6.『おねえさん』と夜の散歩
夏なのに空が真っ黒ってことは、案外遅い時間のようだ。遠くの自販機がよく見える。昼より気温が絡みついてくるような錯覚のなか、おねえさんだけがカラカラと笑う。
「なんか夜道ってさ、コンビニがあると妙に安心するよね」
「知らないよ」
噂をすればコンビニが見えてくる。
「じゃ、次は男の子の番」
「は?」
でもおねえさんは完全に無視した。青い看板より僕の方が気になるらしい。
「番ってなんだよ」
「そりゃもう話題だよ話題。私が一つ出したから、次は君の番でしょ?」
「んな急に」
「今、頭の中にあることを、そのまま」
囁くような声。
おねえさんは『話せ』って言ってるんじゃない。『聞くよ』って言っているんだ。
『言葉にしてみなよ』って言ってるんだ。
それは心を切り取って眺めるような痛みがあると思う。それでも勧めてくるのは
きっと、言葉にする意味があると知っているからなんだろう。
だったら乗ってみるのもいいかもしれない。そもそも、このために連れ出したのなら、言わずに帰してはもらえないだろうし。
「今日の父さんはさ、いつもと違ったんだよ」
「そうなんだ」
「おねえさんだって、父さん母さんのまえじゃ違った」
「君にはおねえさんだけど、人によってはそうとも限らないしね」
彼女は僕の方を向いていない。ずっと道の先を見ている。
「そこなんだよ」
「ていうのは?」
お互い声が囁くくらい。誰かと会話してるんじゃなくて、心の声同士で会話してる気分だ。
だけど隣で、自分と違う足音がする。ひとりぼっちじゃないけど完全な他人がいるわけでもないような。
溶け合うような、1.5人で寄り添う優しさ。
「今日だってそうだ。いつも岩の塊みたいな父さんが、今日は人当たりよさそうにしてた。オトナは『いつもの顔』があるクセして、本当は『いつも顔を使い分け』られる。その時その時で、いつも場面にぴったりの人間になれる」
「それが嘘みたいで、ブキミ?」
違う。そうじゃないんだ。そうじゃないって自分で確かめるために、聞かれているし言葉にするんだ。
「僕にはできないから。今日だって、できなかったから」
「そっか」
「僕は、自分がオトナじゃないのが、オトナになれないのが嫌だったんだ」
暗い夜道が僕の気持ちそのものに見える。住宅地の広くはない道。左右のブロック塀も視界から消えていくなかで、
「どうして?」
「えっ?」
びっくりするくらい素朴な声が降ってくる。
思わず見上げると、優しい微笑みが街頭で照らされている。
「どうしてオトナになれないと嫌なの?」
「どうしてって、そりゃ。そりゃ?」
言われてみると、理由がパッと出てこない。おねえさんはそれすら肯定するように頷く。
「そりゃ子どもはみんな『オトナになりたい』って思うよね。おねえさんだって小さい頃はそう思った。でも、みんな『そう思うものだから』でそう思うのかな?」
「それは、どうだろ」
「あるんじゃないかな。『そっちの方がカッコいい』とか、『お酒飲んでみたい』とか、『周りより遅れてたら恥ずかしい』とかいろいろ」
「うん」
曖昧に頷くと、彼女の目が愛おしそうに細まった。
「だから君には君の、『オトナ』って言葉の向こう側で見えない何かがあるんだね」
『オトナ』の向こう側。
その言葉がどこか何かに染みているうちに、おねえさんはタン、タン、タン、と数歩先に出た。
彼女は僕の方を振り返る。街灯の光をスポットライトのように浴びて。
「ねぇ、男の子」
「な、何?」
「君が『どうしてオトナになれないと嫌なのか』、それは宿題にしよう」
「宿、題?」
「今は分からなくていいってこと」
彼女は腕を伸ばして僕を引き寄せる。
「だから今日は一つだけ、誤解を解いておきましょう」
「誤解?」
「『お父さんが顔を使い分けた』ってこと」
ウインクが街灯の光でかろうじて見えた。
「たしかにまぁ、私に対しては男の子が知ってるより柔らかかったんだと思う。他人で恩人だし」
「じゃあ誤解じゃないじゃん」
「クチビルとがらせないの」
「そんなのしてない!」
反射的にムキになった鼻先へ、人差し指が突き付けられる。
「でも考えてごらん? 君はついこのまえ飛行機でハイジャックに遭遇して、海にも落ちて。九死に一生の大変な目に遭った。それがお父さんにとってどれだけのことだったか」
「まぁ、うん」
「それが無事だったんだ。いくらか
たしかにそうだ。退院して東京に戻ってきたのだって、ほんの一週間前。
「だからさ。少し崩れるくらい、許してあげなよ」
言いたいことは分からないでもない。
でも、
「一人で飛行機に乗せたのは父さんだ。それが何かあってから『心配した』って。オトナなら許せるんだろうけどさ」
彼女は視線を夜空へ移す。もっと広い視点を、と言うように。
「オトナだから許す許さないじゃないよ。『僕なら』許す許さないで決めるの」
僕なら、か。僕なら。
「『許さない』って言ったら?」
子どもっぽいかもしれないけど、正直言って、やっぱり許せない気がする。
おねえさんは否定も肯定もしなかった。
「もしいつか、許せる男の子になったら。その時でいいよ」
ただそれだけ。僕の頭を撫でただけ。
「一生来ないかもよ」
「なぁに、親なんて子どもと乾杯できるようになるまで二十年待つんだもん。待たされるのはがんばってくれるモンだよ」
何を言っても許容する言葉で返してくる。僕に出せる皮肉はもう、こんなものしか残っていない。
「子どもいないクセに」
「『おねえさん』は少年少女の憧れだからね。エキスパートに決まってる」
「なんか犯罪者っぽいな」
またよく分からないドヤ顔をするおねえさん。僕が呆れたような笑いをこぼすと、その足が止まった。
気が付くと僕の家の前。ぷらぷら歩いているうちに、ぐるりと回ってきたみたいだ。
おねえさんは僕の方へ振り返って、そっと微笑む。
「はい、じゃあ散歩は終わり。お風呂に入っておやすみ。寝る子は育つから」
唐突な終わり。まだ少し話していたいようななかで、せめて最後に
「あ、あ」
りがとう、と続けるまえに、
「じゃ、またね〜」
彼女はそれを遮って、夜道の向こうへいってしまった。
正直、おねえさんの話が全部納得いったわけじゃない。
そんなのオトナの勝手じゃないかって言ったら、それまでの話ではある。
でもなんだか、今はそれでよかった。
きっと僕は、もう一つ悲しいことがあったんだ。
相手や状況でどうにでもなるのに、僕には相変わらず厳しく勝手な父さん。いつでも誰にでも厳しいんじゃなくて、使い分けられる優しさを持っている。
なのにそれを、僕には向けてくれないことが悲しかったんだ。
だけど今。
いつもはムチャクチャでテキトーなあのおねえさんが、僕の悩みとまっすぐ向き合ってくれた。
振り回す側だった彼女が、悩みと向き合うのに付き合ってくれた。寂しさに寄り添って、優しく埋めてくれた。
それだけで少し、救われた気がする。
問題は何も解決しちゃいないけど、視線を上げるくらいの元気はもらえた気がする。
僕は暗い道の先を見つめながら、タバコのお使いがあった時代を少し羨ましく思った。
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