皇帝である者

 明かされた事実に対するあまりの衝撃に周囲は完全に沈黙してしまっている。

 その中で、何とか我に返った皇帝は甥を睨みつけながら怒鳴った。


「お前が盗んだのだろう! 皇宮を離れる時に、腹いせに……!」

「盗んだと決めつけるということは。……こちらが本物だと認める事になるのだが」


 語るに落ちる、とはまさにこの事とスヴェンは苦笑する。

 スヴェンが盗んだと決めつけると言う事は、スヴェンの手にある方を本物と――自らが嵌める指輪を偽物だと認める事だ。

 皇帝は自分が持つ玉璽を偽物と知っていた。だからその言葉が咄嗟に出てしまったのだろう。

 指摘されて否定を叫ぼうとしてももう遅い。

 今の皇帝の言葉を、居並ぶ人々全てが聞いてしまった。疑問を抱く眼差しが、皇帝に据えられている。

 まさか、信じられないと口にしながらも、糾弾の視線が皇帝に集中している。


「確かにこちらが本物の玉璽。だが、俺が盗んだわけではない」


 スヴェンは言葉を更に言葉を重ねていく。

 叔父と父が隠し続けてきた事実を人々の前に明らかにする為に。

 偽りを全て光のもとに暴く為に。


「残念ながら、先々帝の崩御の前にはもう失われていただろう?……貴方達兄弟の手に渡らぬように、先々帝が信頼できる人間に託したのだから」


 ウルリーケは緊張の面持ちのまま、あの夜に思いを馳せる。

 スヴェンとウルリーケが、ヴィルヘルミーネの手紙を発見した夜に。



 手紙と共にあった小箱を開いた二人は驚愕した。


『……玉璽、だと……?』

『それは、皇帝陛下がお持ちの筈では……!』


 呆然と呟くスヴェンに、ウルリーケの問いが続く。

 小箱におさめられていたのは、間違いなく皇帝の玉璽に他なら無かったからだ。

 見間違える筈がない。祖父の手に、父の手に、そして叔父の手に。

 複雑な文様を刻みつけた指輪は存在しており、スヴェンはそれを間近で見続けてきたから。

 玉璽は皇帝を皇帝たらしめる唯一のもの。

 血筋正しい皇族であろうと皇帝の証たるその指輪が無ければ皇帝とは認められない、それが厳格に法に依って定められた掟だった。

 如何に豪華な戴冠式を行おうと、どれほど豪奢な宝冠を作り頭上に乗せようと、玉璽を持たない者は皇帝ではない。

 国の始まりに祖がそう定め、厳しく守るように言い伝えてきた筈だった。

 それを守り、歴代の皇帝は即位してきた筈だった。

 それが、何故にここにあるのか。

 今この時も、皇宮にいる皇帝の指にあるはずの指輪がどうして……。

 その答えはヴィルヘルミーネの手紙にあった。

 ライナルト帝が、何時か相応しき者に渡るようにと願ってヴィルヘルミーネに密かに託したのだという。

 祖父は息子たちを皇帝の器とは見なさなかった。信頼に足るものと思えなかった。

 しかし孫たちは未だ少年であり、その器を見定める時間はもう自分には残っていない。

 だからこそ、皇宮において唯一最後まで信頼できたヴィルヘルミーネに後を頼んだ。

 ヴィルヘルミーネは夫からも真実を隠し通し、そして指輪は今スヴェンの手に渡った。


 本当に、スヴェンの手にする方が本物なのか。疑問が口にするものが増えていく。

 スヴェンはおもむろに居並ぶ諸侯の一人……厳格であり公平さを信用されている老貴族の名を呼ぶ。

 進み出た老貴族は、スヴェンの要請を受けて用意したという三つの書面を手にしていた。

 まず提示したのは、ライナルト帝が遺した勅書。

 続いての一つは先帝が在位中に遺した政策に関する文書、もう一つは現皇帝の即位直後に発した勅令に関する文書。

 ライナルト帝の詔書にある玉璽を押した印には……端に欠落があった。

 それは、先帝と現帝による二つの公式文書の印にはないものだった。勿論、皇帝が今指に嵌めている指輪にも。

 スヴェンの手にした指輪には存在する欠落が、皇帝が手にする指輪には存在しない。

 老貴族は震える声で、その事実を皆に知らせた。スヴェンが手にするものこそが本物であると。

 人々がどよめき、皇帝に向けられる問いを含んだ眼差しの険しさが増す。


 あの夜、表れた指輪を固い表情で見ていたスヴェンだったが、指輪の隅にある欠落を指でなぞると、これは……と目を見張った。


『そうだった。……確か、先々帝が俺達の小さなころに……』


 賢君であったライナルト帝がしでかした小さな失敗。

 彼の人は、少しばかり気まずそうに孫息子たちに話してくれたという。


『俺とヘルムフリートには教えてくれていたんだ。……昔、うっかり欠けさせてしまったのは自分だと』


 皆には内緒だぞと悪戯っぽい笑みを作っていった祖父の顔を思い出したのか、スヴェンは少しばかり優しい苦笑いを浮かべていた。

 そして、ふと何かに気づいたといった風に呟いたのである。


『そういえば、父上と叔父上が一時何やら慌てて話し合っていたのを見たが……』


 小箱の指輪が間違いなく本物であると確信したスヴェンは、記憶をたどるように目を伏せながら呟いた。

 確かあれは先々帝が亡くなる少し前辺りだった……と記憶をたどるように呟くスヴェン。

 祖父が危篤状態に陥る直前、父と叔父が何やら慌てた様子で人目を避けて話し込んでいたという。何かがなくなった、と切れ切れに聞こえてきたが当時のスヴェンには何の事かわからなかった。

 彼らは自分達が皇帝となる為に必要なものが消えた事に焦っていたのだと、今ならば分かる。探しても探しても見つからない。このままでは、自分は即位できない。正当性を得られない。

 ならば、どうすればいい……? 彼らは考えた末に、企んだ――無いのならば、作ってしまえばいい、と。


「どうせ『偽物』を作るなら、せめて過去の書簡によく目を通してから作るべきだったな。そうすれば欠落に気付けただろうに」


 皇帝の顔色が蒼くなったかと思えば赤黒くなり、その言葉はもはや呻き声のまま、意味を為していない。

 皇后は、その様子を身ながらおろおろと狼狽えるだけ。

 手厳しく叔父達の『手落ち』を指摘したスヴェンは、鋭い語気で糾弾の言葉を口にする。


「事実を隠蔽し、偽の玉璽にて法に背き続け。今まで全てを欺き続けた罪を、貴方はどう償う……?」

「黙れ……! 黙れ、この汚らわしい不義の子め……!」


 血走った眼差しを向けながら、マンフレート帝は怒鳴った。

 年甲斐もなく若い女に熱を上げた先々帝の過ちの証、穢れた不義の子。

 それでも一応血族であるからと思い、また本人が公の場に出ようとせず身の程を弁えているから放っておいてやっていた。その恩義を忘れた恥知らず。

 皇帝は口から泡を吹くのではないかという勢いだった。

 あやしい出生をしていながら、才を持ち、美しさを持ち、富を持ち。

 皇帝は聞くに堪えない言葉まで交えながら、狂ったように叫び続けていた。それは羨望であり、怨嗟であった。

 周囲の側近たちがそのあまりの醜悪さに耐えきれず顔を歪め、軽蔑の眼差しを向けていることに皇帝は気付けない。

 自分が、自分達が今まさに人心を失いつつあることに気付き、留まる事が出来ない。

 手のひらからどんどん大切なものが零れ落ちていくのを、彼は気付く事もできなければ、止める事もできない。


「俺をそう思うなら好きにしろ。好きなように言えばいい。それで過去は変わるわけでもなければ、俺という存在が揺らぐわけではない」


 ウルリーケの手をとり、スヴェンは静寂なまでに落ち着いた眼差しを向けて告げる。

 どれだけ悪し様に罵られようと、父と叔父が全てを欺き続けた罪は変わらない。

 そして、もう彼は揺らがない。

 移ろう人々の囁きに傷つけられ世界を閉ざした少年は、真実に移ろわぬものを知り、その手を取っている。

 もう彼は、歪だった世界の外に居る。


「……玉璽を持たぬものは、皇帝たる資格はない。それは皇帝すら逆らえない国の礎たる掟だ」


 静かな声に、唾を飛ばして金切り声をあげていた皇帝が沈黙する。

 漸く身に染みてきた自分を取り巻いている現実に、その顔に徐々に恐れが拡がっていく。

 罪を知られた事の重さに、見る見るうちに身体を震わせ始める。


 それを真っ直ぐに見据えながら、スヴェンは決定的な『真実』を突きつける。


「貴方は皇帝ではないのだ、叔父上。いや、マンフレート……!」


 もう、誰も何も言わなかった。

 万乗の尊きであるはずの存在が、偽りで皆を欺き君臨していた只人であった事に言葉を失っていた。

 もはや、あの玉座にある男は皇帝ではない。

 この場を制するのはスヴェンである。

 彼は、皇帝を皇帝たらしめる真実の玉璽を手にする正しい血を引く者。かつての名君を彷彿とさせる威厳を持つ皇子。

 今、この場において真実の皇帝である者は、スヴェンだった。

 その場にいる人々が、言葉によらずともそれを認めている事が伝わってくる。


「ウルリーケ」


 玉座の間に満ちていた痛い程の沈黙を破り、スヴェンはウルリーケを呼んだ。

 少しばかり固い面持ちで、スヴェンを見つめ返すウルリーケ。

 スヴェンは、手にした玉璽の指輪を見つめ、次いである人物へと眼差しを向けた。

 厳しい銀色の光が見据える先には、ただ狼狽え震えるばかりの皇后――ウルリーケの母が居る。


「これが俺の手にある限り、お前はあの皇后をどうとも出来る」


 皇帝を皇帝たらしめる証がスヴェンの手にある以上、スヴェンには皇帝を断ずる権利の他、連座するものの処遇を定める権利がある。

 皇后を、皇帝を誑かした毒婦として断ずる事とて可能だ。

 ウルリーケがかつて受けた哀しみと苦しみを、そのまま、いやそれ以上にして返す事も可能なのだ。

 もはや皇后デリアは事の経緯についていく事ができず、ただ怯え、すがるように娘を見る事しか出来ない。

 向けられる眼差しに固い表情を向け沈黙するウルリーケへと、スヴェンは静かに問いかけた。


「……復讐するか? ウルリーケ」

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