そして、彼も歩き出す

 スヴェンに手を取り導かれるようにして、ウルリーケは皇宮の廊下を進んでいた。

 玉座の間での騒動はまだ伝わりきっていないらしい。

 視線は感じるものの、二人を制するものは居ない。

 泳ぐように優雅な足取りで、何を気にする事もなくスヴェンとウルリーケは出口へと歩み続けていた。


「スヴェン! ウルリーケ!」


 名を呼ぶ聞き慣れた声にようやく足を止める。

 振りむけば、隻眼の側近を連れたヘルムフリートがこちらに駆け寄ってくるのが見える。

 少しばかり慌てた様子のヘルムフリートは二人に追いついてくると、怪訝そうな表情をして問いかけた。


「一体何があった!? かなりの騒ぎになっていたようだが……」


 ヘルムフリートは皇帝からの下命の際以外は玉座の間に近づく事すら許されていない。

 どうやら、人づてに何かあった事、そしてその原因がギーツェン大公夫妻という事だけを聞いてやってきたようだ。

 ヘルムフリートの表情が僅かに蒼褪めている。

 二人が皇帝の機嫌を損ねてしまったのではと、心配してくれているのだろう。ウルリーケ達に咎が及ぶ事を懸念してくれている。

 スヴェンにとっては兄に等しい、そしてウルリーケにとっても義理の兄と呼べる優しい皇子。

 自分がどれほど理不尽な目にあっても、他者を慮る事を忘れない穏やかであり強い人。

 人の痛みを忘れることなく、人を導いていけるであろう人……。


 スヴェンは手の中にあるものに視線を向けた後、ウルリーケへと問うような眼差しを向けてくる。

 ウルリーケは静かに頷き真っ直ぐに見つめ返す。

 スヴェンとウルリーケは、今同じ事を考えていると感じたから。

 二人はもう一度、頷き合う。

 スヴェンは、手にしていた玉璽の指輪を無造作にヘルムフリートへと放り投げた。

 綺麗な放物線を描いてそれはヘルムフリートの手におさまった。

 手に飛び込んできたものが何かを認識した瞬間、ヘルムフリートは愕然とした表情でスヴェンを見る。


「スヴェン、これは……!」

「お前のものだ。上手く使え」


 手の中に飛び込んできた皇帝の証に、ヘルムフリートは言葉を失っている様子だった。

 父の指に在る筈のものがどうして、と呟いたのが見えた。

 ただ、自分が持つ指輪が『本物』である事だけは察した様子だった。

 様々な感情が綯交ぜになり何も言えなくなっているだろうヘルムフリートへと、スヴェンが笑う。


「お前が断ち切るのに、それは必要なはずだ」


 ライナルト帝はヴィルヘルミーネへと願った。いつかこれが相応しい者の手に渡るようにと。

 そして指輪はヴィルヘルミーネより託されたスヴェンから、今、ヘルムフリートの手に渡った。

 ウルリーケはスヴェンが相応しくない、とは思わない。

 けれども、スヴェンよりももっと相応しい人が居る、と思うだけだ。

 ヘルムフリートは、多くに慕われながら、人々を抑え与えられる理不尽に耐えてきた。

 皇帝が民心を失ってしまった今、不安で千々に乱れる人々をまとめあげる人間が必要だ。

 それは、他の誰でもないこの優しいけれど強い皇子以外に居ないと思う。

 スヴェンにも、ウルリーケにも、出来ない事だ。

 恐らくこの人であれば、この人に証たる指輪があれば。

 血を流す事なく転機を迎える事も可能だという確信がある。


 彼は断ち切らなければならない。断ち切りたいと願いながらも、断ち切る事が出来なかったものを。

 連綿と続く理不尽の連鎖を、専横によるはびこる腐敗を。部下達の苦渋を。

 国を思うが故に自身の中に巡り続ける煩悶を、そして亡き母の哀しみを。

 大切なものを、大切と想うからこそ、彼もまた歩き出さねばならない。


「だが、これはお前が……」

「もう、俺達には必要ないものだから」


 スヴェンとウルリーケの戦いは終わった。ウルリーケ達の世界を守る為にはもう玉璽は必要ない。

 大それた事を望むつもりはない。守りたいものが守れたならそれでいい。

 『枯れ谷』とそこに住まう人々が平らかに続いていく事。ウルリーケ達にとっては、それだけが全てだった。

 けれど、ヘルムフリートがこの先を進むためには必要となる。彼の戦いはこれからなのだから。

 自分を押し殺し続けた、この優しい皇子の道行きに光があるように。

 これから始まる彼の戦いに、勝利がありますように。

 二人の願いは指輪に託され、ヘルムフリートの手に渡った。

 手の中にて鈍く光を放つ玉璽へ、呆然とした眼差しを向けるヘルムフリート。

 ウルリーケ達の想いを察したのか、それ以上は何も言おうとせず、再び歩み始めた二人を止める事もしなかった。


「帰ろう、ウルリーケ」

「はい、スヴェン様。帰りましょう、ギーツェンへ!」


 スヴェンに促されて、笑みと共に頷いて応えるウルリーケ。

 成し遂げた晴れやかさを笑みと咲かせる二人が立ち去っていくのを、ヘルムフリートは静かに見守っていた。


 やがて、二人の姿が見えなくなってしまった後。

 何か言いたげに眼差しを向けていた側近へと、静かに口を開いた。


「……ユルゲン。……皆を集めてくれるか?」

「ヘルムフリート様……!」


 彼が何を思いその言葉を口にしたのかを察した側近の顔に、喜色と興奮の色が浮かぶ。

 ヘルムフリートが選ばない事をもどかしく思っていた道を、漸く彼が選んでくれようとしているのだと気付いて。

 側近の真摯な眼差しを受けて、ヘルムフリートは少しばかり苦いけれど笑みを浮かべていた。そして、決意を込めた確かな声音で静かに意思を紡いだ。


「私も、歩き出す時が来たようだからな……」


 呟く皇子の眼差しは、かつてと決別し、自らの選び取った道を歩いていった二人の消えた方角へと向けられていた――。

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