一つ進み、見えて来たこと
持参した数少ない荷物の中から庭仕事用のワンピースを取り出して身に着ける。
フィーネには、とりあえず今用意できる範囲での道具を揃えてもらうようにお願いした。
この服を持ってきたはいいが、まさか役に立つ事になろうとは。
母がこの服を来たウルリーケを見て、侯爵家の娘が何てみすぼらしいと嘆いていたのを思い出す。けれど、絹のドレスを来て庭仕事など出来るわけがない。ウルリーケにとっては人生で一番楽しい時間の象徴とも言える服なのだ。
このワンピースと、父の形見の植物の冊子。
冊子には庭園に咲くような花々の他、農地にて栽培する作物、土の作り方等々、様々な知識が懐かしい父の文字で記されている。母から必死に隠し続けた、ウルリーケの宝物だ。
嫁入りの荷物に入れていたと知ったら母は怒っただろうが、あの人はそもそもウルリーケが何を持参したかなど見てはいない。
皇帝陛下とて同じである。体裁を取り繕う気も無かったらしい。ウルリーケに任せるとの言葉があっただけだ。
持参金としては、先帝の皇后陛下が「息子の妻になる女性に渡して欲しい」と願っていたという人形を下さった。とてもとても由緒正しいものである、ということだったが……。
豪華な嫁入り支度などされても、気後れするし、逆に困ったことになった気がするのでむしろ有難いとは思っている。
フィーネを通じてスヴェンに確認したが母君の形見であるというのに、人形などいらん、とにべもない答えで、結局ウルリーケの手元に置くことになった。
実際に見た庭園の様子を思い出しながら、作業の手順を脳裏にて組み立てていく。
まずは積もった枯葉などの撤去から。いっそ土に梳き込んでしまってもいいかもしれない。あとは土の状態も確かめて、生きているものをなるべく保護できるようにして……。
そうして、次にする事、する事で意図的に常に何か思考している状態にする。
そうでなければ、あの言葉が蘇ってしまうからだ。
『まるで、人形だな』
思わず、苦々しい表情になってしまったのが分かる。
確かに、非は自分にあったのかもしれない。
言われた通り、正々堂々と会いたい旨を伝えようとせず、あわよくばを狙っていたのは確かだから。
でも、と心の中で呟く。
何故、ああまで言われなければならなかったのという思いと。
あれは、言われるべくして言われたのだという思いの二つが存在して、胸が苦しい。
ウルリーケはチェストの上に置かれた人形を見る。
銀色の髪に、銀色の硝子の瞳。まるでスヴェンを女の子にでもしたような美しい人形だ。
聞いたところによれば、この人形の持ち主であるヴィルヘルミーネ皇后も同じような容貌だったそうだ。スヴェンは母親似であるらしい。
ゆっくりと慎重に人形を手に取ると、気を付けながら抱き締める。
ふんわりとした髪や服の感触の奥に、陶器の硬質な感触がある。
こんな風に、と願っていた。
抱き締めてもらえなかったわけではない。
言う通りに出来た時には、可愛いウルリーケといって抱き締めてくれた。
けれど、もしも出来なければ。もしくは、機嫌を損ねてしまったならば。
捕まれた髪が抜けそうで痛かった事を思い出す。頬に走る衝撃と、丸めた身体に感じる靴底の感触を、思い出す。
それと共に叫ばれた言葉も、鮮やかに蘇る。
お前は言っても分からない子だから。
悪い事をしたら痛いのだと教えるのが一番いいの。
お前の為なのよ、ウルリーケ。
自分が悪いのだと言い聞かせてきた。私が悪い子のまま大人にならないように教えてくれているのだと。
お母様の言う通りに。言いつけに従い、良い子に。そして大きくなったら良い大人になって、お母様に尽くしてさしあげたいと思っていた。
お母様が私に沢山の事をしてくれた分だけ、お返しするのと。
それが、普通なのだと思っていた。だって、そう教わってきたのだから。
その瞬間、ウルリーケの表情が痛みに耐えるように歪む。
何かが、皹入ったような、軋んだような音がした。
誰かが私の中で言う。本当はわかっているでしょう? と……。
ウルリーケは必死に、両手で頭を抑えると左右に激しく振った。裡に響く声を打ち消そうとするように。
けれど、声は消えてくれない。
――わかっているでしょう、それは普通じゃないって。
否定しても、否定しても、内側の誰かの声は消えてくれない。
打ち消そうとすると、鋭い銀色の光が脳裏に蘇る。
普通だった――普通じゃない。
全て私のためだ――全てあのひとのためだ。
天秤のように思考が揺れる。揺らすのは、スヴェンの眼差しと、あの言葉だ。
ウルリーケは今、母から遠く離れた場所に居る。守るように巡らされていた壁は、もう傍に居ない。世界の指針はもう遠い。
ウルリーケは哀しげに唇を噛みしめて、心の中にて大きく溜息を吐く。
スヴェンの言葉は、確かにウルリーケの世界に皹を入れたのだ。
壊れかけた世界が軋む音がする。揺れながら、何かが崩れようとしている。
誰かが私に言う。
本当は、もう気付いていたのでしょう?
わたしは、ほんとうは、あいされてなんか――。
そう考えかけて、ゆるゆると首を振る。
愛されてはいたのだ。ただきっと、その形は……。
腕の中の人形に注意を戻す。無意識のうちに随分力を込めてしまった気がする。
確認したところ、特に負担となった様子もないし、壊れたという様子も見られない。
ほっとした表情で、ウルリーケは人形をもとあった場所へと戻そうとして、ふと動きを止めた。
抱き締めた人形の、陶器の身体の中。何かが内側で乾いた音を立てたような……。
「……気のせい、よね」
ひとつ息を吐きながらウルリーケが言った調度その時、彼女を呼ぶ声が聞こえる。
そちらを見て返答すると、フィーネが室内へと足を踏み入れる。お道具が用意できましたと知らせに来てくれたらしい。
ゆるく首を左右に振り、心の中に残った何かを打ち消そうとしながら、フィーネと語りながら庭園へ向かった。
「……今日も庭か」
「……申し訳ありません」
それは、あの会話から一週間程してからの事。
庭園へと向かおうとしていたウルリーケは、庭園に通じる扉のあるホールの方角からフェリクスを伴い歩いてくるスヴェンと行き会った。
皇宮ほどではないとはいえ、それなりの広さがある城であるのに、何故こうも顔を会わせる事になってしまうのか。
こうして、何かの時にすれ違う事が増えている気がするのは気のせいだろうか。気が付けば頻繁に顔を見ているような。
会いたくない、というわけではないのだ。
けれど、凍てつく銀色をみかけると、つい萎縮してしまうのは否定できない。
叩きつけるように放たれた言の葉を思い出してしまって、反射的に謝ってしまう。
「別に、咎めているわけではない。好きにしろと言ったのは俺だ」
「……はい……」
もう一度謝罪を口にしそうになってしまったが、寸前で飲み込んだ。
しかし、スヴェンには伝わってしまったようである。明らかに眉が寄せられる。
また何か言われる、とウルリーケは身構えてしまうが、一瞬の沈黙はあったものの予想に反して何も言われる事はなかった。
盛大な溜息と共に、苦い表情のスヴェンはフィーネへと眼差しを向けながら口を開く。
「怪我でもされたら面倒だ。……重々注意しろ、フィーネ」
「御意」
何かあれば村から医者を呼ぶ手間が増える、と視線を逸らしながら独り言のように続けるスヴェン。
フィーネが恭しく礼をとりながら応えるのを聞くと、スヴェンはウルリーケを一瞥してその場から足早に去っていく。
ウルリーケは一瞬だけ首を傾げかけた。
すれ違った際に、フェリクスの服に土がついていたような気がするのだ。
しかし、もう後ろ姿は角を曲がり見えなくなったところである、確かめようはなかった。
気のせいだと思いつつ、ウルリーケは大きく息を吐き出す。
意に反して顔を合わせる事が増えて随分慣れてきているとは思うが、それでもやはり身体は緊張に固まってしまう。
会う度に一言二言声をかけて去っていくスヴェンに、未だウルリーケはまともに返答出来ていない。
もう一度息を吐いて一度頷くと、フィーネに声をかけて歩みを再開するのだった。
灰色と茶色に覆われた世界はウルリーケの日々の尽力が功を奏して、少しずつ荒廃した気配が消えつつあった。
枯葉に埋もれて死にかけていた若い芽は無事に保護され、支えをされ、肥料を与えられて活き活きとした様子を見せ始めている。煉瓦が敷かれた道と、花が植わっていた場所とが明確に目で見て分かるようになっている。
裡に生じる煩悶から目を背けるようにただひたすらに目の前の作業に打ち込み続ける事は、ウルリーケの心の安寧を保つと共に庭園を蘇らせつつあった。
そろそろ新しい苗があればと思いながら、その前に片づけたい大物があるから……と少し身構えてそちらを見たウルリーケ。
しかし。
「……ない……?」
出来れば除きたいと思っていた朽ちた低木が抜かれ、物陰に破片となって片づけられている。
中々に複雑に絡みあう根からして、これは抜くのが大変な大物だと思ってどうするかを思案していたものだった。
フィーネと二人でどうにか出来るだろうか、出来れば男手がと思っていたところであったが、これは一体。
それだけではない。
手強くて抜くのに難儀していた雑草が消えている。
最初は気のせいかと思ったが、確かに自分達以外の誰かの手がこの庭園には入っている痕跡が見られる。
フィーネがフェリクスに頼んでくれたのだろうか。そうだとしたらお礼を言わなければ。
そう思い、フィーネに問いかけてみたのだが……。
「ああ……多分。いえ、確かにフェリクスですね。……伝えておきます」
いつもははっきりとした受け答えをするフィーネが妙に歯切れが悪い。
触れてはいけない事だったのだろうか、とウルリーケは心配になる。
フィーネは話題を変えようとするように少しだけ強引に、新たな話題を持ち出す
。
「それより、ウルリーケ様! 出入りの商人が偶々花の苗を持ってきてくれましたので、こちらに!」
辺境だからあまり種類はないけれど……と申し訳なさげではあったものの、示された数々の花苗はウルリーケにとっては有難いものだった。
早速土を整えたところから植えていこうとはしゃぐウルリーケは気が付かなかった。
――フィーネがある方角へと眼差し向けながら、ひとつ息を吐きながら苦笑いを浮かべていた事に。
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