。誰か起き出すといけないわ。さぁ、来て」
そのままクルッと背を向けて、廊下の先へ進みはじめた。
「来るって、どこへ」
「バカなの?」
振り返る彼女の顔は、普通に心底呆れた様子。
「急いでるんでしょ? さっさとしなさい」
寮を出るまでは無言だったが、一歩出るとロラは堰を切ったように語りはじめた。
「この風雨だし、もう声出しても誰にも聞こえないでしょう。さ、アッシュ。アナタのパスワードを教えなさい」
「は? パスワード?」
「ここのパソコンのアカウントの!」
「いや、そうじゃなくて」
「何!? 風が強すぎて聞こえてないのかしら!?」
「そうでもなくて!」
こちらを少しも振り返らず、早歩きで進む彼女の考えは読めない。
「いい? ソラコは脱走兵で、アナタはそれについてくんでしょ? つまり軍から追われる立場よ。で、ソラコは前線の混乱に乗じて出てきてたからまだバレてない」
「うむ」
「じゃあアッシュ。アナタはどう?」
「オレ?」
ようやくロラが振り返る。イラッとした表情でオレの顔を指差す。
「オレ? じゃないわよ! 大きな決断したらハイんなってオトボケ野郎になったかしら!?」
「お、おぅむ」
「こんな世界機密を抱えた、しかもセンシティブで破壊力のある人体改造をしてた研究者。失踪したらどうなる? 政府は山岳レスキューからダイバーまで動員してアナタを探すわよ!?」
「ああああ」
「そしたら透明化でもしないかぎり、アメリカを出るまえにでも見つかるわ。ソラコ一人ならそれでも逃げおおせるでしょうけど、アナタはムリに決まってるでしょ。『体育のサッカー、動けないからキーパーやってます』みたいなボディして!」
そこまで言わんでも。たしかにドッジボールは
「足手まといじゃん。やっぱオマエ帰れ」
背後から冷たい声がする。なぜ女子はそうやってオレのことをイジメるのだ。
「でも一応、アッシュがついていく価値もなくはないわ。だからそう、ここから逃げ出すだけじゃなくて。州外や国外へ高跳び、欲を言えばしっかり身を隠して潜伏できる場所を見つける。それまでの時間稼ぎが必要なのよ」
「たしかに」
「だから私が工作する。しばらくアナタがいると思われるように。そのために必要なのよ。アカウントのパスワード」
そうか、最初の彼女の表情。淡白でも冷淡でもなくて。
ただ、緊張して
「しかしどうやって」
「明日アナタのアカウントからボスに『研究でしばらく籠りっきりになる』ってメールしとく。この業界じゃめずらしいことでもないもの。事前に言っておいて日報も送れば、イレギュラーさえなければ一週間はバレないわ」
「監視カメラの映像を見れば、いなことくらいバレるぞ」
「アナタ監視カメラの映像確認したことある?」
「いや、ない」
「でしょう? 警備の人しか見ないし、彼らも誰がどこを使ってるかなんて把握してない。部屋に不審な人物がいるならともかく、誰もいないことは問題にならないわ」
たしかにそうだ。オレだってお籠りに入ったと聞いた同僚の所在を探したりしなかった。報連相も、どうしても緊急でなければ直接行かずにメールだ。
「さ、パスワード教えてちょうだい。それと、アナタがよく使うのはF-4室よね?」
「いやしかし、待て、ロラ」
「何? 脱走のルートくらいは自分で考えてほしい。と言いたいのだけれど、ちゃんと考えてあるわ。明朝、別部署の新製品がオキナワの米軍基地に運ばれるそうよ。
「詳しいな」
「美人には情報が集まるのよ」
「たしかに美人のスパイというのは、いや。オレが言いたいのはそうではなくてだな」
「何? 計画ができすぎるって? 私はデキるオンナなのよ。いつか誰かが脱走するなんて……見越してないわ」
「そうでもないんだ」
「何よ」
ロラの言うとおり、彼女の計画はさっきの今で考えたにしては完璧と言えるだろう。少なくとも現状の手札で用意できる最高点と言ってもいい。
オレたちがヘマをしなければ、おそらく沖縄まではたどり着ける。
そう、オレたちは大丈夫なのだ。
オレたちは。
「ロラ。一週間後、君はどうするんだ」
「……」
彼女は黙って背を向けた。そのまままた、早足で歩き出す。
「ロラ!」
「ま、死刑にはならないでしょ。少し拘束されて、それからクビってところかしら」
「やはり君は」
「いいのよ。パリに帰れば私みたいなデキるオンナ、いくらでも仕事あるわ。最悪友だちのブティックにでもお世話になればいいし」
「ロラ!」
「アッシュ」
彼女の足が止まる。振り返らないその背中が、表情より強く主張する。
「私が『辞めるかも』って噂になった時のこと、覚えてる?」
「あ、あぁ」
「あの時私は『あの子たちが戦ってるのに、自分だけ足抜けなんて』って言ったけど」
拳が強く握り込まれる。きっと爪が刺さっても止まることがないだろうと、強く。
「だけど、あの子たちが苦しんで苦しんで戦って。そのなかで精いっぱいできることを託して死んでいって。そのあいだ、私は何を戦っていたって言うの?」
声が震えているのは、痛みでも寒さでもないだろう。
「アッシュ。アナタは目が覚めたんでしょう? これから自分なりに戦うと決めたんでしょう?」
振り返った彼女の目は潤み、それが敷地内の光源を吸い込んで輝く。
「私も戦うわ。自分にできる戦いをする。アナタよりは短くて苦労も少ないけれどね。だからせめて、先に行かせてもらうわ」
「ロラ」
「いいから早く、パスワードを教えなさい」
オレの口が重いからか、彼女は手帳とペンを胸に押し付けてきた。
背中からはナカソラコにそっと押される。
「ロラ、すまない」
「役得として、エロスなフォルダがあったらUSBに移させてもらうわ」
「無報酬に、なるな」
文字列を確認したロラは手帳をポケットにしまう。
「ほら、じゃあ行きなさい。倉庫はもうそこよ」
最後に見たロリアーヌ。豪雨に霞んでいるのに、不思議と手を振る姿がはっきり焼き付いた。
それ以降、彼女がどうなったかは知らない。
知るべくもない。
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