壁の向こうにあったもの

 外はまさしく目も開けていられない程の横殴りの雨に、ウルリーケの細い身体など吹き飛ばされてしまいそうな暴風だった。

 持ってきたランプなど一息に吹き消されてしまい、暗闇の中、転がる障害物に足を取られそうになりながらも必死に進む。

 稲光が時折周囲を照らすものの、轟音と共にすぐに周囲は闇に閉ざされてしまう。

 ショールも着ているものも、ウルリーケも、そのまま水浴びでもしたかという程に濡れ鼠だった。体温が奪われていくのを感じながらも、ウルリーケは何とか目指していた場所へと辿り着く。

 そして、呆然と立ち尽くしてしまう。


 人影があったのだ。


 遠目にそこに人影がある事に心臓が跳ねる。

 長身の人影は、それだけだったなら、もしかしてフェリクスかとも思っただろう。

 だが、近づくにつれて違うと分かる。

 空の明滅に合わせて途切れ途切れに見える銀色に、思わず両手で口を押さえて目を見開いてしまう。その人影は、外套すらもはや用を為さぬ程に全身ずぶぬれになりながら、手近にあったものを風に耐えうるようにと立てかけ重ね。風覆いを作ろうとしている。歯を食いしばりながら、襲い来る風雨にさらされながら、必死に花々を守ろうとしてくれている。

 そんな事がある筈がない。

 何で、ここに貴方がいるのか。


「………スヴェン様……!?」


 呆然とした菫の眼差しを向けながら叫んだウルリーケの声に、弾かれたように人影――スヴェンは振りむいた。

 ぎくりと、どこか罰悪そうに表情を強ばらせたのは一瞬の事だった。

 すぐに眉を寄せ、顔を顰めるとウルリーケへと怒鳴るように叫び返す。


「こんな天気に、何故外に……!」

「そ、それは私の台詞です! スヴェン様こそ、何故このような時に、ここに……!」


 叫ばれた問いには、問いの叫びが返る。

 ウルリーケは本当にわからない。

 もはや、激しい風雨が髪をどれほど煽ろうと、肌を濡らそうと全く気にならない。

 スヴェンがこの場にいて、何をしようとしているのかが気になって、それ以外の事はもうどうでもいいとすら思ってしまう。

 一際強い風が吹き、遠かった雷鳴が近くで聞こえる。

 部屋に戻れと叫ぶスヴェンに、ウルリーケは頷かずに真っ直ぐに彼を見つめる。

 その手は恐らく遮蔽物を積み上げた時に出来ただろう擦り傷が幾つも見える。

 何故、と呟いてしまう。だって、この方は花などお嫌いな筈なのに……。


「……何故……それを、守ろうと……」


 呻くように絞り出した声は風に攫われて消えてしまいそうな程か細いものだった。

 音として伝わったかどうかは分からない。

 けれど、スヴェンは気まずそうに視線をそらした。

 朧気に見える横顔が、何故か……どこか、不貞腐れた少年のように見えたのは、気のせいだろうか。

 スヴェンは、再び叫ぶ。


「……お前が! また、泣くだろうが……!」


 何処か自分を責めるような響きのあるその叫びに、ウルリーケは思わず目を見張った。

 気にしてくれていたのだろうか。

 あの日にウルリーケが涙を見せてしまった事を、まさか、ずっと気にして……?

 そんなはずが。

 だって、ウルリーケは出会ったその場で帰れと拒まれて。

 自分で自分の行動一つ決められない、人形で。

 何かがあるべき場所におさまろうとしているような、不思議な感覚がある。このところ感じていた疑問の答えが、そこにあるのかもしれない。

 スヴェンが、ウルリーケを泣かせぬように、心を砕いてくれたのだとしたら。

 彼が、ウルリーケを案じてくれていたというのなら。

 それなら……私が感じた『もしかして』は……。

 ウルリーケが、それを口にしかけた瞬間だった。

 一際激しい閃光が、二人を白く照らしたのだ。


「ウルリーケ! 伏せろ……!」


 何が起きたのか、一瞬分からなかった。

 気が付けば力強い腕に抱かれ、そのままその場から転がるように離れていたのだ。

 それと同時に耳をつんざくような激しい音と破砕音が響き渡る。

 雷撃が円柱状に巡らされていた高い壁の上にあった金属の飾りを直撃したのだと気付いたのは、脳内の揺れるような感覚に耐えながら薄く目を開いた後。

 雷が落ちた衝撃で、円柱の壁の一面は崩れ落ち瓦礫となり転がっている。

 そして、次いでウルリーケは信じられないと目を瞬いた。

 スヴェンが彼女を、身を挺して庇ってくれたのだと気付けるまで、かなりの時を要した。

 咄嗟にスヴェンがウルリーケを抱えて転がり避けてくれなければ、立ち位置的にウルリーケに瓦礫がぶつかっていたか、最悪の場合雷を受けていた可能性だってある。

 風雨は続いているが、次なる雷の危険はないと察したのかスヴェンは抱えたウルリーケを抱え起こす。

 ウルリーケが無事である事を見て安堵した様子のスヴェンは雨に濡れて張り付いた銀の髪をうっとおしそうに払いのけながらも、もう一度息を吐く。

 事態を理解出来た時、そしてスヴェンの行動を理解できた時、ウルリーケは思わず叫んでいた。


「御身に何かあったら、どうされるおつもりだったのですか……!」

「お前に何かあるより、よほどいい……!」


 スヴェンは皇帝の甥であり、ウルリーケよりも貴い立場にある人なのに。

 それなのにウルリーケを庇うなんて、もしそれでスヴェンの身に何かあったら、とウルリーケは続けて訴えようとした。

 けれども、それは被せるように叫ばれたスヴェンの言葉に封じられてしまう。

 言葉を完全に失い、思わず礼儀も忘れてスヴェンを凝視してしまうウルリーケ。

 スヴェンは口元を押さえて顔を逸らすが、白皙の頬に赤みがさしている気がする。気のせい、ではない気がする……。

 見つめる眼差しに少しばかり身の置き所のなさげな様子だったスヴェンは、瞳を伏せながら告げた。


「……話せないままでいるのは、御免だと思ったんだ……」


 ウルリーケの戸惑いは更に増すばかり。

 言葉が紡げない。

 しかし、それは以前のようにスヴェンが怖いからではない。

 何か形容できない感情がウルリーケの胸を見たしている。胸がいっぱいすぎて、何も言えない。

 嫌ではない。でも、どうしたらいいか分からない。

 何か伝えたい、それなのに。スヴェンが見つめてくれているのに、その眼差しがあつい、と思ってしまう。

 二人の間に沈黙が横たわる。風が吹きすさび、雨が地を打つ音だけがその場に響き渡り、暫しして。

 完全に雷の危険が去ったわけではなく、風雨はまだ続いている。

 まずは中に戻ろうと促すスヴェンに、ウルリーケは頷いた。


 しかし、スヴェンが歩き出したというのに、ウルリーケは何故か歩き出せなかった。


 立ち止まり振り向いたスヴェンが怪訝そうな視線を感じながら、ウルリーケはある方向を見て凍り付いたように立ち尽くしてしまった。

 眼差しの先には、崩れた円柱の壁があった。そして、その瓦礫の奥から何かが覗いている。

 凍り付いていたかと思えば、ウルリーケは突如として駆けだしていた。

 そして、もう嵐の事すら気にならぬ様子で、一心不乱にそれを具に調べ始める。

 そのあまりの勢いに一瞬呆気に取られて咄嗟に対応出来なかったスヴェンが何事と訝しげに歩み寄る。


 ウルリーケが調べていたものは……花だった。


 茎や葉は少しばかり色が褪せしおれかけていたものの、大輪の花を咲かせている。

 幾重にも重なる花弁は、基部が薄紅に色づき、端になるほど白に近づく妙なる色合いである。薄闇にぼんやりと幻想的に浮き上がるそれに、ウルリーケは信じられない、といった様子で呻いた。


「これは……」


 信じられない、けれど間違いないと思う。

 ウルリーケとて本当に実物を見たわけではない。伝えられてきた絵と特徴を知っているだけ。

 どうしたと言いたげに自分を見つめているスヴェンに、震える声でウルリーケは告げる。


「間違いないです……! これは、まだ生きているフィンストーゼです……!」


 雷によって暴かれた壁の向こうには、まさかの幻の花が現存していた。

 中へ至る扉の鍵は固く錆びついてしまい、恐らくかなりの年月手つかずになっていたのだろう。

 この場所は、日が当たるけれど土は日陰になり土の温度は上がりにくい。

 フィンストーゼにとっては良好な環境だったからこそ、か細いながらも何とか生き延びた。風で舞い落ちた木の葉などが栄養になったことも幸いしたのだろう。

 そしてフィンストーゼは根が無事でさえあれば……!

 雨に濡れて揺れる花を見ながら、感極まった様子でしゃがみ込み花を見つめるウルリーケとそれを見守り傍らに立つスヴェン。

 そんな二人に慌てた様子のフェリクスとフィーネが駆け寄って来る。

 双子に叱られながら、ウルリーケ達は今度こそ城内へと戻る事となった。


 暴風は数多のものに被害を出し、雷は秘密を封じていた壁を打ち砕いた。

 けれど、それ以上にその嵐は。

 彼と彼女の世界を閉ざしていた扉を開く事となったのである――。

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