(六)一
「悪いが少しの間、家を空ける事になった」
ある雨の夜、守護神に言われ、穂藍は驚いた。
「お出掛けですか?」
「残念ながら仕事だ。出張だな」
「出張……」
「ああ。何やら上が会議を開くらしくてな。出席の要請があった」
神様は会議をする事もあるらしい。いったい何を話すのか、穂藍は気になった。
「明日の朝には出発する。信を置いて行くから、頼ると良い」
「はい」
その言葉通り、都の守護神は翌朝、出立の準備を整えて、鳥居の元に立っていた。
「会議が終わったら、すぐ帰って来る。それまで留守番を頼む」
「はい」
「何かあったら、本殿に向かって俺を呼べ。駆け付けるから」
「はい」
置いて行く妻の事が心配なのか、守護神はあれこれ言ってなかなか出発しない。
「生活の方は、礼誠がいるから心配ないと思うが……」
「守護神様」
足元から信が呼ぶ。
「そろそろ時間っす。早く行くっすよ」
「信、そもそもお前が頼りないから、俺は不安なんだ。もし穂藍に何かあったら……」
「守護神様」
今度は晃䋝が、少し厳しい口調で声をかける。
「お時間でございます」
「ぐぬ……」
いつもの優しさの無い声で言われ、守護神は言葉に詰まる。
黒狼の姿になり、穂藍を見ると、守護神は神社に背を向けた。
「では、行って参る」
「いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃいっす」
「お気を付けて」
鳥居を出た黒い背中を見送り、穂藍はひとつ溜息をつく。
「どうかしたっすか?」
信が心配した様子で声をかけた。
「うん、ちょっとね……」
その返事に、晃䋝も振り返る。
「何かございましたか?」
「ええと……」
穂藍は、先日の買い物の事をふたりに話す。
「私、できない事ばかりなんだなぁって、思ってしまって」
こんな自分では、都の守護神の妻が務まる気がしない。
「大丈夫っす」
信が明るい声で言う。
「おいらも最初は、何にもできなかったっす。でも、修行のおかげで今はいろいろできるっすよ」
「信様のおっしゃる通りです」
晃䋝がうなずく。
「人間誰しも、経験のない事はできなくて当たり前。これから少しずつ、できるようになりますよ」
「そうでしょうか……」
「はい。ご安心ください」
不意に何かを思いついた様子で、晃䋝は言葉を続ける。
「実は、夏の御渡に必要な茅の輪が、じきに完成しそうなのです」
神社総出で行っている茅の輪づくりも、そろそろ終盤に差し掛かっていた。輪に茅を巻く作業も進み、もう少しで完成だ。
「禰宜と巫女たちを労うために、甘味を買って来ていただきたい」
「甘味、ですか」
「はい。饅頭でも餡蜜でも、何でも良いのですが。お願いできるでしょうか?」
人に買い物を頼まれるのは初めてだ。不安はあるが、穂藍もこのままではいけないと思っていた。
「分かりました。行って参ります」
穂藍は拳を握る。
「おいらも一緒に行くっす」
信がそう言って、童子姿になった。
「それは心強いわ。ありがとう」
「おいらがいれば、大丈夫っすよ」
「そうね。頼りにしてるわ」
晃䋝から財布を受け取り、穂藍と信は街に繰り出す。
「甘味と言えば、この近くでは二番街の『善永堂』が有名っすね」
「じゃあ、そこに行ってみましょう」
ふたりは二番街の方へ歩いていく。参道を抜け小川を渡り、少し行けばすぐ二番街だ。
目的の店はすぐに見つかった。暖簾をくぐると、すぐに店主が顔を出す。
「いらっしゃいませ」
穂藍は緊張しつつ、団子を三十本注文する。
信に手伝ってもらいながら会計を済ませ、「善永堂」を後にした。
「信のおかげで買い物ができたわ。ありがとう」
「どういたしましてっす」
団子を抱えて歩いていると、穂藍の視界に赤い着物が揺れた。
あまりにも派手な色だったので、つい目をやる。
「あら、あの人、探し物かしら?」
穂藍につられ、信も赤い着物を見た。
「あ。あれ神様っすね。どしたんすかね?」
何か困り事だろうか。穂藍は赤い着物に歩み寄り、声をかける。
「あの、何かお探しですか?」
「うおお、びっくりしたぁ」
赤い着物は、そう言って振り返る。金色の目と深紅の髪は人間離れしており、確かに神様らしかった。
「ああ、あんた、都の守護神の奥方か。見習いの狸と一緒なんだな」
「はい。何かお困りの事があるのかな、と思って、お声がけしました」
「そうか。そいつぁありがてぇ」
赤い着物の神は、ぽりぽり頭をかく。
「実は、大切なものを失くしちまってよ。困ってんだ。あれが無いと、俺ぁ仕事ができねぇ」
「そ、それは大変です」
「ここで会ったのも何かの縁だ。奥方さん、一緒に探しちゃくれねぇか」
「はい。私で良ければ」
その神の失くしものは、綺麗な翡翠の勾玉だと言う。
「赤い紐に通ってて、大中小と連なってんだ。この辺にあるはずなんだが……」
「分かりました。探してみます」
「おいらも手伝うっす」
「おお、ありがてぇ」
三人は、その路地の周辺をくまなく探す。しかし、半刻経っても探し物は見つからなかった。
「うーん、おかしいねぇ」
神は立ち上がって腕を組む。
「さっきは確かに、この辺にあったんだが……また移動したなぁ」
「え、神様の持つ勾玉って、自力で移動するんですか?」
「いや、さすがにそんなはずはない。俺の仕事道具だ。俺には大体の場所が分かるのさ」
「へぇ……」
神様にはいろんな力があるものだと、穂藍は感心する。
「時に奥方さん、その荷物は何だい?」
「あ」
その神に訊かれ、穂藍ははっとした。
そういえば、お使いの途中ではなかったか。神社では多分、晃䋝がふたりの帰りを待っている。
「いけない、帰らなきゃ」
「そうっすね」
信も同意する。
「すみません、私、帰らなきゃ」
穂藍が言うと、その神はうなずいた。
「おう。帰る必要があるなら、帰った方がいい。ただ……」
神は遠慮がちに言葉を続ける。
「もし、明日になっても見つからなかったら、また手伝ってほしい。あれが無いと、お宅も困ると思うんでねぇ」
「はい。構いませんよ」
穂藍は答える。
「そうしたら、今日はこれで失礼します」
「気ぃ付けて帰れよ」
「はい」
赤い服の神に頭を下げ、穂藍は信を連れて、神社に向かって歩いた。
「おお、おかえりなさい」
神社に戻ると、晃䋝が鳥居の所で待っていた。
「帰りが遅いので心配しておりました。何かございましたか」
「ええ。帰り道で、探し物をしている神様がいらっしゃって。ちょっと手伝ってきました」
「左様でございますか。それは、良い事をなさいましたな」
晃䋝に団子を渡し、穂藍は家へ帰る事にする。太陽は、西の空に傾いていた。
夕刻、穂藍は、台所に立つ礼誠に声をかけた。
「あの、礼誠さん」
「はい、何でしょう?」
かまどから顔を上げ、礼誠は穂藍を見る。
「私に料理を教えていただけませんか?」
穂藍は少し緊張しながら、礼誠に言う。
「あの、実は私、お米のとぎ方も分かってなくて。料理、全然できないんです……」
このまま、できない事ばかりでいるのは嫌だった。少しずつでも良い、できる事を増やしていきたいと、穂藍は思っていた。
「もちろん。私で良ければ、お教えしますよ」
「ありがとうございます」
夕餉の準備で、まずは包丁の持ち方から習う。
「そうです、そんな感じ。ゆっくり切ってくださいね」
「は、はい」
時間をかけてたくあんを切り終わり、穂藍は大きく息をつく。
「ありがとうございます。助かりましたよ」
礼誠は、すでに夕飯を作り終えていた。
都の守護神が不在なので、穂藍と礼誠は一緒に食事をとる事になった。
「守護神様がいらっしゃらないと、静かですねぇ」
礼誠が言う。
「礼誠さんは神が見えないのに、感じるのですか?」
「ええ。気配って言うのか、何かね。いつもより寂しい気がしますよ」
「そうなんですね……」
穂藍はこの機会に、少し気になっていた事を訊いてみる。
「あの、ひとつ訊いても良いですか?」
「何でしょうか?」
「この前、守護神様に、寝間を一緒にしたいと言われたのですが……」
「あらま!」
礼誠は目を丸くした。
「それで、穂藍様は何とお答えに……?」
「えっと、部屋はいっぱいあるから、わざわざ一緒にしなくても良いんじゃないかと……」
穂藍が言うと、礼誠は苦笑した。
「あらぁ、そうですか。守護神様、がっかりしておられたのでは?」
「え、ええ、まあ、はい……」
礼誠は箸をおいて、穂藍に向き直った。
「穂藍様、夫婦というのは、寝間を共にするものでございます」
「そうなのですか?」
「はい。夫婦の時間を大切にするためにも、おふたりの寝室は、同じ部屋で良いのですよ」
「ふぅん……」
穂藍は、たくあんをぽりぽり食む。でも確かに、守護神と過ごす時間が多くなるのはいいなぁと思った。
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