彼女と彼の辿り着いた答え

 一度目の使者の騒動からそう間を置かずに、慌ただしく再び帝都から使者がやってきた。

 先だっての者達の『暴走』を詫びたうえで新たにスヴェンに渡された手紙には、フィンストーゼに関する言及はなかった。

 しかし、それを目にしたスヴェンとウルリーケは何とも言えない表情を浮かべてしまう。


 何でも、妻が娘に会いたがっているので叶えてやってほしいという叔父から甥への『頼み』である。つまり、皇后デリアが娘ウルリーケを恋しいと泣いているので、スヴェンに妻を伴って皇宮へ来て欲しいと。

 ……皇帝としての署名がある以上、任意という名の強制には違いないのだが。


 フィンストーゼを渡せと言われたならばまだ切り抜ける術はあるが、半ば情に訴える方法で来られれば却下は難しい。

 スヴェンの顔を見れば分かる。

 彼もウルリーケと同じ答えだ。『行きたくない』の一択という。

 問題はそれを断る理由である。

 ウルリーケが会いたくないと言っているといえばウルリーケが非難の的になるし、スヴェンが却下したとしても情のない事と謗られるのは免れない。

 冬目前の荒れ野の気候を理由に出来ないものかと思っているが、どうにも気の利いた言い訳が浮かばない。

 スヴェンは使者の勝ち誇ったような眼差しを受けながら眉間に皺を寄せて小さく呻いている。

 隠そうとはしているが厭わしさは滲み出てしまっている。


 が、ふとスヴェンが身動きを止める。


 溜息と共に皇帝の意向を認めた書面を目にしていたスヴェンは、ふとある場所で目を見張った。

 それは、皇帝の玉璽にて押された、書簡が確かに皇帝の物であると示す印。


「嗚呼。……そういう事だったのか」


 ウルリーケには何のことか分からないが、スヴェンは何かに納得した様子で一度頷いた。

 そして少し考え込むような仕草をした後に、使者に向かって口を開いた。


「承知した。早急に支度と整え、皇宮へと出発する」


 ウルリーケも、控えていたフィーネとフェリクスも揃って目を瞬いて息を飲んだ。

 スヴェンが皇帝の意向に従うと言い出すなど思いもしなかった。

 皇帝に阿る気になったとは思えないし、スヴェンは考えも無しに何かを決断するような事はしない。

 恐らく、その決め手となったのは手紙から得た『何か』だ。

 ウルリーケはスヴェンの本意を信じて、微笑みながら頷いて見せた。

 大公夫妻が穏やかに皇帝の『願い』を受け入れた様子を見て、使者達は露骨なまでに安堵した様子だった。

 寒風吹きすさぶ荒れ野を往復しなければならない上、願いを拒否されたという応えを持ち帰らずに済んだからだろう。

 スヴェンが笑顔で滞在してゆくが良いと行っても、使者達は返答を皇帝に届けるのでと慌ただしく城を辞していった。


 見送りを受けた使者達が姿を消した後、既に夕食の頃合いとなっていた。

スヴェンの意向が気になって食事どころではない為に少し急いで詰め込み気味となってしまったが、暫くして三人は応接間から人払いを命じた後にスヴェンの居室にて顔を突き合わせていた。

 無言のままにウルリーケとスヴェンが椅子に腰を下すと、三つの視線がスヴェンに集中する。

 予想していたらしく苦笑を浮かべたスヴェンは、懐から何かを取り出した。

 それは、ヴィルヘルミーネ皇后の手紙と共に人形の中に封じられていた『ある物』だった。

 スヴェンは、それと手紙のとある箇所を示しながらウルリーケと双子に気付いた事を教えてくれた。

 最初こそ恐る恐るといった風に静かに聞いていたウルリーケ達だったが、その話が進むにつれ蒼褪め、ついには愕然として言葉を失う。

 沈黙を破るように、時計が夜の刻を告げる。けれど、誰も口を開く事が出来ない。


 だって、スヴェンの語った事が真実であるというのなら――。


「俺の予想が正しければ。……現皇帝は不当に登極したことになる。俺の父である先帝も」


 先帝も、現帝も、皇帝ですら逃れられないある掟を破って即位した事になる。

 それだけではない、長きに渡り周囲の全てを欺いて帝位にあり続けたことになる。

 ウルリーケは思わず息を飲む。

 あまりに重大な事実を、スヴェンが手にしているものが示している。

 スヴェンは不敵な笑みを浮かべつつ肩をすくめ、次いで双子へと命じる。


「……皇宮へ赴く準備を頼む。そう長く滞在する気はないが、少しばかり騒ぎになるかもしれない。その心構えだけはしてくれ」

「かしこまりました」

「ただちに取り掛かります」


 二人は何か言いたげだった。

 だが、逡巡の後に返したのは短い承諾の言葉だった。

 彼女と彼は、主を信じる事にしたのだ。その言葉の裏に深慮があると。そしてそれに従う事にしたのだ。


 フィーネとフェリクスが去った後、部屋にはウルリーケとスヴェンだけが残される。

 暫くの間、どちらも無言のままだった。

 ウルリーケは俯いたまま、唇を噛みしめてしまっている。

 言いたい事も、問いたい事も山のようにあるというに。何一つとして言葉を紡げないもどかしさに思わず膝に置いた手に力が籠る。

 しかし、不意に手にふれる感触がある。

 何時の間にかウルリーケが座る長椅子に並んで腰を下していたスヴェンが、ウルリーケの爪が手に食い込まないようにと手を解き、握ってくれてのだ。

 不安を隠す事ができぬまま見上げるウルリーケの眼差しを真っ直ぐに受け止めたスヴェンは、微かに笑みを浮かべながら告げる。


「……俺は大それた事を望む気はない。だが、お前とこの土地を守りたい」


 その為には、今は戦わねばならない。

 噛みしめるように呟くスヴェンを見つめるウルリーケの瞳にはまだ不安が宿ったまま。

 もしそれでスヴェンを失ったらという思いが、可能性の段階でもウルリーケの心を恐怖で縛り上げてくる。

 目の前のこの人を失うなんて、絶対嫌だ。

 今のウルリーケにとっては、何よりもそれが怖ろしい。何があっても、この人を失いたくない。

 だって、この人はウルリーケにとって、唯一人の、大切な……。

 頬に触れる感触がある。

大きくて頼もしい手の温かさに、思わず手を添えて頬をすり寄せる。

 目を細めてウルリーケを見つめていたスヴェンは、穏やかだが決意を込めた声音で続ける。


「お前が居てくれるなら、俺は誰が相手だろうと戦える」


 静かに銀と菫の眼差しがぶつかり、結びつく。

 言葉によらぬ様々なものを伝える。お互いが何を今思っているか。お互いを、どう想っているか。


「愛している、ウルリーケ」


 甘さを宿した優しい囁きが、ウルリーケの耳を擽る。

 伝えられた真摯な想いが少しずつ裡に拡がり満たしていく。

 偽りでもなく見せかけでもない、本当に自分自身へと向けられた愛情を銀色の双眸の中に感じる。

 今、ウルリーケは確かに愛されている事を感じていた。


「……伝えるのに、随分かかってしまったな」

「いいえ……。いいえ……!」


 涙が滲み、溢れ、伝い落ちるのが止められない。

 勿論、これは哀しみの泪ではない。

 胸を満たす喜びが次から次へと湧きだしてあふれ出してしまっている。

 返したい答えはそうじゃない、とウルリーケは思う。

 かつてスヴェンは言っていた。胸にある想いが『愛』であるのかが分からない。だから、共に確かめていきたいと。

 二人で寄り添いながら進んできた道。多くのものを乗り越えながら辿り着いた答え。

 スヴェンは、確かに自分が抱く想いを愛と言ってくれたのだ。

 そしてあの時、ウルリーケもまた共に確かめていきたいと答えた。

 スヴェンが今答えを出したように、ウルリーケも答えを出したい。

 いや、もう答えはここに……ウルリーケの中に溢れる程に満ちている。


「私も、愛しています。……スヴェン様を……あなたを……!」


 あの時は自分もまた自信がなかった。自分の中にある不思議な感情を『愛』と呼んでいいのかと。

 あの日から時は流れ、スヴェンと過ごしながら、彼という人の本当の優しさを知った。

 目の前にいるこの銀色の美しい人をずっと見つめていたいと願う思いが。触れたい、触れて欲しいと願う想いが。

 もうけして離れたくないという溢れだす程のこころが。

 愛という感情なのだと、ウルリーケの心の中に漸く確かなものとして芽吹き、花開いた。

 スヴェンの端整な顔が近づいているのを悟り、ウルリーケの表情には戸惑いが浮かぶ。

 けれど、それは一瞬だった。ウルリーケは静かに瞳を閉じて、それを受け入れる。

 自分を抱く両腕の温かさを感じながら、ウルリーケもまたスヴェンの背へと腕を回す。


 ――初めて触れる唇は、少しだけひんやりと感じた。


 擽ったい感触は、形容し難い感触へと転じ、燃えるほどの熱さとなる。

 けれども、途中から苦しさが生じてしまった。

 暫くの間そうしていたせいで、呼吸が出来ない。

 息ができないと流石に息苦しさに耐えきれなくなってスヴェンの背中を叩いてそれを訴える。

 スヴェンは慌てて顔を離すと、うっすらと涙が滲んだ目と上気した頬を見て何かを察したようだ。


「……息を止めていたのか?」

「……はい」


 目を瞬きながら問うスヴェンに対して、ウルリーケは少しばかり荒い呼吸のまま答える。

 だって、今までに経験のない事だから。どうしていいか分からないというのは大きいし。

 何とはなしに恥ずかしさが湧き上がり、思わず口籠ってしまう。

 けれど、スヴェンはそんなウルリーケを見て優しい苦笑いを浮かべると、耳元で囁く。

 鼻で息を、と言われたと思えば、再び唇が静かに塞がれる。

 今度はより長く、深く。幾度も角度を変えながら、優しさから徐々に激しさを増していく。


 長時計が、夜が更けた事を示して鳴り響く。

 いつもであれば、ウルリーケは部屋を辞して自分の部屋へととうに戻っている時間だ。

 もう戻らなければいけないのは分かっていた。

 けれども、戻りたくないと思う自分にも、そして戻るなと訴えるスヴェンの眼差しにも気付いていた。

 恐れも恥じらいも、無いと言えば嘘になる。


 しかし、それ以上に今は。

 結びついた心を感じていたいと、ウルリーケは願っていた――。

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