彼女のこころ
「……フィーネには暫く頭が上がらないな……」
「……怒らせたくないな、と思いました……」
二人は現在、東翼のスヴェンの居間にて、暖炉の前に二人並んで座っている。
あの後、駆け付けたフィーネとフェリクスは二人が濡れ鼠の大変な状態である事に驚いていた。
カンカンに怒っているフィーネは、あとはフェリクスにいいようにさせるからといって早々に城内へと戻された。そしてこってり絞られながら風呂に入らされ身体を温めた後、ウルリーケは有無を言わせぬ勢いでスヴェンの居間に放り込まれた。
フィーネは後片付けを二人分して参りますので! といって出ていって、残されたのは呆然とする二人だった。
ウルリーケは、当然であるがスヴェンの居住空間に入るのは初めてである。
やはり美術館にあってもおかしくない彫刻や絵画などの美術品に、なかなか出回らない貴重な宝飾品の数々が妍を競うように転じされている。
その威容には思わず圧倒されてしまうものがあるけれど、同時にやはり「かなしい」という想いがふわりと浮かぶ。この城に来た頃は分からなかったけれど、今は少しだけ何故かがわかりかけてきたかもしれない。
顔を合わせたくないから立ち入るなと言われた場所に、なし崩し的に入ってしまった事に対して緊張している。
しかも、顔を合わせるどころか、こうして肩の触れ合う距離にて並んで腰を下ろしている。
揃って入浴後。石鹸の香りを感じられる程の距離。
ウルリーケとスヴェンは、子供のように毛布を被せられて半ば包まるような形で暖炉前にある。幾つものクッションで整えられているから腰を下していても身体に負担は感じないが、鼓動は些か早く胸が苦しい気がする。
この毛布はいらないのではないかと思うほどに、顔が熱を帯びている。
二人とも黙ってしまえば、当然ではあるが沈黙が訪れる。
どうしようと思案しながら、ウルリーケが火の粉がくるくると舞う暖炉を言葉もなく見つめていると、不意にスヴェンが低く呟いた。
「……言いすぎて、悪かったと思っている」
ウルリーケは少しの困惑を込めてスヴェンの銀色の瞳を見上げる。
スヴェンは一つ息を吐くと、気まずそうな様子を隠しきれずに口を開く。
ウルリーケが自分に必要以上に怯え、様子を伺う様子で思い出してしまったのだという。
彼に形ばかり媚を売り、裏では嘲笑い続ける者達を。又は、腫物のように扱う臣下たちを。
苛立ちを自制出来なかった事を恥じている様子のスヴェンに、ウルリーケはふるふると頭を左右に振って告げる。
「本当の、事ですから」
言葉こそは自分に対する否定に通じていても、不思議とウルリーケの声音には否定の響きは無かった。
スヴェンが微かに目を見張ったのを見つめながら、ウルリーケは問いかける。
「私が気づいたかもしれないこと。聞いて頂いてもいいですか?」
どうして話そうと思ったのかは自分でもわからない。
けれど、今のこの方なら聞いてくれる、そんな気がしたのだ。
そして、話す事により本当の自分の心が見えてくる気がした。
静かに頷きが返ってきたことに安堵した表情を見せながら、ウルリーケは言葉を紡ぎ始める。
「……私は、お母様の言う通りにするのが、本当は嫌だった、みたいです」
母の言う通りにしか動けない人形だと言われて、心の底から湧き上がってきた言葉が『違う』だった。
その通りである自分を否定したいと心から思った。そうである事が、とても『嫌』だと思った。
それまで疑う事なく在った自分の姿を、自分は否定していた。
それまでの在り方を、自分は全力で拒絶していた。
ウルリーケは瞳を伏せて今に至るまでの過去に思いを馳せながら、独り言めいた口調で続ける。
それはスヴェンに聞かせる為であり、自分に聞かせる為でもあったかもしれない。
視線を暖炉にて踊る赤い炎に向けると、続きを紡ぐ。
「私は、確かに人形でした。母にとって、都合の良い」
母はとても器用に自分を使った、とウルリーケはぼんやりと思う。
時には可愛い愛娘といって抱き締めて。時には、私は悪くないのにこんな酷い目や悲しい目にあったのと自分を慰めさせる。
時には自分が褒められる為の装飾品として見せびらかす。娘が功績を挙げれば、それは即ち母の自慢の種となり、母の功績となる。
装飾品として価値は低くても構わない。それを見捨てぬ慈悲深い献身的な母と、寧ろ人々は称賛してくれる。娘の出来が悪ければ悪い程、愛情の深さを称えてくれる。恐らく庭仕事を完全に禁止して取り上げなかったのはその為だ。
困った娘ですと嘆けば、それでもデリア様は頑張っていらっしゃいますわ、と言ってもらう事が出来るから。
そして……時には、憂さを晴らす為に叩き、足蹴にする。
母の意向から少しでも外れれば、待っていたのは容赦のない折檻だった。
曰く、少しでも分からせる為の『愛の鞭』だったそうだ。
「愛してる、あなたの為よといって母は私を殴りました。母の……あの人の愛情は、いつも条件つきでした。その時の、あの人の望む通りにしないと得られない」
母の望む通りに答え、望む通りに振舞い、望む通りに出来がよくも悪くもなる。
あの人が求めたのはそういう娘。自分の機嫌に合わせて思うように形を変える便利な存在。
「多分『私』じゃなくても良かったのです。自分を『称賛されるべき理想の母親』にしてくれる子供であれば、誰でも」
あの人が欲したのは、あくまで自分の為の存在。
それは別にウルリーケでなくても構わなかったし、もし他に兄弟姉妹がいて、それがより条件が良いものであればそちらを一途に愛しただろう。
ウルリーケはそこで言葉を一度途切れさせた。
スヴェンがどうしたと問うような眼差しを向けたのを感じながら、言葉を再開させるウルリーケの顔には哀しげな笑みが浮かぶ。
「でも、あの人は……私にとって価値観の絶対的指針であり、そして『世界』そのものでした」
父が亡くなってから、ウルリーケは禄に屋敷の外に出る事も許されなくなった。
交流も制限され、閉じた狭い世界で生きて来た。
その『世界』にて絶対だったのが、母だった。ウルリーケを否定できるのも、肯定できるのも、母だけだった。母の言葉が行動の指針であり、判断の価値基準だった。
時折、違う形の肯定を与えてくれようとした人は居た。けれど大概知らぬ間に消えてしまっていた。恐らくは……母に追い出されたのだろうと今ならば思う。
「……だから、愛されていると信じたかった。……自分が愛されていないという事実を認めたくなかった」
そこで一端頭を振る。
いや、愛されてはいたのだ。ただし、とても身勝手に、理不尽に。そして、とても歪な形で。そこにいた時には気付けなかった。だって、それが世界そのものだったから。
世界の理を疑うものがいないように、それが当たり前のものだと思って受け入れていた。
けれど、今ウルリーケはそこにいない。
あの結婚の騒動を経て『真実の愛』の元に切り捨てられ、かつての世界外に居る。
そして、スヴェンの言葉によってウルリーケがかつての世界に縛られ、自分で作りだしていた『世界』はひび割れた。
崩れていくそれらの破片の隙間に、ウルリーケは本当の自分を見出した。
本当は気付いていた、決定的な『事実』を。
「私は、母が嫌いでした」
父の生きていた頃から、母に愛人が居る事は気付いていた。
『真実の愛』とやらがないと生きてはいけない女だった。女である事を捨てられないひとだった。妻である事よりも、母である事よりも、自分の求める愛を追う事に必死だった。
何事も自分中心にしか考えられない女だった。全ての存在は……我が子でさえも、自分の人生を彩る為の道具でしかなかった。
自分が認められない世界は間違い、自分の価値観が世界の価値観。
全ての事実や出来事は彼女の中で都合よく書き換えられそれが彼女にとっての事実となる、どこまでも自分本位の女性。それが、ウルリーケの母であるデリアという人だった。
そんな母を、ウルリーケは心の底では否定していた。反発していたが、それは世界を否定する事と同義で表に出せなかった。
おそらく、恥ずかしいと嘆かれても庭いじりを続けたのは心の中に最後に残った反抗心だったのだ。一番大切なものだけは、絶対に奪われたくないというように。
「あの出来事を経て、そして離れてここにきて気づきました。あの人は、普通ではないのだと。私たち親子の形は、普通ではなかったと」
宮廷人達も、あまりの出来事に呆れかえってきた。中にはウルリーケに同情する声すら聞かれた。
当時は何で自分がそう思われるのかと不思議ですらあった。
でも、今は違う。離れて、客観的に振り返ってみて気づいたのだ。
ああ、私が普通だと思っていたものはとても歪で……全く、普通ではなかったのだと。
「母は、ひどい人でした。そして」
言いかけて、一度躊躇して。しかし、息を吸い込んだ後にウルリーケは続きを口にした。
「私も、卑怯でした」
ウルリーケは暖炉にてはぜる焔から視線をスヴェンに戻す。
驚いて微かに目を見張ったスヴェンを見つめながら、かつて言われた言葉を思い出す。
『行動の言い訳にするのは、母親の次は俺か!?』
スヴェンが会いたくないと言っているから言えない、のではない。
ただ単に、自分が嫌な風に思われるから会いたくないのを、スヴェンの言葉を言い訳にしただけだ。
自分がそうしたくない理由を、しなくていい理由を、人に求めてきた。
言われる事に従うままに、流されて受け入れるだけなら。後で何か嫌な事があっても、言い訳を自分以外に求められる。
それは、実はとても楽なのだ。
確かに、従う以外の選択肢はなかった。子供にとって親は生活を支え守ってくれる全てと言えるから。
けれど、疑う事もしなかったのは、それがけして不快だけではなかったからだ。
自分で考えるということに伴う責任を、見ない振りをしてきた。
自ら何か願いを口にする事が怖かった。
そんなものを、と笑われて傷つくかもしれない恐れから自分を守る事が願いに勝った。
誰かに悪く思われる事が、怖くて怖くて仕方なかった。
思いもよらぬ形で、ウルリーケを取り巻くそれまでの『世界』は消失した。
行動の理由に出来るものの消失は、酷く頼りなくもある。今までそれを元に行先を決めていた指針が消えてしまった状態だ。
でも、何故かそれと同時にひどく息がしやすい気がする。
心地よい風がふく草原に一人佇んでいるような感じを覚えている。
道は定まっていない。不安はある。決断に伴う責任がそのまま自分に返ってくること重みを感じる。
それでも、心が解き放たれた自由を感じる。ようやく、ウルリーケの道はウルリーケのものとなったのだと、少しずつ感じている。
旧い世界は崩れ、そして新しい世界を見出した。
ウルリーケの『世界』は、ウルリーケ自身のものとなった。
そして、ウルリーケは一度口を閉ざす。
スヴェンは何も言わなかった。ただ、その空気は以前のように鋭さは感じなかった。
ウルリーケが見詰めるさき、こちらを見つめ返してくれる銀の双眸には、全てを受け入れてくれる温かさがある。
今ならば、と思いウルリーケは彼女が抱いていた『もしかして』を口にした。
「……庭園に、こっそり手を入れて下さったのも。商人たちに花の苗を持ってくるように命じて下さったのも、スヴェン様、ですね?」
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