(二)
生まれて初めて、絹の服に袖を通しながら、穂は不安に襲われていた。
無事に王都へ到着し、その活気に驚きながら、大きな神社に運ばれたものの、当の守護神に会えていないのだ。
鹿の土地神と別れ、今になって思う。
(都の守護神様が、動物のお姿だったらどうしよう……)
別段、動物が嫌いなわけではない。しかし、動物を愛でているのと、自分の夫になる存在が動物の姿なのとは、訳が違う。
結婚式の支度はすでに整っていたようで、後は穂の着替えを待つのみ。
穂に白無垢を気付ける女性たちはしとやかに、しかきてきぱきと仕事をこなしていた。
彼女たちに訊いてみようか悩んだが、仕事の邪魔をするのもはばかられる。
そうこう悩んでいる内に、穂の着付けは終わっていた。
「穂様」
着替え完了の報告を受け、晃䋝が部屋に入って来る。
「お美しい。さすが、守護神様の見込まれたお方ですな」
この人になら、訊けるだろうか。穂は口を開く。
「あの」
言いかけてはっとした。神様の見た目の話をするのは、失礼に当たらないだろうか。神と長年話していた割に、神の事をよく知らない穂は、口ごもる。
「何かございましたか?」
「いえ、何でもないです」
結局、訊けなかった。
晃䋝は、穂に儀式の詳細を確認する。
「結婚式の流れは、覚えておいでですか」
「はい、何とか」
格式高い婚礼の儀は、流れや手順が厳格に決まっているらしい。
参進の儀と呼ばれる花嫁行列を経て、神社の拝殿に入り、清めの儀を受ける。宮司である晃䋝が祝詞を読み上げ、その後お神酒を飲み交わす。玉串を奉納すれば、儀式は終わりだ。
しかし今回、都の守護神の婚礼とあって、様々な参列者が挨拶に来る。その中には、この国の王と王妃もいると言う。
「あの、王様や来賓の方々に何か言われたら、私は何と答えれば良いのでしょうか」
「ああ、お気になさらず」
晃䋝は優しく笑う。
「挨拶には、私が通訳に入ります」
「そうなんですか?」
「はい。穂様へのご負担の懸念もありますが、何より、ほとんどの人間は、神様方を認識する事ができませんから」
「あ、そうですね」
「ええ。ですので、ご心配なさらず」
「ありがとうございます」
穂はほっと息をついた。村での環境のせいで、人と話すのは慣れていなかったし、初対面の人間となればなおさらだ。
晃䋝が間に入ってくれるのは、穂にとってありがたい事だった。
「お時間です。お越しを」
部屋の外から声がかかる。
「今行きます」
晃䋝が答えた。
「穂様、よろしくお願いしますね」
「はい。よろしくお願いします」
いよいよ、婚礼の儀が始まる。穂の胸は高鳴った。
「あの、都の守護神様って、どんな方ですか?」
流れに任せて、そう訊いてみる。
晃䋝は、笑って答えた。
「優しい方ですよ」
砂利を踏む音が境内に響く。宮司と巫女たちが、花嫁を連れて神社の大鳥居へ向かっていた。
「緊張されていますか」
晃䋝が穂に尋ねる。
「はい」
穂は素直に短く答えた。心臓は大きく脈打ち、掌には汗もかいている。
「ご安心ください。私も、緊張しております」
晃䋝の表情は強張っている。
祀っている神の一世一代の行事とあって、神社全体が緊張しているようだった。
大鳥居の前には、すでに行列を共に歩く関係者が揃っていた。
神が人間と同じように見えている穂には、誰が都の守護神なのか分からない。
そんな彼女の様子を察してか、晃䋝がそっと穂に言った。
「鳥居の上にいらっしゃるのが、守護神様です」
「上?」
穂は大鳥居を見上げる。
石造りの鳥居のてっぺんに、美丈夫が立っていた。黒五つ紋付羽織袴をまとった青年は、都の風に黒い長髪をなびかせている。
「守護神様」
晃䋝が下から呼ぶと、都の守護神は視線を下に向けた。
その表情がぱっと明るくなり、穂はどきっとする。
この神が自分の夫になるのだと思うと、不思議な気分だった。
晃䋝の指示で列を組む参列者たちの先頭、白無垢を着た穂の前に、守護神は降り立つ。
「よく来たな、俺の花嫁」
その顔はとても嬉しそうで、穂はたじろぐ。
「生涯、お前を大切にしよう。約束する」
「は、はい……」
穂は返事をしつつうつむいた。そんな事を言われたのは初めてで、どう反応すれば良いか、分らなかった。
(とりあえず、ご挨拶しなきゃ)
自分にそう言い聞かせ、顔を上げる。
しかし、まだ神が笑顔で穂を見つめていたため、またすぐに目を伏せたのだった。
「守護神様、そろそろ」
晃䋝が促す。
「ああ。参ろう」
青年姿の土地神は、姿勢を正して前を向いた。
「参ります」
宮司のかけ声で、花嫁行列が始まった。何せ都の守護神の婚礼なので、花嫁行列は大々的に街を練り歩く事になっていた。
石畳の階段を降り、行列は街へ入る。人々は頭を下げ、それを拝し歓迎した。
前を向かなければと思いつつ、穂はちらちらと隣の青年を見てしまう。
(人のお姿で良かった)
半ば安堵しつつ、たくさんの人に頭を下げられ戸惑いながら、歩を進める。
半刻ほど街を練り歩き、やっと神社へ戻ってきた。
石畳を通り、そのまま拝殿へと入る。ここが婚礼の儀を行う場所だ。
緊張の中清めが終わり、晃䋝が祝詞を読み上げる。それを聞いている間、穂は隣の守護神に目をやりたくなるのを、必死にこらえていた。
「三献の儀でございます」
晃䋝が言う。
卓に置かれた一番小さな盃に、巫女が三回に分けてお神酒を注ぐ。
守護神はその盃を宮司から受け取り、三度口を付けた。
晃䋝を通して卓に盃が戻ると、巫女がまた三度に分けてお神酒を注いだ。
それを晃䋝に差し出され、穂はたじろぐ。
(聞いてない!)
確かに、お神酒を飲むとは聞いていたものの、それが守護神と同じ盃を渡される事になるとは思っていなかった。
先程初めて会った相手と同じ食器に口を付けるのは抵抗がある。
いや、抵抗があると言うより、気恥ずかしかった。
しかし悩んでもいられない。穂は覚悟を決め、宮司から盃を受け取った。
礼に則り、三回目に口を付けたところで、お神酒を口に含む。
(不味い!)
叫びそうになった。生まれて初めて飲んだ酒は、美味しくなかった。
顔をしかめてはいけないと思いつつ、その感想は顔に出てしまう。
それでも何とか飲み干して、宮司に盃を返した。
しかしそれで終わりではなかった。巫女がお神酒を注いだ盃を、また差し出してきたのである。
飲まなければと思っても、人間、嫌いなものを口にするのは気が引ける。
「飲まなくていい」
すぐそばで声がした。
「口を付ければ、それで」
守護神にそっと耳打ちされ、心臓が跳ねる。
それでも何とかその言葉に従い、穂は三献の儀を終えた。
榊の小枝に白い紙の付いた玉串を奉納し、穂のやるべき事が無事終わる。
この後は、来賓からの挨拶が待っていた。
まず新郎新婦の前に進み出てきたのは、国王と王妃だ。
この国の王家の人間は、みな髪と目が紅いと聞いていたので、穂にもそうだとすぐに分かった。
「この度はご結婚、おめでとうございます。心より、お慶び申し上げます」
若い国王が拝礼する。
「日頃からのご加護、お礼を申し上げます。都に住む国民が安心して生活できるのも、守護神様のお力あってこそと、心得ております」
「うむ」
守護神が口を開いた。
「本日の参列、嬉しく思う。この泰平があるのも、国王が善く治めているからであろう」
「もったいないお言葉でございます」
晃䋝は間に入らない。どうやら王家の人間には、守護神が見えているようだった。
「それでは、守護神様、奥方様の末永いしあわせをお祈り申し上げます」
「ああ」
他にも、都の土地神を祀る神社の宮司や国の高官等が、入れ代わり立ち代わり挨拶に来る。守護神は晃䋝を通して一人ひとりに言葉をかけ、挨拶を返していた。
緊張して身を固くしていた穂は、視界の端に動く何かを捉える。
視線だけ動かしてそれを確認し、確認しきれず二度見した。
(し、尻尾……?)
それは、黒いふさふさとした尻尾だった。どう見ても、都の守護神から生えている。
(えっ、守護神様は人のお姿ではないの?)
頭が混乱してくる。
知らない人たちの挨拶より、視界の隅で揺れる尻尾の方が、穂にとっては大事件だった。
来賓の方へ必死に顔を向けながら、視線はその揺れる黒を見る。
混乱する頭に内容が入らないまま、来賓の挨拶は終わっていた。
「続いて、神楽奉納に移ります」
藍色の袴の巫女たちが進み出て、静かに舞い始める。
初めて目にする優雅な神楽を、穂は興味深く見ていた。
舞の奉納が終われば、後は退場するだけだ。
こうして穂は、何とか結婚式を終えたのだった。
式場を出た新郎新婦は、控室に戻っていた。
「ご苦労だったな、穂」
守護神が、笑顔で穂に声をかける。
「無事に終わって本当に良かった。よくやったな」
「はい」
穂は、頬が火照るのを感じながら返事をする。
「無事に終わって、良かったです」
「うむ」
「結婚式、大変でした」
そう言いながら、穂の頭はなぜか働かない。それでも言葉を続けたい気がして、話を止めない。
「絹の服は柔らかくて、人がいっぱいいて、お酒は不味くて、守護神様は人のお姿で、尻尾なんです」
「……穂?」
先刻初めて会ったばかりの守護神にも、穂の様子がおかしいのが分かった。
「尻尾、あれ、なんで尻尾?」
「穂、大丈夫か?」
守護神の心配に、穂は気付かない。
「守護神様は、人のお姿で、尻尾。尻尾なんですよ。なんで?」
「あー……お神酒か……」
守護神は頭を抑える。三献の儀ではお神酒を飲まなくても良いと、晃䋝を通して伝えておくべきだったと、後悔した。
「酔った穂もかわいいなぁ」
などと呟いている場合ではない。
「尻尾、なんで、尻尾?」
「それは、俺の本来の姿が、狼だからだ」
守護神はそう説明し、大きな黒狼の姿になる。
「人の近くで生活するのに便利なよう、普段は人の姿でいるが、こちらが俺の……」
「あー! わんちゃんだぁ!」
穂が突然大声を出した。守護神の顔を両手で挟み、わしゃわしゃ撫でる。
「かわいいねぇ。わんちゃん」
「いや、犬ではなくて狼だと、言っておろう」
「わんちゃん。えへへ、どこから来たの?」
「だから、俺は犬ではなくて……」
「わんちゃーん」
「……」
まあ、この状況も悪くない。守護神はそう思い直す。妻がこうして笑顔で撫でてくれている。少し考えればしあわせな事だ。
突然、穂の手が止まった。
「穂?」
「……くぅ」
眠気に負けた穂の身体が傾く。
「おっと」
守護神はそれを、人の姿で抱き留めた。
「まったく……かわいいな、穂は」
大きな掌で、今度は守護神が穂の髪をそっと撫でる。
「これから、よろしく頼むぞ」
守護神が心を込めてそう言った時には、穂は満足な夢の中にいた。
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