58.運命が変わる夜
廊下へ飛び出してから、自分が現場へ向かおうとしていることに気づいた。正義感もあるけどそれ以上に、
私はこの気配を知っている。
待って。つまりそれは。
ジリッと足が止まる。
私は戦いたくなくて逃げ出したんだ。怖いから逃げ出したんだ。我が身がかわいいから。
だったらなんで現場に向かおうとしている?
まさか本当に、素手で人間ズダボロにするとかいうのと戦うつもり?
いやそんなバカな。
「
「
ほら、男女のナースさんの声がしてる。見つかったら面倒だから、騒ぎに乗じて逃げるにかぎる。彼らには悪いけどさ、私は
「Aaahhhhh!!」
「Heeelp!!」
子どもたちの悲鳴が絶え間ない。大人たちが駆けつけていく。あぁ、彼らは何も知らず、予想だにしない存在と出会うだろう。あり得ない、理不尽な死を叩きつけられるだろう。
せめて痛くないように、なんて慈悲がある相手だろうか。
だけど今なら。
大人たちも行かなければ死なずに済む。
まだ悲鳴に苦痛の色もなければ、おぞましい音も聞こえてこない。子どもたちも傷つけられてはいない。
今ならまだ間に合うんだ。
ねぇソラコ。ナカソラコ。オマエの将来の夢はなんだった? 大学どこ行こうとしてた?
教師になりたかったんじゃないのかオマエ? 教師って何する仕事か知ってるか?
子どもを見捨てて日本に帰って、オマエは何するつもりなんだ? 何食わぬ顔して大学行って、素知らぬ顔して教壇に立つか?
できるのか? そんなことできるのか? 組織から追われる身でとかじゃないぞ? オマエの心が、人としてそんなことできんのか?
ねぇソラコ。聞いてよソラコ。アナタは、私はあれこれ混ざって、もうほとんど人間じゃない。自分で知ってるナカソラコでもない。
でもさ。だけどさ。それでもさ。
最後に残った人間の部分。ナカソラコの部分。自分から捨てちゃうの?
逃げ出してまで守りたかった自分を、自分で見捨てちゃうの?
「Oh!!」
「Wah!!」
次の瞬間にはもう階段を駆け上がっていた。速すぎて横を通ったナースさんたちはよく分かんなかったろうね。
知らないからな! もう知らないからな! そこまで言うならやってやる!
誰がどうなったって知らないからな!!
どの部屋に行けばいいかなんて気配で分かる。悲鳴で分かる。子どもたちの狂おしく速まる鼓動で分かる!
引き戸を壁に埋め込む勢いで横へ。
「よう。楽しそうだなぁ?」
『Han?』
そこにいたのは、翼の生えたデカいイヌ? オオカミ? 天井ギリギリまでミチミチに詰まってやがる。悪魔も全部がバイキン虫ってワケじゃないのね。
『いや、日本人か。なら日本語で話してやろう』
「博識じゃん」
『キサマら人類が取るに足らんだけよ。それで? 腹の足しにでもなりに来たのか?』
「そういうアンタは、ただのワンコじゃないな?」
『いかにも。地獄の侯爵マルコシアス。悪魔である』
ここでどうやらナースたちが到着したらしい。背後でワーキャー聞こえる。警察とか呼ばれるまえに決着つけないとな。
「はー。『人類と悪魔は戦争してる』って聞いたけど、実態は腹ペコ食い詰め野郎のみみっちい悪事だったりする?」
『バカな。こんなものはついでだ。キサマらの歴史でも、戦争の合間に現地人を殺して遊んでいただろう』
「言うねぇ」
『ククク、そういうことだ』
オオカミ野郎が舌なめずりすると、そこそことんでもない臭気が漏れる。京都の従姉妹が飼ってる犬の大五郎よりヤバいわ。
と、
「
ベッドの上。シーツを抱きしめて震える少女が一人、すがるような目を向けてくる。何言ってるのか分からないから、ちょっと不安になったんだろうね。
「安心して。おねえさんがすぐになんとかするからね」
日本語だから通じてないとは思う。でも精いっぱい微笑んだら、彼女は小さく頷いた。私に安心感を感じてくれたかな? だとしたら強気で啖呵切ってる甲斐もあるってモンですよ!
「『そういうことだ』って、勘違いすんなよワン公? 私が言いたいのは、『やっぱり悪魔は悪魔らしく、やっすいワルの流儀言うんだね』ってことだよ?」
『ほほう。なら』
ヤツの体が少し沈み込む。
次の瞬間、
『キサマがオードブルだ!』
猛スピードで飛びかかってきた。
あんなデカい牙で噛まれたらひとたまりもない。なんとか身を捻ると直撃はかわせた。でも突き出されてた前足の爪が額を掠める。
痛い。正直ムチャクチャ痛い。声も出ないくらい痛い。鏡がなくても血ぃ出てるのが分かる。
でも
『何!? 人間がこの動きについてこられるだと!?』
ナメくさってる向こうからしたら、これでじゅうぶんあり得ないことだったらしい。
その動揺。我ながら残念なことに、今の私にはお釣りがくるくらいのスキでもある。
『キサマッ! まさか!?』
「人間人間って、悪いけどさ」
正直戦闘とか分からないし。あとはもう、ずっとやってきた空手でいいよね。
「言うほど人間じゃないんだよね!」
脇腹へ正拳突き。毛皮を突き破り肋骨を砕いて、肉を裂くように食い込んで。
自分でも引くほど深々と拳が突き刺さった。生温かく濡れる感触にゾゾッと、呑気なくらい鳥肌が立つ。
『ギャイイアアアッ!!』
地獄の底から響くような、でもどこか犬っぽさも残る断末魔。
そのままぐったり項垂れると、ピクリとも動かなくなった。血で濡れた腕を引き抜いて、どうしようかと眺めていると、
「
「
「おっと」
子どもたちが次々に抱きついてきた。うれしそうだったり、まだ震えていたり多種多様。だけどみんな、ひとまず無事そう。
「よしよし、怖かったねぇ少年少女。もう大丈夫だからね」
私も汚れてない方の腕で抱きしめ返し、頭を撫でてあげる。すると背後からは女性ナースの声。
「
「あ、えっと、Yeah! お願いします!」
「Good! Come on」
ナースさんに促されて病室を出ると、子どもたちがゾロゾロついてこようとする。
「
男性ナースが手振りを交えて帰らようとするけど、
「
「
言うことを聞く様子はない。私とお手手繋いでハーメルンの笛吹き状態。彼も「やれやれ」と首振って折れるしかなかった。
あぁ、なんて優しい空気なんだろうね。本当に本当に、守ってよかった。勇気を出してよかった。
そんな深い喜びと達成感を感じつつ。
私の耳は敷地内に研究所の追っ手が入ってくるのを捉えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます