私はもう迷わない

 銀色の眼差しを受けたまま沈黙していたウルリーケは改めてデリアを見る。


 怯えた表情でこちらの機嫌を伺うようなおどおどした視線を向けてくる母。

 かつてのウルリーケの価値観であり、指針であり、そして『世界』であった人。

 歪な鳥籠の主であった人……。


 思いを巡らせるように一度目を伏せて、再び開いた時には菫の瞳に決意が宿っていた。


「復讐は、しません」


 はっきりと確かな声音で紡ぐ。

 スヴェンはただ黙ってウルリーケの言葉の続きを待ってくれている。

 だから、ウルリーケは自分の内にある決意を、そして思いを口にする。


「この人に、そんな価値などありません」


 こんな人の為に、スヴェンの手を煩わせる事も汚す事もしたくない。

 ウルリーケがデリアを見つめる眼差しには、少しも好意的な色が無かった。

 娘が母に向けるのは、親しみも敬意もない、心からの軽蔑の眼差しだった。

 今まで一度として向けられた事のない目と、言われた内容とに、デリアの表情に怒りが露わになる。


「ウルリーケ、貴方……お母様に何て口の利き方をするの!?」


 大変な事をしでかしたのだと言いたげな様子で、デリアは娘を𠮟りつけた。

 甲高い怒鳴り声を聞いたウルリーケの身体が、反射的にびくりと跳ねる。

 いつも、この声を聞いた後には殴られた、蹴られた。この声の後には、痛くて怖い思いをさせられた。

 デリアの怒鳴り声は、ウルリーケにとっては苦痛の始まりを象徴するものだった。


 あれ程、乗り越えられたと思ったのに。もう大丈夫だと思っていたのに。

 いざ本人を目の前にして、こうして叱責を叫ばれると萎縮してしまっている。

 その時、スヴェンが手を握る力を強めた。自分がここに居ると言い聞かせるように。

 握る手から伝わる確かな温かさ。

 それを感じると、震えは瞬く間に落ち着いていく。

 スヴェンの手の温もりが教えてくれる。

 私は、もうあの閉じた世界に居るのではないと。

 私の世界は、もうあの歪な鳥籠ではない。

 私はかつての世界の外に自分の足で立ち、自分の意思で愛したこの人と共に居るのだと。


 ――わたしは、戦えるのだと……!


 怒りの形相のデリアを、ウルリーケはもう一度見つめる。

 そこには娘が母を見つめる温かさや通う情はなかった。

 そして、軽蔑も忌避も憎悪も無かった。

 ただ透明で真っ直ぐな眼差しで、ウルリーケは『母』を見つめる。


「私は、もう貴方なんか怖くない」


 もう、ウルリーケにこの人を恐れる理由はない。

 この人はもう、今のウルリーケにとっては何の意味も持たないのだ。

 ウルリーケはゆっくりと、だが確かに噛みしめるような声音で続ける。


「かつては、貴方が世界だった。けれど今は違う」


 かつては確かに、この人はウルリーケにとって『世界』そのものだった。

 言う通りにする事だけが全てだった。

 愛娘という言葉に光を見出して、少しでもその意に沿うようにありたかった。 

 愛しているという言葉を求めて縋りついていた――それが擦り切れたかけた操り人形の糸と気付かずに。


「貴方の外に広がる本当の世界を知ったから。……貴方が、どれ程歪んだ存在であったかを知ったから」


 思えば、歪な世界は何と狭かったのか。

 唯一人の意思だけが全てを支配する、唯一人の為にある世界。

 それがウルリーケを取り巻いていた、彼女を作り上げてきた『世界』だった。

 その中に居る時には気付けなかった。

 自分は、自分と母の在り方は確かにおかしかったのだと。

 気付けなかった……気付けない振りをし続けてきた。

 目の前にいる『母』という人が、どんな人であったのか。

 ウルリーケは一度そこで言葉を切り、目を伏せる。

 何かを思い切るように息をひとつ吸い込み、再び瞳を開いた。

 透明な眼差しの先で顔色を失くして絶句するデリアを見据え、静かすぎる程の声音で言葉を紡ぐ。


「貴方は、自分だけが大事で、自分だけが可愛い。それ以外が無い、それが全ての……ただの哀れな女です」


 この人はもう、ウルリーケにとって何者でもないのだ。

 いや、とうの昔から何者でもなかったのだ。

 常に自分の為だけの『真実の愛』を追い求め続けた人。

 この人は、もう随分と前にウルリーケの『母』ではなかった。

 ウルリーケの『母』である事など、とうの昔に捨ててしまっていたのだ。

 かつて彼女がウルリーケの、そして父の手を払って『母』である事よりも『女』である事を選んだ時に、ウルリーケの母は消えてしまった。

 ウルリーケが母だと思っていたのは『母を演じるのが上手な女』だった。

 ウルリーケを都合のいい便利な道具とし、自分の価値を高める為の装飾品とし。

 周囲を、そして自分すら欺き続けた、一人の『女』以外の何物でもなかったのだ。


 ああ、あれほど大きく全てを覆い尽くさんばかりに思えた姿が、今は随分小さく思える。


 随分と前に消えてしまったものに、自分は縋り続けていた。

 捨てられた側が、捨ててはいけないという話はない。

 断ち切るのだ、自分の意思で。もう残骸と化していた繋がりを。


 胸にある罪悪感を、今度こそ消し去る。

 いや、それは罪悪感だったのだろうか。

 本来孝養を尽くすべき相手を切り捨てる事、仮にも育ててくれた相手との繋がりを断ち切る事。

 親不孝と謗られたり、情けのない人間だと顔を顰められたくなかった。

 罪悪感ではなく、ただ自分を悪く思われなくない心だったのだ。

 見栄っ張りの臆病者、内心苦々しく思い毒づいてみる。


 でも、もうそれは必要ない。

 私は私としてここに居る。そしてそのままの私を受け入れてくれる人がいる。

 私は、ウルリーケという一人の人間は、ここに確かに立ち、ここから先へと歩いていく。

 自分はもう恐れなくていいのだ、ウルリーケは心からそう思う。

 擦り切れかけた糸であっても、歪んだ籠であっても。

 かつてはそれがないと生きていけないと思っていた。

 自分から歪な籠の中に閉じこもって、失いたくないから何も見ない振りをしてきた。

 けれど今は違う。


 私は、本当の『世界』を知った。

 自分の意思で、自分の進む道を選ぶ事を知った。

 自分の意思で、愛するという事を知った――。


 母は母なりに自分を愛してくれたのだ、愛し方を間違えただけだなどと綺麗に思わなくていい。

 された事は事実として在る。ウルリーケの中から消える事はない。

 だから、許せなくていい。許さなくていい。

 けれど、憎み続ける必要ももう無いのだ。

 憎しみはここに解き放ち、置いていこう。 

 私はもう迷わない。

 今この瞬間に、本当にかつての『世界』と決別するのだ――。


「私はもう貴方を何とも思っていません」


 かつての自分。かつての苦しみ、哀しみ、痛み。

 それを解き放った今、ウルリーケにとってこの人はもう何の意味をも持たない。

 憎む事も恐れる事も、もう必要ない。


「私は貴方とは同じにならない。私は私としてスヴェン様と幸せになります」


 強いていうならば、それがこの人に対する意趣返し。

 けして同じ物にはならず、ウルリーケはウルリーケのまま、幸せに生きていく。

 それが、ウルリーケが今見据えるただ一つの未来だった。


 デリアはもう完全に顔色というものを失ってしまっている。

 何を言われているのか理解できないという風に頭を振っているけれど、察してはいるのだろう。

 己が娘と呼べる存在が居なくなってしまったということを。

 その存在が、己のとの繋がりを断ち切って飛び去ろうとして居る事を。


「貴方に罪があるとしたら、何れ運命が貴方を裁くでしょう」


 夫以外に愛を求めた事を責める事ができるのは、本当のところ亡き父一人だけだ。

 夫婦の問題には、子供は結局のところで口を出せない。母の裏切りを糾弾できない。

 けれど、この人は妻子のある相手とも『真実の愛』を追い求め続けた。

 運命を狂わされ泣いた人間もいるだろう。その罪は巡り巡ってきっと帰って来る。

 それはウルリーケが裁く事ではない。


「さようなら、皇后陛下。……二度とお会いする事はないでしょう」


 ウルリーケは実に見事で上品な、そして優雅なる礼を以て母だった女に告げた。何もできない、何も無いと言われ続けた少女の、あまりにも素晴らしい所作だった。

 スヴェンはウルリーケへと優しい笑みを見せながら、促して歩き始める。ウルリーケは微笑み返して、それに従う。


「ねえ、待って。待って頂戴、私のウルリーケ……!」

「だ、誰かその不届き者を捕らえろ……!」


 哀れな皇后が涙交じりに叫んでも、誰も表情を返る事はない。ただ醒めた眼差しで見つめて囁きかわすだけ。

 惨めな皇帝が怒りの形相で唾を飛ばしながら叫んでも、誰もそれに従う事はない。ただ蔑むような眼差しで囁きかわすだけ。

 誰一人として、彼らを慰める事も取り為す事もせず、もう誰も彼らの言う事に耳を貸さない。

 ひそやかに交わされる漣のような声だけが満ちる玉座の間を、スヴェンとウルリーケは緩やかな足取りで去っていく。

 過去と、そしてかつての自分と決別して、けして振り返る事はなく。

 二人で、ただ前だけを見据えて歩んで行った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る