4.『おねえさん』とイチコ
「そんなことあったん。大変やねー」
あれから一週間。退院してから最初の朝稽古の帰り。
僕の隣を歩いている短い二つ結びは、幼馴染のアイス イチコ。両親の影響で関西弁だけど、生まれも育ちも東京娘。
さっき角でばったり会った。
「信じてないだろ。オレだったら信じない。てか、いまだに信じてない」
「そら半分、半分? 半分ー、七割くらい信じられへんけど、ちょっとは信じるよぉ」
「幼馴染の言うことだから?」
「ニュースでやってたから。女の人が警察の表彰辞退したって」
「小学生のくせに現実的だな」
「小学生のくせに子どもっぽいのは嫌いなんやろ?」
本当は子どもっぽいことじゃなくて、オトナになれない、なり方も分からないのが嫌なんだよ。
そんなことイチコに言ってもしょうがないし、彼女も気付かない調子で買い物袋を振る。
「それよりアタシ、お使いに出されてんねん。ケンちゃんも一緒に
「防具担いで?」
「ええやん、一緒に商店街のコロッケ食べようや」
「稽古後にコロッケとか、喉に詰まるよ」
「ジュースも
「なんか、最近どっかで見た強引さだな」
メンドくさいし早く帰りたいけど、まぁいいか。
一週間前。
飛行機から投げ出された時は死んだと思ったけど、無事目を覚ますことができた。
それも三途の河岸じゃなくて、普通の病院のベッド。
ちょうど向かいの空きベッドを整えている看護師さんがいたから、話を聞いてみると
「高知!?」
なんでも公衆電話から女性の声で通報があったらしい。
「
それが僕だったらしい。
でも通報した女性はすでに現場にいなかったそうだ。
『おねえさん』は夢だったのかもしれない。
──ちゃん。
「ケンちゃん!」
「えっ」
「もう。ボーッとしてたら電柱当たるで。コロッケ食べへんの?」
気がついたら谷中ぎんざ。手にはコロッケ。思い出してるうちに結構な距離を歩いていたらしい。無意識にコロッケまで買って。
「あ、や、そうだな」
「なんやの。例の美人おねえさんでも思い出してたん?」
「なっ」
そうだけど、イチコが想像してそうな意味でじゃないぞ! からかってるんだか呆れてるんだか分からない顔しやがって!
「でもそういえば。ニュースになってたんだよな、その女?」
「なんや、やっぱりその人のこと考えてたんや」
「うるさいな」
じゃあ『おねえさん』は一応実在してるんだよな。僕の幻覚でもなければ幽霊でもなくて。
「ん〜! やっぱり揚げたてやなぁ! 早よ食べんと冷めるで?」
「はいはい」
ま、いいか。
助けてくれてありがとう、どうかお
それより目の前のコロッケだ。幼馴染とよく食べるオヤツ。日常の象徴。
ただいま、ハバトケントの人生。うん、相変わらずうま
コロッケにかぶり付いたところで、思わず僕は硬直してしまった。
「どうしたん? ホンマに喉に詰まったん?」
イチコは一旦僕の顔を覗き込んで、それから視線の先を辿る。
そこにいるのは、
「ハロー。久しぶりだね、男の子」
『いとしのエリーザベス一世』とかプリントされたTシャツ。ゆったりしたモスグリーンのカーゴパンツ。厚底のスニーカーサンダル。
そのカジュアルな格好だと、以前と同じ耳飾りが浮いている、
「この人が『おねえさん』?」
僕が硬直して言えなかった事実。かつ、言語化しないことで目を逸らそうとした現実。イチコが代わりに確定させてしまった。
緊張のあまり歯に力が入り、意図せずコロッケを噛み切ってしまう。そのまま生唾を飲み込んだもんだから、
「むっ!? んっぐ! くっ!」
「あ、ホンマに喉詰めてたん!? ジュース買いジュース!」
今から買ってて間に合うかよ! 稽古に持っていった水筒を探そうとして、
「ジュースならあるよ。ほしい?」
「お願いします!」
待てイチコ! そいつに関わるな! その右手に持った買い物袋、何が入ってるか分かったもんじゃないぞ!
「無果汁と10%と100%あるけど、どれがいいかな?」
「えー?」
どれでもいいだろ! ていうか、なんでそんな無駄にバリエーション多いんだよ! 一つでいいだろ!
結局おねえさんはスプライトをくれた。何を何本買ったんだよ。
「はーっ、はーっ」
「おねえさん、ありがとうございます」
「いーのいーの、『おねえさん』だから」
「ほら! ケンちゃんもお礼言い!」
「おまえはオレの母さんか!」
お礼、言った方がいいとは思っていたけども。
いざ本人を目の前にすると、これが結構言いにくい。
「こ、これ、飲みかけとかじゃないだろうな!」
「何を今更そんなこと気にしてるのん♡ 何回もキスした関係なのにぃん♡」
「はぁ!?」
「ひゃあ!? ちょっとケンちゃん、どういうことなん!?」
何言ってんだ、この女!? まさかまだ酔っ払ってんのか!? いい年した大人がクネクネ動くんじゃない!
「ケンちゃん!」
「知らないよ! そんな事実ないよ! 記憶にございません! おい! ムチャクチャ言うな!」
「あ、ごめーん。その子カノジョ? マセてますねぇ」
「そういうことじゃない!」
「あ、じゃあ『初めて』貰っちゃったのかな?」
「テキトー言うのも大概にしろ!」
竹刀でシバキ回してやろうかと思ったところで、急におねえさんは真顔になった。
「まぁまぁ、救命活動だからノーカンノーカンだよ」
「えっ?」
「人工呼吸人工呼吸」
ひょっとこ顔するおねえさん。
「あ、え、あー」
「なんや、それやったらまぁ、ノーカンやね」
まぁ、それならいいよ。
よくないよ。だったら誤解させる気満々の言い方するなよ。ていうかそれより、
「おかしいだろ! そもそもあの高さから海に落ちた時点で死んでるわ!」
「衝撃からは守ったんだよ?」
「ムリに決まってるだろ!」
「『おねえさん』だぞ。衝撃くらい優しく包み込める」
「ちくしょう! まともな会話はできないのか!?」
またふんすと胸を張るおねえさん。なんだよ、決めゼリフかなんかなのかよ。
「ま、とにかく。それだけプンスカできるなら、本当に無事みたいだね。それならおねえさんも必死に助けた甲斐があるってもんだよ」
「いい話風にまとめようったって、そうはいかないからな!?」
「そもそもおねえさんとマジなキスがしたいなら、もう少しオトナになってからね。それまでは子どもだからダーメ。こっちから願い下げ」
「いい話風にする気すらなかった!」
すごい疲労感を感じる。稽古後だから当然疲れてたけど、それが三倍になった気がする。
その元凶は肩で息する僕を尻目に
「じゃ、元気そうなのも確認できたし。またね〜」
急に会話を打ち切って、商店街の人波へ消えていった。
「な、なんだったんだ」
「なんか、不思議な人やねぇ」
不思議よりはやっぱり夢か幻覚であってくれ!
と思いつつ、数秒前のホヤホヤな記憶を思い返すと、妙な引っ掛かりが。
「ん? 『またね』?」
あの女が言うと、ただのあいさつには聞こえない不穏さがある。
「チャオ」
「なんでオレん
帰宅するとおねえさんが、当然のようにリビングで椅子に座っていた。
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