(三)
朝が来た。穂は伸びをして布団から出る。
障子の向こうは明るく、山鳩も呑気に鳴いている。今日もいい日になりそうだ。
服を着替えて台所に行くと、すでに朝食ができていた。
「おはようございます、
「おはようございます、穂様。昨日はよくお眠りになられましたか?」
「はい」
「それは良かった。今日の朝餉は、穂様のお好きなこごみの胡麻和えを、ご用意しましたよ」
「ありがとうございます」
神社の家事を回している巫女と話し、穂は食卓につく。
すぐに都の守護神も起きてきた。
「おはよう、穂」
「おはようございます、守護神様」
挨拶しながら、穂は目を伏せる。お神酒に酔って狼姿の守護神を撫でまわした事は、まだ記憶に新しかった。
「気にするな。酒での恥ずかしい記憶は誰にでもある」
守護神はそう言ってくれるが、あれが夫との初めての会話だった事もあり、穂はまだ恥ずかしかった。
神に食事は必要ないようだが、都の守護神はいつも穂の食事中は傍にいた。
「ここでの生活には慣れたか?」
「はい、何とか」
穂が都に来て、半月が経とうとしている。
「ごはんも美味しいですし、服もかわいいです。何より、皆さん私が『一文字』なのに優しくて……」
守護神は首を傾げた。
「気になるか?」
「え?」
「名前の事だ。『一文字』は気になるのか?」
「ええと……」
穂は考え込む。元いた村では、それも穂が避けられていた理由だった。
姓を表す二文字目が無い事は、素性の分からない人間である証拠として、忌避されていた。
穂が黙っていると、守護神は言った。
「姓が無いなら、つくれば良いだろう」
「えっ」
穂は驚く。長い事「一文字」である事に悩んでいたが、その発想は無かった。
「と言っても、神は名を与える事ができないからな。晃䋝にでも頼むか」
こうして朝ごはんを終えると、二人は社務所へ向かう事にした。
玄関を出ると、一匹の狸が駆け寄ってきた。
「守護神様、穂様、おはようっす。どこに行かれるっすか?」
「おはよう、
信は、この神社に住む神見習いだ。見習いにして人型になれるという、多大な神力を持ちながら、将来の夢は立派な土地神であると言う。もっと位の高い神も目指せるだろうに、その将来の夢は確固としていた。
「晃䋝に、穂の名字をもらいに行く。お前も来るか?」
「もちろんっす!」
信は水干に括袴の童子になり、後を追ってくる。
「穂様は、どんな名字が良いっすか?」
「そうね……」
穂は少し考える。
「母様がくれたこの名前に、ぴったり合うのがいいなぁ」
「なるほどっす」
そんな話をしている内に、社務所に着く。その中では、晃䋝がすでに事務仕事を始めていた。
「おや、おはようございます」
晃䋝が三人を見て挨拶する。
「守護神様が社務所にいらっしゃるとは珍しい。何か御用がおありですか」
「ああ」
都の守護神は、手短に用件を伝える。
「穂に、名字を付けてやってほしい。できるか?」
「名字でございますか。これは、大役を任されてしまいましたな」
晃䋝は考え込む。
「うーむ……なかなかに難しいですな……」
しばらくの間考えていたが、やがて晃䋝は顔を上げた。
「藍と言う字はいかがでしょうか。藍色の、藍の字です」
「ほう。その心は」
守護神が訊く。
「この神社の色でございます。神社の紋も藍色ですし、神職の袴も藍染めと決まっております」
「なるほど。どうだ、穂」
「素敵です」
穂は目を輝かせた。都の外から来た自分が、この神社の一員になれたようで、嬉しかった。
「では、これからは『穂藍』と名乗ると良い」
「はい。ありがとうございます」
こうして穂は姓を得て、穂藍と名乗る事になった。
「あの、守護神様」
「なんだ?」
これを機に、穂藍は気になっていた事を本神に訊いてみる。
「守護神様のお名前は、何とおっしゃるのですか?」
その場にいた全員が、目を丸くする。
「?」
穂藍にはそれが不思議だった。
「ええと、すまない、話していなかったな」
守護神がぽりぽり頭をかく。
「神は普通、名を持たない。もちろん俺にも、名は無いんだ」
「え? でも、神見習いの信には、名前が……」
穂藍が信を見やると、困った顔をしている。
「名前があるのは、見習いだけっす。神になる時に名を捨てるのが、神の掟っすね」
「そうなのね……」
言われてみれば確かに、穂藍は元いた村の土地神の名前も知らなかった。教えてくれなかったのは、そもそも名など無いからだったのか。
「神様について、知らない事ばかりだわ」
穂藍は溜息をつく。こんな自分に、都の守護神の妻が務まるとは、思えなかった。
「案ずるな」
守護神が優しい口調で言う。
「ここで暮らしていれば、様々な神に会う事になる。徐々に、いろんな事を学んでいけば良い」
晃䋝と信も微笑む。
ここでなら、自分はうまくやっていけるだろうか。優しい人たちに囲まれて、大切にされているのだと実感できる。
「はいっ!」
穂藍はそれが嬉しくて、笑顔で大きくうなずいた。
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