彼のこころ

「……ああ」


 最初はフィーネがフェリクスに頼んだのか、と思った。

 けれども、気が付けばウルリーケがスヴェンと顔を合わせるのは、決まって庭園へ続くホールへの道だった。

 それに、この辺境を巡る商人が、城に顔を出す時に都合よく花の苗を持っている事は、一度ならば偶然と出来る。でも、それが二度も三度も続いたならば。そこに誰かの意思を感じずには居られない。この城で商人たちに、調達がけして楽ではない園芸用の花苗を持参するよう命じられる人など、一人しかいない。

 問いかけに頷いて短く肯定したスヴェンは、静かに語り始めた。


「泣かせたままなのが気になって、こっそり庭園に居る処を覗きにいった」


 全然気づかなかった、とウルリーケは思わず目を瞬く。

 フィーネは気付いていたようだがな、と苦笑しつつ、スヴェンは続ける。


「……楽しそうに笑っているのを見た。……俺にはけして見せてないだろうなという、笑顔だった」


 深窓の令嬢と呼ぶには相応しくない質素な衣服に、手も顔も泥だらけになりながらも、ウルリーケは笑っていた。

 この城に来た時の彼女からは想像もできない、楽しげな笑みだったという。

 生きていた若い芽や花の苗を慈しむように触れる様子を見て、スヴェンは何時しか目が離せなくなったのだという。


「美しいな、と思った。……それが、自分に向けられないとしても……すぐに移ろうものだとしても」


 その言葉に、ウルリーケの表情に小さな疑問の色が生じる。

 確かに、フィーネもそう言っていた。けれど、何故移ろうものを嫌うのだろうか、と……。

 スヴェンは、ウルリーケの内に生じた疑問に気付いたようだった。

 一度何かを躊躇うように、暫し苦悩するような表情を見せたものの、やがて意を定めた様子だった。

 首を僅かに傾げると、ウルリーケへと問いかける。


「俺の母については、お前も知っているのだろう?」

「……はい」


 ウルリーケは一瞬置いて頷いた。

 ここで誤魔化しても仕方ない。あまりに有名過ぎる話だからだ。

 それに、スヴェンに対して嘘はつきたくない。

 スヴェンの母もまた、ヘルムフリートの母のパウラと並ぶ悲しい女性なのである。


 先帝の皇后でありスヴェンの母である女性の名は、ヴィルヘルミーネと言った。

 大層美しく教養もある名家の令嬢であり、降るほど縁談があったそうだが、彼女は想う人がいると頑なに首を振らなかった。

 やがてヴィルヘルミーネは子を身籠った事が明らかになり、その子の父であり、彼女の最も高貴な求婚者である当時皇太子だった先帝のもとに嫁いだ。

 皇太子と相愛であった故に縁談を断り続けたのか、と人々は最初こそ語っていたらしい。

 しかし、スヴェンが生まれてから暫くして、宮廷にてある噂がまことしやかに囁かれ始めた。


 ――ヴィルヘルミーネ皇后は義父であるライナルト帝と不義を働いておられた、と。

 スヴェン殿下はもしかしたら、ライナルト帝のお子ではあるまいかと……。


 皇子が母親似であり父の面影がないことをあげ、ヴィルヘルミーネとライナルト帝の密会を見たなどという無責任な噂が飛び交う有様だったという。

 そして、ライナルトが崩御した際、遺言にて余暇を過ごす為に所有していたギーツェン城をスヴェンに遺した事が更に疑惑に拍車をかける。

 先帝陛下はその噂を信じてしまった。

 夫婦の間は冷え切ってしまい、公の場でこそ二人並ぶ姿もあったが、会話らしい会話は無かった。少なくとも、人の見ているところでヴィルヘルミーネが夫に対して欠片でも笑みを見せる事は無かったらしい。

 先帝が即位した後、息子であるスヴェンではなく弟を後継者に指名した時、人々はやはりと頷いたという。

 死の床についていた皇后のもとへ、先帝は一度も足を運ぶ事は無かったという。

 そして、皇后としての葬儀をあげることもなかった。あくまで自身の妻として弔った。

 今も人々は水面下で囁き続けている――スヴェン殿下は、皇帝陛下にとって甥なのか、それとも『弟』なのかと。


「……人の心など不確かなものだ、いずれ必ず移ろう」


 先帝とヴィルヘルミーネ皇后然り。

 現皇帝と、パウラ妃然り。

 子を為す程に想いあっていたはずなのに、父と母の間は凍てつく程に冷たかった。

 母の心は父から移ろってしまったのだろうか。

 それとも、最初から偽っていた?

 無責任な噂を人々は楽しそうに囁き合い、下世話な憶測に興じる。それでいてスヴェンの前では見苦しい程にへりくだり、媚へつらう。

 何も言わなかった祖父も、母も。

 それを疑い、厭い、無かったことにしようとする父も。

 何もかもが厭わしいと感じた。

 人の心など容易く移ろい、脆く崩れ去る。見かけを取り繕っているだけで、そこに実などないのだ。

 他者の思惑に傷つけられ翻弄された少年は、何時しかそう思うようになった。


「それならば、変わらぬものだけ、傍にあればいいと思った」


 美術品や宝石のようにけして移ろう事なく姿を留めるものだけに囲まれるようになった。

 年齢を重ねぬ者達を腹心と頼むようになった。

 大公という名ばかりの称号と、領地といえぬ領地とて有難くすらあった。

 煩わしい移ろう者達ばかりの皇宮から遠ざかれる事に安堵すら覚えたとスヴェンは言う。

 権力も、地位も泡沫のようなものだ。彼にとっては忌まわしいとしか思えなかったから。


 閉ざして、遠ざかって。彼は彼の『世界』に閉じこもった。

 けれど、彼もまた心の底では気付いていた。

 変わらないものだけの世界が、どれだけ歪で哀しいものであるか。

 それがわかっていても、そこから飛び出す勇気が持てなかった。

 忘れられた存在として、朽ちていく事を望んでしまっていた。


 そこに『世界』から見捨てられた花嫁はやって来た。

 彼は花嫁を取り巻く事情を知っていた。しかし、世界を閉ざしたままで居たいが為に拒絶した。


 そんな彼の世界を揺り動かしたのが、ウルリーケの涙だったという。

 涙を流し、震えながら、それでも『違う』と訴えた彼女の姿が彼の世界に風穴と開けた。

 罪悪感と共に生じた『知りたい』という思いに従い、スヴェンは一歩踏み出した。


 ウルリーケもまた、形は違えど歪な世界に生きて来た。

 けれども、一歩踏み出した先に本当の世界を知った。

 取り巻く世界を、境遇故に仕方のない事だと思う事は出来る。

 けれど、それではそこから進めないのだと、二人はもう気付いている――。


 何時しか、ウルリーケとスヴェンは肩を預けあっていた。

 そこに拒絶はない。

 触れる優しい感触と温かさに、不思議と心が解れていくのを感じる。あるべき場所に還れたような懐かしさを感じる。切ない程に胸を何かが満たしていくのを感じる。

 それが何であるのか、少しだけ分かり始めている気がする。

 ウルリーケは確かな意思を込めて、一つの願いを口にする。


「フィンストーゼの、育種をさせて下さい」


 雷に暴かれた先にあった、失われた筈の幻の花。それを現に蘇らせてみたいとウルリーケは願う。

 移ろい儚く消える幻を追うような真似を、出会った日のスヴェンであれば馬鹿馬鹿しいと一蹴された気がする。

 でも、とウルリーケはスヴェンを見つめる。

 ウルリーケの菫の双眸が向いた先にあったのは、優しい光を宿す銀色の瞳だった。


「やってみろ。……必要なものがあるなら言え、用意する」


 ウルリーケは感謝を口にしながら、胸に満ちる温かさについて思う。

 これは、もしかしたら人々が『愛』と呼ぶものかもしれない。その、種火と成り得るものかもしれない。

 この温もりは、まだ愛とは呼べないもの。

 けれど。


 ウルリーケは思ってしまった――これが、いつかそうなる日がくれば良いと……。

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