真実を光のもとに
あの日、帝都を出てからもう幾年もたったような気がする。
唯一護衛を申し出てくれた優しい皇子の馬に揺られながら、未来に何の光も見出す事なく進んだ道。
もう戻れる事はないだろうし、戻りたいとも思わなかった道だった。
荒れ果てた大地が自分の心のようにも思えた道のりを、戻るように馬車に揺られている。
徐々に蘇りつつある荒れ野の中の道を、愛しい伴侶たる男性と共に進んでいる。
待ち受けるのは、ひとつの大きな戦いだ。
スヴェンにとっても、そしてウルリーケにとっても。
その先にある、共にあの地で生きる未来へ進むための、避けては通れないもの。
かつての因縁、そして『世界』との対峙である――。
暫くぶりに見る皇宮は、歴史を伴う華やかさを湛え、皇帝の住まいとして相応しい威厳を感じる。
ただ、同時に息苦しい程の圧迫感をも感じる。
それは、威容に圧倒されての事ではない。この場所に存在する人々の思惑を感じるからかもしれない。
少しでも瑕疵があれば幾らでも貶める。少しでも隙を見せれば忽ち蹴落とされる。
水面下では惨たらしい行いがなされているけれど、行き交う人々は耳に心地よい賛美を交わし合う。
人の良心を信じるだけでは生きていけない場所だと、ウルリーケは宮廷を思っていた。
勿論信じるに足る人たちも居る。けれどそれ以上に、この場所に対しては恐怖が勝ってしまう。
あの日、母と共に皇帝に謁見する為に歩いた時の事を思い出す。
ひそひそと言葉を交わす人々の好奇心に満ちた眼差しを注がれながら、怯えを必死に隠して教えられた通りに淑女としての振舞いを崩さぬように気を付けながら。
貴方を美しくない、所作に品がないと言われているの。でもそれを気にしないようにという母の囁きを受けながら。
本当に彼ら彼女らはそう囁いていたのだろうか。そうだったのかもしれないし、違うかもしれない。
もう今は確かめる事など出来ないし、ウルリーケはもうそれを確かめようとも思わない。
玉座の間への道を今共に歩んでくれるスヴェンの存在だけが確かであればいい。
侍従に導かれ、二人はそこに辿り着く。
居並ぶ諸侯や貴婦人達の視線を受けながら、ついに玉座に並ぶ皇帝と皇后の前へと。
スヴェンとウルリーケは静かに玉座に座す二人の前に跪く。
形式にのっとった挨拶を述べれば、これまた形式通りに面をあげるようにと皇帝から言葉がかかる。
緩やかに視線を挙げた先、皇帝の隣に居るデリアの姿がある。
皇后としての装いに身を包んだ母は、ますます華やかに美しくなったようだった。
自分に相応しいと思っているだろう栄誉と他の誰もが望む事のできない贅沢に溺れ、艶めいている。
しかし、その美しさはウルリーケの心に何の感慨も呼ばない。ああ、結構だと思うばかりである。
そんな娘の心など知らぬ母は、ウルリーケへと満面の笑みを浮かべて見せながら言葉をかける。
「良く来てくれたわね、ウルリーケ」
「お久しぶりで御座います、皇后陛下」
ウルリーケは真っ直ぐに母を見据えた上で返答する。
揺らがぬ声音でしっかりとする返答をされた事に、デリアは戸惑っているようだった。
娘が、このように毅然とした様子で母親の前に在った事などなかったから。
何時も母の顔色を伺い、その機嫌を結ぼうとしていた筈だったのに。そんな事を思っているのかもしれない。
しかし、気を取り直したらしい母は再び笑みを浮かべ、さも当然のように首を傾げながら問いかけた。
「ウルリーケ。お母様がお願いしていたフィンストーゼというお花は持ってきてくれたわね?」
「……先の使者の方に、今の季節は動かせないと確かにお伝えした筈です」
少しの社交辞令もなく本題である。
もう少し、労うなり何なり取り繕ってもいいのではと思うけれども、予想はしていた。
故に、返す返答は澱みのないものである。
答えたのがウルリーケであるという事に、デリアはまたも驚いたようだった。
明確なまでの母への口答えである。過去に一度としてなかった事に、母は目を丸くして言葉を失っている。
ぽかんと間抜けな顔を晒してしまっている皇后に、皇帝は一言二言かけると、スヴェンへと向き直った。
「皇帝に対する叛意なくば、この場に持参して然るべきであったと思うが?」
「残念ながら陛下。……今、妻が申し上げた通りです。今の時期に無理に移動させた場合、幻の花が真実『幻』になってしまう可能性が御座います」
故に敢えて命に背いたのだとスヴェンが告げると、皇帝の顔に明らかな怒りの色が浮かび上がる。しかし、それを何とか押し隠しながら、皇帝は表情を歪めて更に言う。
「ならば、その季節となるまで。……大公の妃には皇宮への逗留を命じる」
周囲が一気に騒めき始める。
それはつまり、スヴェンに対してウルリーケを人質にとるという意思表示である。
スヴェンが幻の花を皇帝に渡すまで、ウルリーケは皇宮を出る事は叶わない。
妻を連れて帰りたくば、無理をしてでもフィンストーゼを持参するしかない。
「ウルリーケは、花をスヴェン殿下がお持ちになるまでわたくしの元に置きますわ。どうぞ安心して下さいませ」
朗らかなデリアの言葉が皇帝の命に続いた。
欠片の悪意も、後ろめたさもないその声音に、更に騒めく声が増す。
幾ら命令を聞かせたいからといって、珍しいものを手の内におさめたいからといって。
婿に対して、実の子を人質にとるような真似を微笑みながら母が許容するなど。
顔を顰める人々が増えた事にも、慈悲深い自分に酔いしれている皇后は気付かない。
ウルリーケは表情こそ平静を保って見せていたが……内心では、呆れかえっていた。
あまりにも想定していた通り、もはや台詞回しすらスヴェンとウルリーケが想像した通りでともすれば乾いた笑いが出てしまいそうである。
恐らくスヴェンも内心ではおかしな笑いを零さない為に必死なのだろう。
若干口の端が震えかけているのは、気のせいでは無い筈だ。
黙り込んだ甥夫婦を見下ろしながら、その沈黙を逆らう術を失ったが故と気を良くした皇帝が尊大な様子で重ねて命じる。
「フィンストーゼを渡すが良い。そうすれば二人揃ってギーツェンに戻る事を許そう」
あまりにも己の優位を信じて疑わない、吐き気のするような高慢な物言いだった。
スヴェンはウルリーケへと一度視線を向ける。
それを受けて、ウルリーケは確かにひとつ頷きを返す。
スヴェンはゆるやかに立ち上がりながら、答えを口にした。
「断る」
一瞬、周囲が水を打ったように鎮まり返る。
そして直後、それまでとは比較にならないほどの大きな騒めきがその場に満ち溢れた。
スヴェンが立ち上がったのを見て、ウルリーケもまた優雅ですらある所作で立ち上がり、隣に立つ。
皇帝は顔を赤黒く染め怒りの形相であるが、怒りと衝撃が大きすぎて言葉を発する事が出来ていない。
皇后は、事態を飲み込めていないようで、首を傾げたまま呆然としている。
滑稽とも言える様子を晒している叔父へと、スヴェンは毅然とした銀の眼差しを向けている。
「大公たる身でありながら、皇帝に逆らうというのか……!」
「貴方には俺に命令する権限などない、叔父上」
怒りが募るあまりに震える声で、皇帝は己に逆らう者へと怒号を飛ばした。
その場の人々の騒めきにも怯えが入り交じり始める。
大公は、明確に皇帝への叛意を口にしたのだ。
そして、それを翻す事も恐れる事もない。
スヴェンは、鋭い眼差しを向けながら、ある『事実』を告げた。
「何故なら貴方には、本来皇帝たる資格がないからだ」
「……な、何を言う……!?」
その瞬間、皇帝マンフレートの表情に目に見えて分かる程の動揺が生じた。
咄嗟に否定の言の葉を紡ごうとしたようだったが、声は明らかに震えていた。
その様子を見てウルリーケは、スヴェンの予想が正しかった事を確信する。
スヴェンは懐からあるものを取り出しながら、叔父の様子を見て苦笑する。
「先帝と貴方は……よほど先々帝に信用されていなかったのだな」
皇帝の顔色が、更に蒼褪める。
先々帝……父に纏わる何についてスヴェンが口にしようとしているのか、気付いたのかもしれない。
分からぬままでも、本能的に自分が窮地に陥りつつある事に気付いたのかもしれない。
言葉を失くし続く叱責も否定も口にできないでいる皇帝を見て、人々の間にも動揺が拡がっていく。
一体どういうことなのか。今、何が起ころうとしているのか。
スヴェンはただ静かに小箱から何かを取り出すと、皇帝に見せつけるように掲げた。
「貴方は、証を……玉璽を持たぬ皇帝だ」
完全に皇帝が顔色を失くして沈黙する。
スヴェンの手にあるものが何かを察して、口を魚のようにパクパクと開いて閉じてを繰り返すしか出来ずにいる。
有り得ない、と呟きたいのだろう。
それは、今自分の指にあるのだからと、反論したいだろう。
けれど出来ないのだ。彼もまた真実を知っているから。
――スヴェンの手の中で、皇帝を皇帝たらしめる証である玉璽の指輪が、鈍い光を放っていた。
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