我が妻に誓う

 一週間がたって、村の人々には少しずつ明るい様子が見え始めた。

 地下茎を食せるものだけではなく、食べられる野草が幾つもウルリーケによって見いだされたからだ。

 腹が満たされた事に加えて、病や怪我に対する手段も増えた事も笑顔の理由だった。

 僅かずつではあったが、村に活気らしきものが蘇りつつあった。


 だが、ウルリーケは借りた空き家の簡素な机に向かい、何かを書き出した紙を前に頭を抱えて呻いていた。


 村人たちは久々に食糧の不安から解放されたことで、確かに今は明るい表情を浮かべている。

 しかし、ある事に気付いている村の長の視線はまだ厳しい。

 それも当然である。ウルリーケは『当面の問題』を凌いだだけにすぎないのだ。

 救荒植物にて当座の食糧事情が改善されたのはいい。美容液用の薬草にて来年の種麦と保存食料を得られたのも良かった。

 薬草の群生地をそのままの環境にて維持し管理していくのも、そこまでの負担とはならない。

 ただ、救荒植物はあくまで当座の改善だ。如何に勝手に生えてきてくれるとはいえ、全てをそれに頼ればいつかは取り尽くしてしまうだろう。

 薬草も貴婦人たちに一定の需要が見込めるとはいえ、村の必需を全て賄うには遠い。

 つまりは、根本的な改善にはならない。村の運営の基礎となる安定した収穫を継続して得られるようにするには、耕作地の改善しかない。

 庭園の土を改善するのとは規模が違う。そう大きくないとはいえ、村単位を支える広さの農耕地が相手である。

 それに、この荒れ地に適した種を栽培できるようにしなければ、災害一つで状況は元に戻ってしまうだろう。

 群生していた薬草を調合して流通させるにしろ、農耕地の土を改善して収穫を増やすにしろ、荒れ地に強い種苗を作り出すにしろ。

 治水や灌漑の技術も必要になる。それについてウルリーケは実用に耐えうる知識を持たない。

 全てを合わせると、どうしても思っていた以上に計画は大規模なものとなってしまうのである。

 このままでは、一時の夢を見せただけで終わってしまう。

 これ以上は、ウルリーケの知識と裁量だけでは無理だ。

 これ以上をしたいというなら、それは……。


「随分と難しい顔をしているな」

「……スヴェン様……!?」


 唐突に背後に聞こえた声に、ウルリーケは飛び上がりかけた。

 あまりに集中しすぎていて、小屋に誰かが入って来た事に気付けなかった。

 不注意すぎると後悔したものの、続いてそれがここ数日聞けなかった声である事に驚愕する。

 弾かれたように振りむいた先、優しい苦笑いを浮かべているのは確かにウルリーケの夫である人だ。

 少しの間見なかっただけで、夕陽を弾いて輝く銀色を見た途端思わず目頭が熱くなる。

 それを必死で耐えながら、ウルリーケは問いかける。


「スヴェン様までお出ましに……? 一度報告の為に戻ろうと思ってはおりましたが……」

「交渉が全部まとまったからな。もう少し早く来るつもりだったが」


 つい今しがた来たばかりらしい。

 見れば随分と慌てて出て来た様子である。

 衣装は少し乱れているし、額には汗が滲んている。息も少しばかり荒い。

 それほど急ぐ何かがあったのだろうかと怪訝に思うウルリーケは口を開きかけた。

 しかし、それより前にスヴェンがウルリーケの手を引いて歩き出す。

 スヴェンの来訪はかなりの騒ぎとなっていたようだ。村人たちは皆驚愕の表情を浮かべて集まっている。

 騒めく一同を落ち着かせようとしながら、村長が一歩こちらへと進み出た。しかし、その表情には警戒の色のほうが先に立つ。


「……ご領主さまにまで足を運んでいただけるとは夢にも思いませんでした」

「ウルリーケが世話になった。……言う事に従ってくれていた事に礼を言う」

「いえ。……当面の助けを頂いた事は事実でございます」


 壮年の男は領主に対して礼を取りながら答える。

 態度こそは幾分ウルリーケが村を訪れた時よりは険しさが消えている気がする。

 ウルリーケが力を尽くしたことについて触れた時も、言葉の棘は感じられなかった。恐らくその点については本心で認めてくれているのだろう。

 けれども、完全に心を開いてくれたわけではないことは、彼の纏う固い気配から察せられる。

 スヴェンは村長を、そして一度村人全員へと視線を巡らせてから、再び口を開いた。


「今後についてだが……」

「お妃様は色々と改善案を考えておられるようでしたが……」


 スヴェンの言葉に村長は目を僅かに伏せながら言葉を濁す。

 ウルリーケがあれこれ尋ねて居る事から、恐らく彼はウルリーケが何を今後の改善案と考えているかを察しているだろう。

 しかし、それが何故に叶わぬ夢であるのかにも当然気づいている。

 ウルリーケの案が机上の空論に過ぎない事を、知っている。

 思わず唇を噛みしめてうつむきかけた時だった。


「ウルリーケが提案する改善案については、資金の心配はしなくていい。全て俺が負担する」


 その場にいる全ての人々の耳に、スヴェンの凛然とした揺るぎない響きの言葉が響き渡ったのは。

 思わず目を見開いてスヴェンを見つめるウルリーケ。村長も、村人たちも皆一様に驚愕の眼差しを領主へ向けている。

 スヴェンが予算として提示した金額は、計画を進めるのに充分なものだった。

 しかし、である。

 如何にヴィルヘルミーネ皇后の実家縁の遺産があるとはいえ、大公として年金が与えられているとして。

 それでも、それだけの規模の資金を投入とするとなると容易な事ではない。

 一体その資金をどこから、と問いを宿した眼差しを向けたウルリーケを見つめ返しながら、スヴェンは笑った。


「東翼の小ギャラリーの彫刻と絵画を売った。当座の資金としては充分なはずだ」

「まさかギャラリーにあった美術品を、皆……お売りになられたのですか……!?」


 スヴェンの居住区域である東翼にはギャラリーが幾つかあるが、その中でも小ギャラリーと呼ばれる場所がある。そこにはとある名人による連作の絵画と彫刻が並んでおり、彼の名人の作品がこのように一同に会しているのを見るなんて、とウルリーケは驚いたものだ。

 かなりの品と思っていたが、そこまでの物だったのかと絶句してしまうウルリーケ。

 しかし、それを手放してしまった事に対する驚きは更に大きい。

 今、スヴェンはそれを売りに出したと言ったのか。


 どうして。

 あれほど、美術品や宝飾品を大事に集め、飾っていた人が。それ以外を拒絶し、価値がないと言っていた人が。

 何のために、誰の為に。


「かなりいいお値段で売れましたよ」

「あの爺様、競売で負けて相当地団駄踏んでいたと聞いたからな。笑えるほど勢いよく飛びついてきたぞ」


 フェリクスがスヴェンと軽口を言い合う様子を、ウルリーケは呆然として見つめるしか出来ない。そのウルリーケの様子を見たフィーネが二人に釘をさすように声をかけ、スヴェンはウルリーケへと語りかける。


「設備を整えるにしても、必要な品や種苗を揃えるにしても。……金は必要だろう?」


 多分、皇帝は申請しようと無視するだろうからと呟くスヴェン。

 ろくな税収も見込めない土地とされているのだ。確かに、国からの支援は期待できない。

 なら、何処から、誰が出す? 答えは彼が先程告げた。

 戸惑いが未だ強いウルリーケの菫の眼差しが自分に注がれたままであると気付いたスヴェンは、苦笑しながらウルリーケの手を握る手に力を軽く込める。


「変っていくのを見るのも悪くない、と言っただろう? それに……」


 ウルリーケの手を取りながら、それを支えにするように。

 一度彼女の手を推し頂くような仕草をした後、スヴェンは村の人々に向き直り告げる。


「形ばかりとはいえ、俺はこの土地の領主だ。……だというのに、不干渉と名目をつけて放置してきた責任を、今果たす」


 その場の誰もが、清冽な眼差しに、力強い言葉の響きに飲まれた。

 遠い壁の向こうに会った筈の領主という幻のようだった存在が、今現実の存在としてそこに居る。

 そして今までを悔いて、この土地の為に多くを尽くそうとしてくれている。

 この荒れ野に生きる人々に、未来を開こうとしている。

 それはあまりに美しくて、俄かには信じがたい夢物語のようだった。


「今まで我らを省みる事のなかった御方の言葉を、信じろと仰いますか……」


 我に返った村長が、厳しい眼差しをスヴェンに向ける。

 その言葉は真実だ。スヴェンを信じられないというのは間違いない彼らの心だ。

 けれども、彼の瞳にはひとつの迷いがある。

 見出されかけた光を信じたいという想いもまた、彼の中には存在しているのだろう。

 ウルリーケが示した可能性が、村長の心を確かに開きかけているのだと感じる。

 村長がスヴェンに向けるのは、心の内をひとつ残らず見通してやろうというような、一切の誤魔化しも綺麗ごとも許さないとでもいうような、抉るような眼差しだった。

 スヴェンは逃げる事なく、真っ向からそれを受けて立つ。

 目に見えぬ戦いが繰り広げられているのを感じた一同が、息を飲み経緯を見守る中。

 張り詰めたような沈黙を破ったのは、村の長だった。


「……その御心はけして変わらぬと誓って頂けますか?」

「我が妻、ウルリーケに誓う」


 スヴェンが握る手が、その瞬間に燃えるような熱を帯びたような気がした。

 スヴェンが、ウルリーケを妻と呼んでくれた。そして、彼女にかけて誓うと。

 手に感じる熱が、少しずつウルリーケの全身に伝わり行く。

 胸が苦しいほどに、熱く確かにウルリーケを満たしていく。

 言葉が紡げぬ中、空気がふと緩むのを感じた。そちらを向くと、村長の口元に微かな笑みが浮かんでいた。


「神に誓われるより確かですな。……わかりました、そのお言葉を信じさせていただきましょう」


 村人たちから歓声が湧きおこる。

 村の長が領主の助力を受け入れると決めたのなら、彼らもまた全面的に向けられる支援に協力する事が出来る。

 もう身を潜めるようにして居る必要はない、大っぴらにウルリーケの言葉に従う事が出来ると喜ぶ声も聞こえた。

 スヴェンは村長へと改めて向き直ると告げた。


「治水と灌漑に強い技師とも何とか交渉が成立した。近く、こちらに向かうと言ってくれている。滞在できる場所を用意してやってくれるか?」

「承知致しました」


 村長の答えを聞いた後、今度はウルリーケへと視線を向けると首を緩く傾げながらスヴェンは言う。


「ウルリーケ、お前が書いていたあの計画書を持ってこい。一人で唸るより皆で考えたほうがいいだろう」

「……はい!」


 スヴェンの言葉に、弾かれたようにウルリーケは小屋へと駆けだした。喜びに咲く笑顔を浮かべながら走り行く勢いに驚きつつも、フィーネが後に続く。

 淑女としては眉を寄せられるだろう様子を見ても、残された者達の顔に浮かぶのは優しい笑みだった。

 村長は一度空を仰ぎ、そして視線を領主へと戻して呟いた。


「お妃様は、この荒れ野に新しい風を齎して下さったようです」

「……本当に、俺には過ぎた妻だ」


 去って行った背を見送りながら男達は呟いた。

 二人が口にした言葉には、荒れ野に生きるものとして、そして新しき節目を迎えた者同志としての、万感の想いが込められていた――。

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