唯一の想い、最期の願い

 ウルリーケは寝台に上半身を起こして座り、スヴェンはそれに寄り添うように寝台の端に腰をかけ、二人は息を飲みながら手紙と小箱を見つめていた。

 スヴェンは手紙を手に躊躇っているようだった。そこに書いてある母の想いに触れるのを恐れている様子である。

 ウルリーケはスヴェンの迷いを感じるからこそ、言葉を紡ぐ事なく見つめる。

 やがて、菫の眼差しに対して少しだけ弱弱しく苦笑したスヴェンは、静かに封を切った。

 開かれた手紙に並んだ流麗な筆跡を見て、スヴェンは小さく母の字だ、と呟く。

 スヴェンはウルリーケにも見えるように手紙を広げてくれた。

 見てもいいものかと迷ったけれど、向けられた視線はそれを促している。


 時を越えて息子に届けられた母の手紙。

 そこには一人の女性の、唯一人の男性への愛と。過去に起きた悪夢と、その哀しい顛末が綴られていた。



 ギーツェンの城は、遡ればヴィルヘルミーネの母方の家の持ち物であり、幼い頃の彼女の思い出の場所だった。

 少女はギーツェンにて、初めてライナルト帝と出会った。

 ライナルト帝は皇后を失くして間もない頃だったという。

 ヴィルヘルミーネは威厳がありながら、優しく穏やかな人柄のライナルト帝に恋をした。

 しかし、彼女より年上の二人の息子を持つライナルト帝は親子以上に年の離れた相手であり、当然ながら彼の人にとってヴィルヘルミーネは恋愛対象とはなる筈もない。

 告げたとしても本気に受け取られる事もなかった。

 困ったように微笑んだ面影と少女の日の想いを大事に胸に抱き続け、ヴィルヘルミーネは成長した。


 再びヴィルヘルミーネとライナルト帝が出会ったのは、ヴィルヘルミーネが宮廷に上がるようになった頃だった。

 その頃のヴィルヘルミーネは、帝都一と讃えられる程の美貌に加え、教養を兼ね備えた聡明な貴婦人と名高かったとウルリーケは聞き及んでいる。

 ライナルト帝は少女の成長にさぞ驚いたに違いない。

 成長した少女を、ライナルト帝は目を細めて迎えてくれたという。

 彼女の胸には色褪せる事なく皇帝への想いが存在していた。

 少女が変わらず自分を慕っていることに、ライナルト帝は困惑していた、と後に近侍が彼女に語ったらしい。

 私より余程相応しい相手がいると苦笑しながらも、ヴィルヘルミーネとライナルト帝の視線が密やかに交差する事が増えていく。


 そして、気が付いた時にはヴィルヘルミーネとライナルト帝は年齢の垣根を越え、相愛となっていた。


 聞いたところによると二人を知る近侍は、密かにライナルト帝にヴィルヘルミーネを後添えに迎えてはと進言したらしい。王侯貴族の婚姻に年齢の差はよくある事だし、ヴィルヘルミーネは皇后となるのに遜色ない家柄であり、資質があるとして。

 しかし、ライナルト帝は自らの年齢と、死別とはいえ自身が既婚者である事を理由として彼女を娶ろうとはしなかった。自分よりも余程年齢の近い相応しい男がいると、本人に想いを告げる事すらしなかったのだという。

 そしてヴィルヘルミーネはそんなライナルト帝の心を理解した上で、誰の求愛を受ける事もなかった。愛を告げる事は出来なくても、ヴィルヘルミーネはライナルト帝への愛を貫き続ける覚悟を抱いていた。


 けれども、そんな彼女に魔の手は忍び寄る。

 父帝が執心している女性に興味を抱いた当時皇太子だった先帝がヴィルヘルミーネを見て一目で魅せられ、求婚してくるようになったのだ。

 無論ヴィルヘルミーネは拒絶し、執拗に口説かれてもけして応えようとしなかった。

 やがて、先帝は靡かぬ女に業をにやした。

 あろうことか先帝は、罠にかけた上に力づくでヴィルヘルミーネを奪ったのだという。

 それだけではない、ただ一度の悪夢でヴィルヘルミーネは身籠ってしまったのだ。

 そして、子の存在を理由として先帝は彼女との婚姻を強行した――。


「母上が、俺を愛せなかったのも当然だ……」


 綴られた手紙から事実を知ったスヴェンは愕然とした表情で呻いた。

 ウルリーケも蒼褪めながら言葉を失っていた。


 愛してもいない男に汚された上に、意に染まぬ婚姻をする羽目になり産んだ子供。

 男の面影はなかったとしても、我が子を見る度に悪夢のような出来事を思い出してしまう。結果として、母は息子を遠ざけてしまい、抱き締めてやる事すら出来なかった。

 悲痛な事実と胸の内を綴る筆跡は、僅かに震えている。


 もしかして、とウルリーケは伝え聞いた出来事を思い出す。

 突然息子とヴィルヘルミーネの結婚を告げられたライナルト帝は大層驚いただろう。しかも、既に腹に子がいるとまで知らされて。

 何も言われずとも、ヴィルヘルミーネの様子を見ればそれが彼女の意に染まないものであった事は明白だったろう。

 触れる事すら躊躇う程に愛しい女を奪った息子を、出来る事なら殺してしまい程に憎いと思ったとしても無理はない。

 一度だけライナルト帝が皇太子を殺しかねない程に激昂した事があったというのは、恐らくそれ故だったのだ。

 しかし、最終的には生まれてくる子供の為に息子とヴィルヘルミーネの婚姻を認めざるを得なかった。


 先帝の妃となっても、スヴェンが生まれても。

 ヴィルヘルミーネが夫に心を開く事はなかった。変わる事なくライナルト帝を思い続けた。そして、ライナルト帝も何時しか宮廷から離れ、かつて出会ったギーツェンにて彼女を思うようになった。

 だが、誓ってヴィルヘルミーネとライナルト帝の間には何も無かったという。

 心の底にはお互いへの想いがあったとしても、二人は公私ともに弁えて、死を迎えるその日まで距離を保ち続けた。


 ならば何故、あの噂は生じたのかとウルリーケは疑問を抱く。

 二人はけして付け入られぬようにと線引きを明確に保ち続けたならば、皇后の不貞を囁くあの醜聞はどこから。

 スヴェンの出生を貶める悪意は、どこから生まれたものだったのか。

 その疑問の問いは、続く手紙の中に記されていた


 ――わたくしの不貞の噂を広めたのは陛下です、と。


「あの噂は、先帝陛下が……!?」

「……父上が……何のために……」


 呟くスヴェンの声は掠れていた。

 手紙を持つ手が微かに震えているのを見て、ウルリーケは何も言わず手を添えた。


 ヴィルヘルミーネはけして先帝に心を許さなかった。どのような出来事を経ても、彼女の心は生涯唯一人にあり続けた。

 どれほど尽くそうと妻の心が自分に向かない事を憎んだのか、嘆いたのか。

 先帝は、自ら妻と父の不貞の噂を広めさせたのだ。

 そのような事実はないと知りながら、彼女達を貶める為に。

 息子が間違いなく我が子と知りながら、妻を苦しめる為に敢えて息子に皇太子の地位を認めなかった。

 噂を信じた風に忌まわしいものとして扱う事で、妻がより苦しむ事を願いすらしていた。


 スヴェンの横顔から顔色というものが消えている。

 ウルリーケは添えた手に、思わず力をこめた。


 小箱は亡くなる前のライナルト帝に密かに託されたのだという。

 『これ』を託すに値する人間は、現在は居ない。だからどうかこれをいずれ相応しい人間の手に渡るようにして欲しいと。

 告げられなかった愛と共に、最後の信頼はヴィルヘルミーネの元へと届けられた。

 彼女は想いと共にそれを受け取り、秘密を自らの姿を象った人形の中に封じた。


 ライナルト帝が亡くなり、先帝が即位した。ヴィルヘルミーネは皇后として帝国第一の女性となった。

 それでも、ヴィルヘルミーネの心はけして開かれる事はなく、皇后としての責務を果たすのみだった。

 そして、遂には病に倒れようとも苦痛の一つも夫へ零すことなく、最期まで先帝のものとはならなかった。

 焦がれてもけして得られない物への鬱屈故に、先帝はどこまでも妻を貶め苦しめ続けた。

 不貞の噂を流し続け、病に伏しても見舞う事はせず。

 皇后としての葬儀にて送る事もせずに、妻の名誉を最後まで貶めた。


 そしてヴィルヘルミーネは世を去った。

 秘密を封じた形代を『息子の妻になる女性に』とだけ遺して。


 ヴィルヘルミーネと先々帝は結ばれる事なく、引き裂かれた。

 意に反してでもヴィルヘルミーネが婚姻を結んだ故に、現世において二人は以後一度として『皇帝』と『皇太子妃』以外のものにならなかった。

 想いを胸に秘めながらも、けして触れあう事すら許さずに。お互いを大切と思うからこそ、想いを封じ続けた。

 現世では成就せず、許されぬものであったとしても。

 それでも二人は最期を迎えるその時まで、心に在るものはお互いだけで在り続けた。

 いや、死が二人を分かつとも。

 二人はお互いだけを想い、見つめ続けていたのだ。


 唯一つの後悔はスヴェンに関することだけだったと、母は手紙にて綴る。

 ヴィルヘルミーネは、先帝を全身全霊にて拒絶し、憎みすらしていた。

 哀れと想う事も無かったわけではない。けれども、それ以上に悪夢を忌む思いが生涯上回り続けたから。

 その想いは我が子にも及んでしまった。彼女は、その事を悔いていた。

 生まれた子には罪はないというのに、彼女は母として我が子を最後まで抱き締める事が出来なかった。

 酷い母でごめんなさい、ヴィルヘルミーネ皇后は手紙にて詫びていた。

 抱き締めてあげられる母親ではなくて、ごめんなさいと。

 それでも貴方を愛していると言える程、強い女でなくてごめんなさい、と。

 哀しい母は最後に結ぶ。

 貴方には何の罪もないのだと。だから、幸せになる事を恐れないで欲しい。

 この手紙を貴方が開く時。

 どうかあなたの隣に、あなたを抱き締めてくれる優しい人がいますように、と……。


 肩を震わせ言葉なく涙するスヴェンを、ウルリーケはただ黙って細い両腕で抱き締めていた――。

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