招かれざる客
枯れ谷の村に活気が戻るようになってから暫し。
土壌の改善は確実に進み、畑を取り巻く水の環境も改善しつつある。
成果は少しずつであっても表れ、以前と比べて見違えるほどに立派な作物が収穫出来たと人々は喜んだ。
薬草や染料の需要は続いており、それらの数の維持に務めながらも得た収入は食料や種麦と変え、来たる季節に備える事も出来ている。
これほど穏やかに冬を迎える事が出来るなど無かったと村の長にも笑顔が浮かんだ。
吹きすさぶ風はもう既にすっかりと厳しく冷たい。
やがて、枯れ谷には凍てつく冬が来る――。
ウルリーケは、城の書庫にて幾つか本を手にしていた。
ギーツェン城や枯れ谷に関するものである。
この不思議な谷や自分が暮らす城についてもっと知りたいと思い、駄目元で探してみたところ幾つか面白い資料が見つかった。
まさか見つかるとは思わなかった。辺境にあるが故に、そしてこの城の来歴故に国の監視の目も緩やかなのだろうか。
帝都では図書館の立ち入りには国からの許可証が必要で、これはある程度以上の貴族であれば資格は得る事が出来た。ただ、母が良い顔をしない為にあまり行く事ができなかった。
皇宮の書庫に至ってはもっと厳格な決まりにのっとった審査が必要な、国が認める資格が必要となった。父は有していたらしいが、当然ながらウルリーケは有していない。
書物の流通や学術の場についてもとても厳しい監視や審査がある。
帝都の図書館しか知らないウルリーケであるが、このギーツェン城の書庫には驚くほどの知識が眠っている事に気付いたのだ。
知らぬ故に皇宮の書庫とは比較できないものの、それでも恐らく人々に許されている以上の知識がここにあるという不思議な確信がある。
やはり、ここがかつての皇帝が……知識を管理する存在が過ごした場所であったからだろうか。
ウルリーケは、書庫の壁に飾られた肖像画を見上げる。
ライナルト帝――スヴェンとヘルムフリートにとっては祖父にあたる先々代皇帝の肖像画だった。
温和な面持ちでありながら同時に威厳も感じさせる容貌は、どこかヘルムフリートに通じる面影がある。
名君と名高い方であり、彼の遺した功績は今もこの国の繁栄の礎となっている。
政治の場に横行していた不正を正し、優れた人材は身分問わずに登用した。
貴族の既得権益を損ねないように配慮しながらも、富が広く循環する仕組みを整え、商業の発展にも力を入れた。
賢君と讃えられる反面、後継者には恵まれなかったと皮肉を交えて語る人が多い。
先帝にしろ、現皇帝にしろ、偉大なる父には遠く及ばない。
先帝はまだ政治的には何とか父が築いたものを保って治世を終えたが、現皇帝に至っては酒色に溺れて傾けかけている。
ライナルト帝の皇后は一人のみ。政治的な理由で迎えた妻ではあったが、夫婦仲は左程悪くはなかったらしい。
皇后が亡くなった時ライナルト帝には既に二人の皇子がおり、皇太子も定まっていた。
些か資質を疑問視する声もあったが、跡継ぎを新たにもうける必要はなく、ライナルトは後添えを迎えなかった。
人となりを知る人は、実に思慮深く穏やかで温和な方だったと口を揃える。
ただ一度だけ、当時皇太子だった先帝を殺しかねない程に激昂した事があった、と伝えられているが理由は定かではない。
生涯側室を持つ事もなく、晩年は政治の場から退いてこのギーツェンで静養しながら過ごす事が多かったという。
先々帝は、この城で何を想って一人過ごしたのだろう。
そして、何故この城を少年だったスヴェンに遺したのだろう……。
このギーツェンの城にも、枯れ谷という土地にも、人々が知らない『何か』がある気がしてならない。
けれども、その『何か』に至る道は厳しく閉ざされているのだ。
肖像画を見上げながら物思いに耽っていると、フィーネがウルリーケを呼びながら書庫へとやってくる。
何でも帝都からの来訪者……皇宮からの使者がやってきたらしい。
冬の気配がちらつく時期に、既に気温の低下が著しい為に進むには厳しい荒れ野をわざわざ。
嫌な予感を感じて、思わず顔を顰めてしまうウルリーケ。
しかし、知らぬ顔をするわけにはいかない。手にしていた本を丁寧に書棚に戻すと、出迎えの為にウルリーケは書庫を後にした。
暫しの後。
ギーツェン城の応接間には、城主と妻、そして使者だという男達の姿があった。
寒い荒地をご苦労とスヴェンは呟いたが、労う言葉の内容とは裏腹に表情は険しい。
皇帝の使者だという男達は一応の礼をとってそこにはあるものの、自分達は皇帝の意を伝えるものだという尊大さが隠しきれていない。皇帝の『甥』と『寝取られ姫』を侮っている事も、隠そうとしているのか居ないのか、という様子である。
当然ながらウルリーケも、何とか穏やかな表情をと思っても気を抜くと顔が渋面になりそうになる。
スヴェンに用件を促され、男達はうやうやしく書面を取り出して読み上げる。
皇帝曰く『幻の花フィンストーゼを皇宮へと引き渡すように』と――。
あまりに唐突な内容に、スヴェンもウルリーケも驚愕を隠しきれなかった。
何故、皇帝がフィンストーゼの存在について知っているのか。
フィンストーゼについてはまだ重要な管理が必要な段階であり、外には情報を出さぬように気を付けていた筈だった。
情報を外に持ち出す不心得者が居るとは思いたくない。
ただ、情報の重みを気に留める事なく話題にしてしまった人間がいるのかもしれない。
しかし、今はもうそこを探ろうとしても仕方ない。
どういう経緯かはわからないが皇宮に存在が伝わってしまった事だけは確かだ。
今から誰が何処からと犯人捜しをしても仕方ない。既に皇帝も、今や皇后たる母も幻の花が現存すると知ってしまったのだ。
母が甘い声で皇帝に幻の花が欲しいとねだっている様が想像できる。
皇后のおねだりが無いとしても、フィンストーゼが希少な存在である事は間違いない。
同じく希少な種が集められた皇宮の『秘された庭』に在るべきだと主張されれば、反論するのは難しくなってしまう。
嫌だと叫びかけたのをウルリーケは必死で堪えた。
相手は皇帝の代理人と言える存在だ。それに逆らえば皇帝に対して叛意を抱いていると取られかねない。
それで罰を受けるのが自分だけならいい。だが、ここでウルリーケが異議を唱えれば咎はスヴェンにも及ぶ。
使者達は今すぐにでも渡せと言わんばかりの様子である。
スヴェンは明確に険しい眼差しを使者たちに向けると、大きな溜息と共に口を開いた。
「あれは、今数を増やしている最中だ。皇宮に移せるほどの状態ではない」
事実、その通りなのである。
生存していた株を株分けして、今は静かに数を増やしている途中なのである。
数がある程度安定しているならば苗を移動する事もできるだろうが、今は現存するものを守り増やしていくしか出来ない。
それに、とウルリーケが心に思っていると、それを代弁するようにスヴェンは鋭い声音で続けた。
「冬を目前にしたこの寒さの中を無理に移動させて見ろ。間違いなく今度こそ絶滅するぞ」
またしてもその通りである。
厳しい冬がもう目前であり、既に荒野を吹きすさぶ風は身を切るような冷たさである。
不安定なまま荒野の冷たい風に晒されれば、間違いなく幻の花は帝都に辿り着く前に死ぬ。その中を帝都から辺境に来ざるを得なかった使者の苦労を察しはするが、伝えられた内容はそのまま受け入れるわけにはいかない。
如何に命令であれ、せっかく現存していた種を今度こそ絶やす真似はしたくない。
ウルリーケの目の前で、スヴェンと使者の攻防は続いている。
「皇帝のご命令を拒否されると……?」
「そうは言っていない。だが、今の状態で命令通りにしたとして、恐らく陛下の元に渡る前にフィンストーゼは死ぬだろうな」
その場合責任を取らされるのは誰だろうな……と肩を竦めながらスヴェンが独白のように呟くと、使者たちの顔がやや引き攣る。
大公であるスヴェンがきちんと生きた状態の株を送り出したが、皇帝のもとに届いた時には既に死んでいた。
スヴェンがそう主張したとして、そうなれば道中で何かあったとされて処分を受けるのは使者達である可能性が高い。
如何にと出生に曰くがあろうと、公の場から遠ざかっていようと、スヴェンは皇帝の血族なのだ。その発言は当然ながら使者のものより重い。
咄嗟に返す言葉を失った使者に、スヴェンは殊更笑みを作って見せながら告げる。
「皇帝陛下には、確かにお届けする為の然るべき手段が見つかるまでお待ちいただくよう、進言したほうが良いのでは?」
「……それが詭弁でない事を願うばかりですな!」
使者が勢いよく立ち上がると、スヴェンは大仰な仕草と共にフェリクスへと「客人がお帰りだ」と告げる。それを聞いて使者達の顔に戸惑いが浮かぶ。
「現在我が城は取り込み中でな。慌ただしくて碌なもてなしもできない。早々に引き取られるが良かろう」
ヴィルヘルミーネ皇后に似ているという美貌が嫣然と微笑んだかと思えば、朗らかなまでの声音で告げる。
その言うところを訳すると『お前らを泊めてやる気などさらさらない。さっさと帰れ』である。
恐らく一夜の滞在は許されると思っていたのだろう。使者達は顔を見合わせている。
しかし、その動揺した様子を見てもスヴェンの笑みは全く揺らがない。そして言葉を翻す様子もない。
スヴェンはそのまま事の成り行きに狼狽しているウルリーケを伴って、悠然と応接間を後にした。
「スヴェン様……」
「面倒な事になったな……」
使者達が皇宮に戻りどのように報告するかは分からないが、皇帝がフィンストーゼについて目をつけてしまった事だけは明らかだ。
スヴェンの意見を一度は聞き入れて季節を待つのか、それとも差し出すように重ねて命じてくるのか。
どうなったとしても、もう幻の花を隠しておけない。
皇宮に移したとして、管理できる者はいるのか。そもそも皇帝たちはフィンストーゼをどう扱うつもりなのか。
如何にすれば守る事が出来るのかを検討しなければ、今度こそ本当に花は世界から失われてしまう。
背筋に冷たいものが伝う。顔からはすっかり色というものが失せてしまっているのではなかろうか。
心に満ちる冷たい可能性に震えた瞬間、優しい手がウルリーケの頬に添えられる。
「……大丈夫だ。……少なくともあいつらが戻って皇帝の命令を仰ぐまでの時間は稼げた筈だ。その間に、一緒に考えよう」
ウルリーケを落ち着けるように紡がれる穏やかな声音に、思わずスヴェンを見上げる。
そこには優しい眼差しと共に、強い決意の光があった。
頬に触れる手に、そっと手を添える。
恐怖は消えない。何故か形容しがたい不安はある。けれども、今はこの温かな手の確かな感触を信じたい。
ウルリーケはそんな想いを込めて、一度頷いて見せた。
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