神嫁穂藍
橘 泉弥
(一)
朝が来た。
重い身体を何とか起こし、布団から出る。
どこからか響く山鳩の声が呑気だが、穂にはそれさえ憂鬱だった。
沈んだ気分のまま服を着替え、髪を整える。
断りも無しに玄関の戸が開き、女性が家に入って来た。
「おはようございます」
穂は恐るおそる声をかけるが、女性からの返事は無かった。
穂を見る事もなく、床に食事を置くと、女性は何も言わずに出ていく。
「……」
穂は悲し気に目を伏せた。
やはり、今日も口をきいてもらえなかった。
そもそもこの村には、穂と話そうとする人間はいない。
姓を持たない「一文字」である事と、神見の力を持つ事が、その理由だった。
味もろくに分からないまま、出された食事を腹の中におさめ、穂は外に出る。
春の日差しが少女を包むが、彼女の心の内までは、その柔らかな光は差し込まぬようだ。
畑仕事に精を出す村人たちは、穂の存在など気に掛ける様子もない。
自分の足元を見ながらとぼとぼと、穂はあぜ道を歩いて行った。
山に差し掛かる辺りの道端に、木造の祠が立っている。
その傍に、鹿が一頭座っていた。
「おはようございます、土地神様」
穂が声をかけると、鹿は穂の方を向く。この村を護る土地神だ。
「おはよう、穂。今日もいい天気だね」
「そうですね」
祠の横にある切り株に座り、穂はほっと息をつく。ここが、穂の主な居場所だった。
この土地神、延いては神を視認し言葉を交わす力のせいで、穂は村人たちに気味悪がられている。
しかしこの力のおかげで、穂は完全な孤独を免れていた。
「土地神様」
「何だい?」
「土地神様は鹿のお姿なのに、角が生え変わらないのですか?」
「そうだねぇ。僕は神だからね」
土地神はのんびり答える。
「でもね穂、見た目なんて、そのものの一側面でしかないんだよ。大切なのは、本質なんだ」
「ふぅん」
日がな一日、穂はここで時間を過ごす。村に居ても良い事は無いし、させてもらえる事も無かった。
「おや、誰か来るね」
耳を揺らし、村を見下ろして鹿が言う。
穂がつられて見ると、何やら見た事のない一行が村へ入ったところだった。
遠目なのでよく分からないが、どうやら村長が対応している。
「何でしょうか、あの人たち……?」
穂は不安になる。
「あれは、都の守護神社の紋だね」
土地神が一行の掲げた旗を見て言う。白地に藍色で、蓮を象った紋が描かれている。
「悪い人たちではないはずだけど。こんな所に何の用だろう?」
二人が話している間に、村長に連れられ一行が動いた。
「どこへ行くんだろうねぇ」
土地神はのんびりだが、穂は不安で仕方がない。
「こっちに向かって来ていませんか?」
「そうかい?」
一行は、先ほど穂が通ったあぜ道を歩いてくる。
「本当だ。僕に用があるのかもしれないね」
鹿はのそりと立ち上がる。
「穂、悪いけど、彼等との通訳を頼むかもしれない」
「分かりました」
そして一行は、村長に連れられ二人の前へやってきた。
「では、わしは失礼する」
村長が穂を一瞥し、去っていく。
それを見送った一行は、土地神の前で立ち止まり、揃って深く拝礼した。
「ご挨拶申し上げます、土地神様」
一行の先頭にいた、初老の男性が言った。物腰は柔らかく、言葉には丁寧さが感じられる。
「おや、お前は僕が見えるのかい」
「はい。おっしゃる通りです」
男性の返事に、穂は胸を撫で下ろした。どうやら、通訳は必要案さそうだ。
「こんな辺鄙なところへ、王都の守護神社が何用かな?」
「はい。恐れながら、貴神の隣にいらっしゃいます、その娘さんに用が」
「え、穂の方に?」
「はい」
穂の心臓は跳ねた。縁もゆかりもない都の神社が、一体自分に何の用だと言うのだろう。
初老の男性は一度頭を上げ、改めて穂に拝礼した。
「申し遅れました。私、名を
「は、はい……」
穂は、おどおどとそれだけ答える。名乗らなかったのは、自分が「一文字」である事を知られたくなかったからだ。
晃䋝と名乗った男性は、穏やかに言葉を続けた。
「突然の来訪、大変失礼いたします」
こんなに丁寧に言葉を掛けられたのは初めてだ。穂は緊張する。
「あの、私に何か……?」
「はい。実は、都の守護神様が、貴女を妻に迎えたいと仰せでして。お迎えに上がった次第でございます」
「え?」
「そうなのかい?」
穂だけでなく、隣にいた土地神も驚く。
「はい。この村に住む、神見の力を持つ少女を妻としたい、とおっしゃっています。ぜひ、一緒に来ていただきたい」
「そんな、急に言われても……」
穂は困って土地神を見る。
「うーん……」
鹿も戸惑っていた。
「失礼ですが、お名前をうかがっても?」
晃䋝に言われ、穂は仕方なく名乗る。
「穂、と申します」
「穂様ですね」
晃䋝の柔らかな物腰は変わらない。穂は少し安心した。
「どうか、都へお越しください。守護神様は、悪い方ではございません」
穂が返事に困っていると、土地神が口を開いた。
「行ってみても、良いかもしれないよ」
「え?」
穂は鹿の顔を見上げる。
「この村に居ても、君はこの先も、つらい思いをするだけでしょう。それよりは、新しい土地で新しい生活をしてみるのも、悪くないと思うよ」
「でも……」
「大丈夫。この人たちには、強い加護がついてる。都まで安全に行けるはずだ」
「……」
穂は黙り込む。都に行ったとして、楽しい生活が待っている保証はない。今のように、いや、それ以上に、つらい事にはならないだろうか。
「ねぇ、穂」
土地神が優しく声をかける。
「僕は、穂にしあわせになってほしいと思ってるんだ。土地を護る者として、人間ひとりの幸福を願うのは間違っているのかもしれないけどね。でも、そう思わずにはいられないんだよ」
「土地神様……」
「大丈夫、穂ならちゃんと、しあわせになれる。君にはその力があるから」
「……分かりました」
長年一緒にいた土地神が、こう言っているのだ。その言葉を信じるのは、穂にとっては容易い事だった。
「都に、参ります」
穂は、晃䋝をまっすぐ見て言った。
新天地がどんな場所であろうと、生きていく自信が湧いてきていた。
「ありがとうございます」
晃䋝が、改めて深く頭を下げる。
「では、こちらへ」
一行の担いできた輿に乗るよう促され、穂はそれに従う。
「では、私共はさっそく都へ戻りたいと存じます。守護神様が、お待ちですゆえ」
晃䋝は鹿に挨拶する。
「都の守護神様に伝えてほしい。どうか穂を頼みます、と」
「かしこまりました」
土地神は、穂の方に向き直る。
「行ける所まで、一緒に行くよ」
「はい」
輿を持った男たちが立ち上がり、一行は来た道を戻り始めた。
畑仕事に精を出す村人たちの視線を感じながらあぜ道を通り、広場を抜けて村の外へ向かう。
呑気な山鳩や高らかな鶯の声は、穂の門出を祝福しているようだ。道端の菜の花も咲き誇り、澄んだ空もうららかだった。
「僕が行けるのはここまでだ」
村の端に来た時、土地神が言った。
晃䋝の合図で、一行は一旦立ち止まる。
「穂、それじゃあね。元気でやるんだよ」
「はい」
穂の両目に涙が揺れる。幼い頃から一緒にいた、この土地神と離れるのが、寂しかった。
「今まで本当に、ありがとうございました」
頭を下げる。小さなしずくが、輿に落ちた。
「穂なら大丈夫。胸を張って、しあわせにおなり」
「はい……っ!」
輿が動いた。穂の新たな人生に向けて、一行は出発する。
季節は春。穂の人生は、大きく動き出したのだった。
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