65.雨の来訪者
見えたワケではない。だが直感的に分かった。
「どういう、ぶわっ!」
思わず窓を開けたが、瞬間、暴風雨でメチャクチャに。あえなく閉じてから再び窓に目を凝らすも。
そこにはもう何も光ってはいなかった。
「な、なんだったんだ」
なぜ彼女がここにいるのか? 調整はまだ先、今は戦地にいるはず。特別こちらへ来る話も聞いていない。幻影を飛ばす能力なども把握していないが。
「……」
とりあえずコーヒーを淹れることにした。二つ。
ナカソラコ。言いたいことやら本音を軽口や皮肉でひた隠す。そういうことはある難物だが。
あのように、思わせぶりなことだけをするタイプではない。
必ず何か意味があってここにいて、必ずそれを伝えにくると思ったのだ。
ややあって、寮の廊下に静かな足音が。オレの部屋の前で止まったのを聞き取り、ノックされるまえにドアを開けた。
果たしてそこに立っていたのはやはり、ナカソラコだった。
傘をさしている様子がなかったので心配したが、一応レインコートを持っていたようだ。だがあの風雨。さしたる効果はなかったろう。
現に顔は滝のようになっているし、おそらくコートの中も悲惨なことだろう。
「入るといい。温かいコーヒーもある」
周囲は寝ている時間。小声で促すと、彼女は黙ってドアをくぐった。
ナカソラコは風呂場でホラー映画のようになっている。かといって熱いシャワーを浴びるでもなく。きっと室内が濡れるのを気にしたのだろう。
コーヒーは温かいうちがいいだろう。まずは渡しておく。
「それを飲んだら、先にシャワーを浴びるといい。着替えは……検査着でも取ってくるよ」
一応この時間、研究所は閉まっている、ことにはなっている。
が、誰かしら徹夜しているものだし、この天気じゃ夜警もいるまい。忍び込むくらいワケはないだろう。
風呂場を出ようとしたところで袖を軽くつかまれた。
「お」
「研究所着くまでに遭難するよ」
やはり見たとおり。いつもは通りのいい彼女の声とは似つかない、喉奥で湿った声。
「む。しかし、それではオレの服しかないぞ。それともロラでも起こすか? 君に着せるのならアイツも喜んで」
「いいよ。すぐいなくなるから。返せない」
「かまわんよ。次の調整にでも」
「違うよ」
静かに、しかしはっきり遮る一言。その目には静かな光が灯っている。ついさっき暗闇の中にいた、あの。
「もうここには来ないから。これが最後」
「は?」
マンガみたいにコーヒを落とすことはなかった。が、雫が跳ねるくらいには心身とも揺れた。
対する彼女は愛おしそうに、マグカップを両手で包む。しかし口は付けない。
「お別れの挨拶だよ。一応お世話にはなったし」
「待て待て待て!」
思わずバスタブの縁にマグを置いて彼女の両肩をつかむ。しかし勢いで足がバスタブに当たり、結局マグが倒れる。幸い割れてはいなさそうな音。
「何を言っているんだ。いったいどうしたんだ。事情はよく分からないが、調整は君のためなんだぞ? たしかに毎度問題は見つからないしメンドくさいかもしれんが」
「分かってる」
「分かってるものか! 命に関わることをだな!」
「分かってる」
逆にオレが諭されているかのように。彼女は優しく微笑んだ。
優しくも、疲れ切った笑顔。
「君は、まさか……」
「安心して。『死にたい』とか、そんなこと思ってるんじゃないの。ただ」
「天秤に架ける……、そしてこうなる。それだけのことが、あったんだな」
ナカソラコはにっこり笑う。違う。君はこんな時にそんなふうに笑う人間じゃない。
そんな死にゆく病床の母が、子を安心させるために見せるような。そんな笑顔をする人間じゃない。
しかたないとでも言うような、でもまぁこれでいいやと言うような。諦観の苦笑をする人間じゃない。
もっと、もっと快活な人間だったじゃないか。
本音を隠すなりに、嘘でもそんな輝きを見せてくれる人だったじゃないか。
オレの声にならない訴えは
「私が何を見てきたか、知ってる? 聞きたい? 月並みな話を」
仄暗い瞳に、一瞬で飲み込まれた。
『これより、我々は魔界に侵攻する』
そんな話を聞いたのは野営地でのラジオ。もう「傍受されたってかまわねぇや。負けないし」とすっかり暗号化されなくなった軍放送。一般の人が傍受してたらどうすんだろね。
他の『おねえさん』たちと野戦食のチリコンカン食べてた時。
あぁ、『おにいさん』たちは『おにいさん』たちでいるみたい。上の方針で一緒に編成されることはないけど。
『女と組ませるといいカッコしぃですぐ死ぬ』んだって。
それはさておき、もっと
みんな「マジで?」「そこまでやる?」みたいな顔してたけど
『我らが怨敵を討ち果たし、完全に脅威を排除するのだ。父に母に子に孫に、脅かされることのない平和をプレゼントしようではないか』
なんて煽られると、「いっちょもう一踏ん張りしたりますか!」って。
みんな体育会系の部活みたいに奮い立ってた。
もちろん私も。
ここを乗り切れば、みんなもう二度と戦わなくていいって。元の生活、とまでは言わなくても元の世界には帰れるって。もう誰も私たちみたいな人が生まれない世の中になるって。
そう信じてた。
それがもうすぐそこだって、信じてた。
「うわ、見てよこの植物」
「おぞいね」
「写真撮って帰ったら一儲けできんじゃないの?」
「こんなの旅番組でも見れないもんね」
「人類未踏だし」
「ほらほら! ムダ口叩いてないで周囲警戒!」
「おうオマエら。『長女』閣下がお怒りだぞー」
「はーい」
魔界なんて言っても。正直みんな、見た目がグロテスクな土地であることにビビるくらいで。
気楽なもんだった。ジープが入り口通んなくて徒歩だけど、若いし体力あるし。ゲリラ戦とかトラップとかたくさん仕掛けられたけど、敵じゃなかったし。
見た目がグロいのも『ゲームのに比べたらヌルくね?』ってすぐ慣れちゃう。まるで無人の野を行くがごとく。
私たちの侵攻はピクニックのように進んだ。
最初に訪れた影は、ちょうど最初の市街戦でのことだった。
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