9.『おねえさん』と海底二万里(あれはイカ)

 苦しい。息ができない。猛スピードで水中を引っ張られて水流が痛い。


 怖い。


 唐突すぎて息を吸い込む暇なんてなかったし、恐怖が酸素の消費を加速させる。


「ぶ、ぐわっ!」


 もうダメだ! 死ぬ! 死んでしまう! ついに息が続かなくなったところで、



「ぶはぁっ!」



 引っ張る力がなくなって、ギリギリ海面に顔を出すことができた。


「いっ、たい、なんなんだっ!」


 ハッハッと落ち着かない肺に苦しみながら、僕は反射的に足元へ目をやる。

 が、次の瞬間にはそれを深く後悔した。


「ウソ、だろ?」


 僕の足には、依然タコ足が絡み付いている。それはいい。いや、よくないけどこの際、すでに知ってたことだからいい。



 問題は、巨大な眼球。直径が僕の身長より長い、眼球。

 つまり、それを備えた、果てしなくデカいタコの本体。



 それが、僕の足の真下にいた。見なきゃよかった。

 そりゃ最初からどうしようもなかったけどさ。こんなの見てしまったら、絶望が余計に膨れ上がる。衝撃か恐怖かも分からない感覚で脳が完全にマヒする。無防備なところに「ダメだ、終わった」が注ぎ込まれる。

 いや、しっかりしろ! こんなところでぼーっとしたら、本当に何もかも終わりだ! 幸い向こうは引っ張るのをやめたんだ、この隙に逃げ


「あ」


 振り返った僕は、この短時間で二度目の「見なきゃよかった」を思い知る。

 ビーチが遠い、のまえに、


 消波ブロックが、遠い。


 護岸とかで埠頭にあるやつじゃない。沖に塊で置いてあるやつが遠い。砂浜の砂が流されていかないように置いてあるやつ。つまり、



 



 それが、遠い。

 そうか、やっぱりダメなんだ。血の気が引いていくのが分かる。手足の先が冷たく痺れてきたのは、ずっと海に浸かってるせいだけじゃないだろう。僕が硬直していると、



 とにかく大きくて、もうなんて鳴ってたのかよく分からない音が、背後で轟いた。



 同時にとんでもない高波が起こって、僕は思い切り流される。


「ぅわっ!」


 幸い、方向的には砂浜の方。だけどこれじゃ、たどり着くまえに今度こそ溺れ死ぬ!

 お風呂場に浮かべるアヒルのおもちゃに、子どもがおもしろがってとんでもない波を叩き付けたりする。もし彼らに意識があったら、今の僕と同じ恐怖を感じているのかもしれない。

 逆に言えば強大な力になぶられすぎて、若干人間としての意識を失いかけている僕。そのまま『今年の水難事故件数』の数字になりそうなところを救ってくれたのは、

 絶望だった。


「うっ!」


 頭から波を被って沈みそうな僕を、大きな触手が絡め取る。さっきまでの足への絡み付きと違って、今度は上半身を簀巻すまきにする感じだ。アニメや漫画でお馴染みの、典型的『捕えられた』スタイル。

 それ自体はまだ、不幸中の幸いと言えるかもしれない。全身の骨が砕けるとか息ができないとか、そういうレベルで締め付けられてはいない。ただ、直後僕の目の前に現れたのは



「ひっ!?」



 水中から顔を出した、巨大タコの本体。見上げても、果てが見えるより先に日光が被って、シルエットで全貌が分からない。


「あ、あぁ」


 それ自体はさっきも目にしたんだ。そしてじゅうぶんビビり散らしたんだ。

 問題は、ソイツが水上に顔を出したってことだ。タコの考えなんて分からないけど、わざわざ人間がいる領域に出てきたんだ。少なくとも『何が狙いなのか』の予想くらい、着く。

 ギョロリと、明らかに人間と違う黒目が動く。嫌だな、目が合ったじゃないか。そんなに見つめるなよ。


「うわああああ!!」


 一瞬の現実逃避みたいな思考の後に全身を貫く恐怖。目を逸らしたくて、逃げたくて、首だけでも捻ってビーチの方を向く。

 消波ブロック! 遠い! あそこへ! あそこまで逃げさせてくれ! 誰でもいい! 神さま!


 ちなみに、僕は神さまなんか信じてない。初詣はつもうでの時しか用事はない。だっているわけがない。いるなら人類は毎日平和で、警察も自衛隊もニュースキャスターもいなくなっちゃって。

 だからいるわけがない。


 その僕が一瞬、神さまを信じかける出来事が起きた。



 あそこへ、と祈った消波ブロックが、逆に向こうから少し近づいてきた気がしたのだ。



「えっ?」


 まぁそんなことありえない。気のせいか? 恐怖でおかしくなっての幻覚か? あまりのバカらしさで逆にちょっと落ち着いた僕は、数回瞬きして目を凝らす。

 すると、



「え、ええぇぇぇ!?」



 たしかに消波ブロックが一つ、こっちに来てる! しかも少しとかじゃない! 猛スピードでこっちに突っ込んできてる!

 なんだ!? なんなんだ!? 意味不明だ! いや、


 


 それは、



「『おねえさん』はねぇ」



 近づいてくる消波ブロック。よく見ると水面から少し浮いていて、その下には何かがいる。



「ピンクレディーの『UFO』くらい気が利いて、平井堅の『キミはともだち』くらい心の支えになって」



 一目見れば分かる。いや、見なくても分かる。もし彼女を知っているなら、あの強烈さの塊を間違えることはない。

 相変わらずワケの分からない口上こうじょうとともに

 サーフボードでジェットスキーみたいな原理不明の水飛沫をあげて

 なおかつ右肩に消波ブロックを担いでいるのは


 夏の太陽を照り返すチェス駒の耳飾りは!



「ラッツ&スター の『め組のひと』くらいビーチの主役」



「おねえさん!!」



 突如彼女の背後から盛り上がる荒波。それに乗って高い位置に上がったサーフボードは、そのまま一気に宙へ飛び出す(どうなってんだ)。

 そしてそのまま、大ダコの頭より高い位置まで来ると、



「エウレカーッッッ!!!!!」



 おねえさんが謎の絶叫とともに、消波ブロックをタコの脳天へ叩き落とした。

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