沼の人魚

遠宮雨

第1話(完)

沼の人魚


 ぼくが生まれたのは海のない県にある、鄙びた山間にある小さな町だった。

 古くてそれなりに歴史のある、しかしそれだけの町だった。

 若い人たちはどんどん外に出ていってしまって、子供の数も少ない。止められない過疎化にゆるゆると町全体が沈もうとしている。そんなところだった。

 なにしろ古いので寺社や史跡や言い伝えなどの類はそれなりにあったが、それも教科書に載るような有名なものではなく、観光客もほとんど訪れなかった。

 ごくたまに、カメラを携えたマニアやフィールドワークの学生がぽつり、ぽつりと訪れるくらいだった。



 そこには昔から語り継がれている、ある言い伝えがあった。

 山の中腹にある沼には人魚が住んでいるというものだ。

 沼の名前は人魚沼という。由来そのままの名前だ。ここで初めて人魚が目撃されたのは鎌倉時代のことだというが、それより以前になんと呼ばれていたかは誰も知らない。

 人魚といってもおとぎ話の絵本に出てくるような上半身は美しい女の人で下半身が魚といったかわいらしいものではない。

 幼いころから繰り返し聞かされた人魚のその姿はもっとおぞましいものだった。

 初めて目撃された鎌倉時代から最も新しいものは大正時代まで、何度か人魚は現れたらしいが、きまって鈍い灰色の鱗に覆われた、大人の背丈よりも大きい魚だったという。

 しかしその頭の部分だけが人間になっていて、その顔は男だったり女だったり。子供だったり老人だったりとその時々によって違っていたという。

 ただし人間と少し違うのが、いずれもその目玉は魚のようにまん丸く、その歯は釘を打ったようにぎざぎざに尖っていたということだ。



 ぼくが出会ったその人魚は、小さな女の子の顔をしていた。

 その日も家に帰りたくなかったぼくはぐずぐずと時間を潰していて、その日はたまたまふと思いついて人魚沼のほうに足を向けたのだ。

 そうしてぼくは伝説通りの人魚に出会った。

 ぼくはその顔に見覚えがあった。同じアパートの2階に住んでいた幼馴染のしーちゃんだ。

 小学校3年生のある冬の日にしーちゃんはいなくなってしまった。

 警察はもちろん、消防団や小学校の先生で町中探しまわったけれど、とうとうしーちゃんは見つからなかった。

 当時、この沼も大人たちで底までさらって徹底的に探したが何も見つからなかったと聞いていたけれど、なぜしーちゃんはここにいるのだろう。

 人魚沼は藻なのか何なのか、いつもどろりと青緑色に濁っていて、生臭い。

 そのどろどろの隙間からしーちゃんは顔だけのぞかせて、黙ったままじっとこちらをみている。

 6年生になったぼくはあの時より背も高くなり、顔つきも変わってきたけれど、しーちゃんは小学校3年生のいなくなった頃のままの幼い顔立ちだ。

 けれど違うのは、しーちゃんの目は眼球が半ば飛び出してしまっているせいでまん丸いし、口の中から覗く歯も鋭く尖っている。

 新しいお父さんに殴られて欠けてしまっていたはずの歯も、もっと立派なものに生え代わっている。

 それでも口元にあるほくろの位置や、まるで笑っているように、もしくは困っているように目尻と眉尻が下がったその表情を見て、ああやっぱり彼女はしーちゃんなんだとぼくは思ったのだ。



「しーちゃんは人魚になってたんだね」

 ぼくがそういうとしーちゃんはその通りとでも言うようにその場で縦にくるりと一回転し、真昼のように明るい満月の光を鈍く弾く灰色の鱗と、まるで刃物みたいに尖った尾びれを見せてくれた。

 そうしてふたたび顔を出したかと思うと、ぼくをじっとみてかぱっと大きく口を開けた。

「ひょっとして、おなかがすいてるの?」

 ちゃぷんと軽い水音がした。しーちゃんの尾びれが水面を叩いた音だった。

「ちょっと待っててね」

 ぼくはランドセルから半分にちぎったコッペパンを取り出した。給食で出た分をこっそり残して置いたものだ。

 取り出すと、ぼくのお腹がぐうとなった。少しだ悩んだけれど、目をぎゅっとつむって、それから開いて。ぼくはそれを水面に投げた。

 ちょうどしーちゃんの顔の前に落ちたそれは水面に小さな波紋を起こしたけれど、ちらりと目をやっただけでしーちゃんはそれを口にしようとはしなかった。

「食べないの?」

 声から落胆の気持ちを隠せるほどぼくは大人ではなかった。あれはぼくの貴重な夕飯だったのだ。

「おなか空いてなかった?」

 しかいそう問うとしーちゃんはやはり口をかぱりと開ける。それを見てぼくは思い出した。――この町の人魚は山に住んでいるせいか、魚ではなく肉を好む。

 一度その場を離れ、10分程来た道を引き返し山の麓の入り口へと戻る。そこにそれがあったのを思い出したからだ。

 


 踏み固められた林道を抜けるとアスファルトで舗装された県道に出る。

 そこには来た時と同じように、車に轢かれたイタチの死体が転がってた。

 虚ろな目をしたイタチは腹が破け、赤黒いその中身をまき散らしている。街灯に照らされたそれを時折カラスが突きにくるが、行き交う車のヘッドライドが当たるたびに一目散に飛び立っていく。

 車の来ないタイミングを見計らい、ぼくは林の中から見繕った太くしっかりした木の枝でその死体をひっかけるように持ち上げる。枝の先でくの時に折れ曲がったイタチの手足が、重力に一切逆らうことなくだらりと真下に垂れ下がった。それが落ちないよう、バランスを取りながらしーちゃんの待つ人魚沢まで戻る。

「ただいま」

 しーちゃんは同じ場所でぼくのことを待っていてくれた。

「しーちゃん、これなら食べられる?」

 ぼくは持っていた枝を振るい、イタチの死体をしーちゃんに向かって放り投げた。

 イタチはゆるく弧を描きながらしーちゃんの少し前に落ちた。一瞬水に沈んだけれど、直ぐにぷかりと水面に浮いてくる。

 しーちゃんはさらに裂けるように大きく口を開けると、水ごと吸い込むようにしてイタチを真っ二つに食いちぎった。

 薄く口をあけながら尖った歯で咀嚼を繰り返し、飲み込んだあともう半分も同じようにしてぺろりと平らげる。

「おなかいっぱいになった?」

 そう問うと、しーちゃんはふたたびかぱりと口を開けてみせた。歯と歯の隙間にさきほどのイタチの毛が絡まっているのが見えた。

「まだ足りないの?」

 しーちゃんは何も言わない。ただ黙ってぼくに向けて大きく口を開けているだけだ。

「……そっか」

 ぼくのお腹がきゅるるとなった。パンがなくなってしまった以上、今夜のぼくに晩御飯のあてはない。それは明日も明後日も同じで。きっとこの先ずっとずっと、おなかいっぱいになれることなんてないんだろう。

 それはしーちゃんもだ。 

 しーちゃんはいったいどれくらの間、満足にごはんを食べられていないのだろう。

 人間の頃だっておなかいっぱいになることなんてなかったのに、人魚になってからもそうだなんて、あまりにもしーちゃんがかわいそうだ。

 けれど今なら。今ならぼくにだって、しーちゃんをおなかいっぱいにしてあげられるんだ。

「わかったよ、しーちゃん」

 ぼくは沼に足を踏み入れようと身を乗り出して、ふと思った。

 しーちゃんの顔は幼いあの頃のままだけど、体は違う。その鱗の生えた体はぼくどころか大人の人よりも大きくなっている。

 しーちゃんをおなかいっぱいにしてあげるには、もっと大きなお肉を連れてこないとだめかもしれない。

「待っててね、しーちゃん」

 ぼくが声をかけるとしーちゃんは身を翻し、しぶきをあげながら水の中へと潜っていった。

 淀んだ水面からは中の様子を伺いしることはできないが、きっとぼくの気持ちが伝わったんだとそう思った。



 次の日から、ぼくのお父さんはこの町のどこにもいなくなってしまった。



 しーちゃんの時みたいに、警察や大人たちはお父さんのことを一生懸命探さなかった。

 みんなお父さんのことをよく知っていたから(お母さんがどこかへ行ってしまってからお酒ばかり飲んでいること。どこかにたくさんお金を借りていること。ぼくにあまりごはんをくれなくなったこと。ぼくをよく殴るようになったこと)ぼくだけを残して急にどこかへ行ってしまったことを誰も不思議に思わないみたいだった。

 ぼくはひとまず、警察の人の所に連れていかれた。警察の人が言うには、明日には迎えが来て、これからはどこか遠い町で同じ年くらいの友達がいっぱいできる場所で暮らすのだという。

 しーちゃんのことを思った。ぼくが行かなければ、しーちゃんはきっとこれからもあそこで一人ぼっちで過ごすことになるんだろう。

 あくる日、ぼくを迎えにきた施設の人にぼくは頼んだ。町を離れる前に最後、人魚沼に連れていってほしいと。



――沼の真ん中にたくさんお金の入ったお財布が浮いてたよ。

 遅くに帰ったぼくをまず一回殴ったお父さんにそう言うと、もうすでに酔っぱらっていたお父さんは何の疑いもなくぼくの後ろをついてきた。

――ほら、あそこ。

 ぼくが指さし、お父さんが身を乗り出したのと同時に満月を雲が覆い隠した。それまで真昼のように明るかった辺りは一気に暗くなった。

 だから、とんと軽く押したお父さんの背中も。お父さんが水に落ちるその瞬間も。ぼくは目にすることはなかった。

 暗闇の中でお父さんの怒鳴り声がして。

 それが驚いた声に変わって。

 やがてそれは悲鳴になって。

 その間にもずっとばしゃばしゃと激しい水音とひと際濃い生臭い匂いが漂っていた。

 雲が晴れ、ふたたび満月が当たりを照らしだしたとき、そこには何もなかった。

 お父さんの姿も、しーちゃんの姿も。

 波紋一つない人魚沼が、静かに青く濁った水を湛えているだけだった。

 今、目の前に広がる人魚沼は変わらず青く濁って静けさに満ちていて、あの夜の騒がしさは少しも感じ取れない。

 今、また池の中をさらってもきっと何も出て来はしないだろう。

 大人の言うように、人魚は伝説の中の実在しない生き物なのだし。

 しーちゃんは出されたごはんをけして残さない子だったのだから。

 


 まだ人間だった頃のしーちゃんのことを思い出した。

 ある雪の日に、しーちゃんとぼくとで公園の遊具の中で雪を避けながら身を寄せ合っていたことがある。

 しーちゃんは新しいお父さんに家を閉め出されたのだと言った。

 ぼくはお父さんと、その頃はまだ家にいたお母さんが怒鳴りあっているのを聞いていたくなくて、自分から家を出てきた。

 薄いコートは寒さを完全には遮ってくれなくて。ぼくたちは震えながら、ふたり身を寄せ合ってじっと耐えていた。

「どこか遠いところに行きたいなあ」

 ぼくがいうとしーちゃんは遠いところって?と問いかけてきた。

「わかんない。誰も怒鳴らないところ。しーちゃんは?」

 しーちゃんはふるりと首を振って、どこにも行かなくていいと言った。

 どこにも行かなくていいけど、自分以外の何かになりたい。

 そう、彼女は答えたのだった。

「なにそれ。しーちゃんはしーちゃんでしょ」

 そう言ってぼくは強くしーちゃんの手を握ったけれど、その手をしーちゃんは同じ力で握り返してはくれなかった。

 しーちゃんがいなくなったのは、そのすぐ後のことだった。

 しーちゃんがいなくなって少しもしないうちに、しーちゃんのお母さんと新しいお父さんはアパートから引っ越して、この町から遠くの町へと行ってしまった。

 そうしてだんだんと、大人たちはしーちゃんのことを探さなくなった。

 同年代の子どもは元より、しーちゃんとぼくのことを遠巻きにしてあまり関わろうとしてこなかった。だから誰も、表立ってしーちゃんの話をしなくなった。

 そうしてこれからぼくもまた、この町からいなくなる。



 施設の人に促され、ぼくは人魚沼を後にした。

 林道から県道へと戻る際、大学生くらいの男の人の二人組とすれ違った。

「それに、この先にある沼には人魚が住んでいると言われていて――」

 大学生たちはこちらに気づきぺこりと会釈した。こちらも軽く頭を下げ、通り過ぎる。

「んで、災いを避けるために定期的に山でとれる獣の肉を捧げていたらしいんだけど――」

 こちらに聞かせるつもりはなかったのだろう。抑えた声だった。事実、一緒にいた施設の人には聞こえなかったようだ。けれどぼくにははっきりと聞こえた。

「――だから、この辺りはもともと平家の落人の里だったんだ。人魚への捧げものの肉っていうのも、困窮から旅人を殺して金品を奪った後にバラバラにして沼に沈めていたっていうのが本当のところだ」

 遠ざかっていく声に振り返るも、二人組の姿はすでに木々の奥に消えてしまった後だった。

 今聞いた話が真実だとするなら。

 それが人魚の正体だと言うのなら。

 しーちゃんが成ったモノは、いったい何だというのだろうか?


「――くん!」

 ぼくを呼ぶ施設の人の声にはっと我に返る。

 もう、考えるのはやめよう。

 ぼくはあの夜。しーちゃんの元に行くことを選ばなかった。

 何より、もっとずっと前からしーちゃんはぼくのことを選んではいなかったのだから。

「はい。今行きます」

 答えてぼくは歩き出す。

 どこか遠くで、ばちゃりと大きく水の跳ねる音が聞こえた。

 

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