交錯するこころ

 人々に開かれた、数え切れぬほどの種類の花が咲き誇る『花の谷』という場所があった。

 フィンストーゼは、皇宮の秘された庭園と『花の谷』の二つの場所にあるとされていた。そして、その二つの場所でしか育たないという不思議な花だった。

 フィンストーゼは『花の谷』から観賞用として、また薬として世間に広められていた。

 花を愛する人々が集い、研究するものたちが集い。果ての地であったというのに交易と学術で賑わった、今はおとぎ話に名を留めるのみの場所。

 それが『花の谷』という場所だった。


 そういえば、何時からこの『枯れ谷』はそう呼ばれるようになったのだろう。

 少なくとも先々帝陛下がギーツェンに訪れていた頃には、そう呼ばれていたらしい。

 そこまで考えて、一度ウルリーケは頭を軽く左右に振る。

 例え『枯れ谷』と呼ばれるようになった時期が明らかになったとしても、ここが『花の谷』であったという保証はない。

 そもそも『花の谷』の存在自体がおとぎ話である。それが実在したというなら、心は確かにときめくけれど。

 ただ、フィンストーゼの存在だけは間違いない気がする。

 兎に角、フィンストーゼの事、まだ生きている庭園の事をスヴェンに伝えたい。


 ……と思ってみたものの、ウルリーケがスヴェンと顔を合わせたのは、実に一週間後の事だった。


 多分、フィーネに「スヴェン様にお会いしたい」と言えば取り次いでもらえたかもしれない。

 しかし、相手から初日に拒絶をされている。その心中を思えば、不快にさせてしまうのが明らかだ。

 故に、あの日のように顔を会わせられる機会を密かに狙っていた。

 そして、一週間後にして漸くその日がやってきたのだ。

 緊張に表情を強ばらせながらも、ウルリーケは必死に庭園で見つけた小さな変化や、失われた筈の幻の花について説明した。

 スヴェンが庭園に対する考えを改め、いやそこまでいかなくても、庭園に手を入れる事を気まぐれであっても考えてくれるかもしれない。

 そうなったら、手伝わせてもらいたい。

 ウルリーケは淡い期待を抱きながら、言葉を尽くした。

 けれど。


「……貴重な花があったのはわかった。だが、枯れているならもう価値はなかろう?」


 対するスヴェンの言葉は、実に素っ気ないものだった。冴え冴えとした銀の瞳には、欠片の興味が湧いた様子もない。

 ウルリーケは思わず力が抜けかけたけれど、何とかそれを見せないように取り繕う。

 フィーネの心配そうな眼差しを感じながら、尚も言葉を紡ごうとするけれど、どうにも当たり障りのないものにしかならない。

 遂には、スヴェンはウルリーケを遮るように鋭い言の葉を被せてきた。


「それで。そこまで必死に庭園について語る理由はなんだ?」


 心の中を見透かすように向けられる銀の眼差しに、ウルリーケは思わず言葉に詰まる。

 本音を言えば、まだ完全に死んでいない庭園をあのままにしておきたくない。

 自分の手で、あの場所を蘇らせる事ができたならと思う。

 けれども……。


「あれだけの庭園を、荒れたままにしておくのが勿体ない気がして……」


 何とか笑顔を作りたいが、恐れが勝りすぎて言葉も表情も曖昧なものになってしまっている気がする。

 違う、言いたいのはそういう事じゃない。求められている言葉も、そうじゃない。

 分かってはいる。けれど、どうしても裡に浮かぶものを口に出来ない。

 多分、花を嫌うというスヴェンに下らないと嘲笑されて終わってしまうのではないかと思うから。

 喉元まで出かかっている。それなのに、どうしても、言えない……。

 そんな時、ウルリーケの耳に、聞えよがしと言えるほどに盛大な溜息が聞こえた。


「素直に庭園に手を入れたいと言えばいいのは……?」


 何時の間にか俯いてしまっていたウルリーケは、弾かれたように顔を挙げてスヴェンを見る。

 彼の端整な顔には、ありありと呆れと……苛立ちの色が表れていた。

 怒りの雰囲気を察したなら、思わずウルリーケはびくついてしまう。

 どう見ても、気分を損ねてしまったようにしか見えない。恐れは紙に落ちたインクのように拡がっていく。

 おこられる、そんな言葉が胸に過った。

 色濃い呆れを帯びた声音で紡がれる言葉は、尚も続く。


「何故、自分がこうしたい、と望みを言うのではなく。俺に言わせる方向に持って行こうとする……?」


 糾弾の雰囲気を帯びてきた二人のやり取りに、控えているフィーネとフェリクスも思わず顔を見合わせる。

 しかし、苛立ちと、湧き上がる激しい怒りを必死に隠そうとしているスヴェンの様子に、口を挟む事が出来ていない。

 ウルリーケは、そんな二人の様子に気付く事すら出来ていない。

 蒼褪め震えながら、何とか返す言葉を見つけようと必死で、何も見えていない。

 そして、そんな彼女を見てスヴェンの瞳に更に苛立ちの色が濃くなっていく様も。


「そもそも、俺に用があるというならこそこそと様子を伺うのではなく、何故会いに来ない?」


 気付かれていたのだ、とウルリーケの鼓動が跳ねる。

 唯一顔を合わせる機会のある中央棟のホールや廊下で、ウルリーケがスヴェンと顔を合わせる機会を伺っていた事にスヴェンは気付いていたのだ。

 フィーネやフェリクスが伝えたのかもしれない。スヴェン自身が気付いたのかもしれない。それはもう分からないけれど、気付かれたくなかった事を知られてしまった事に元々蒼褪めていたウルリーケの顔色が更に失せる。

 無言で見つめてくる銀の双眸にどんどん暗い感情が増していくのをを感じながら、しどろもどろと言える口調で、ウルリーケは言葉を絞り出す。


「スヴェン様が、不快に思われるかもしれないと思って……。それに、この城において、許可を頂けない事をするわけには……」


 せめてもの申し開きをと思って、その言葉を口にした瞬間だった。

 何かを打ち付けるような激しい音がしたかと思えば、次いで陶器が割れる甲高い破砕音が響き渡った。

 あげかけた悲鳴を、ウルリーケは咄嗟に堪えた。

 驚愕する三人の視線の先で、怜悧な面に激情を宿したスヴェンが彼の脇にあった小さな円卓に拳を打ち付けていた。

 その衝撃で落ちたのだろう。床には飾られていた小さな白磁の花瓶が、転がりおちて破片と化している。

 白い顔で見つめるしか出来ないウルリーケに、スヴェンは叫んだ。


「行動の言い訳にするのは、母親の次は俺か!?」


 それを聞いて、ウルリーケは目を見開いて言葉を失った。

 母親、と今スヴェンは言った。

 あの日顔を合わせる事もなく別れる事となった母デリアを引き合いにだし、スヴェンは怒りを口にした。

 衝撃に脳裏が真っ白になり、何もかもが一瞬で消え失せる。


「許可を出すか出さないかは俺が決める事だ! お前が勝手に先回りして決めるな!」


 確かに、そうである。

 申し出を受け入れるか受け入れないか。言われた事を許可するかしないかを決めるのは、あくまで城の主であるスヴェンである。

 ウルリーケが決めることではない。確かに、その通り。

 その通りでは、あるけれど。

 声が自分から失われてしまったかのように、呻き声すら紡げない。唇はただ、震えるだけ。


「お前は、誰かの言葉を理由に出来なければ、自分の行動一つ、願い一つ決められないのか!?」


 スヴェンの舌鋒は欠片の容赦もなくウルリーケに向けられる。

 その激しさに心が竦んでしまう。

 言いたい事はある筈なのに、舌が鉛にでもなってしまったかのように重い。ただ目を見開いて唇をわななかせる事しかできない。

 冷たい汗が、一筋、二筋、背を伝っている。

 言い返してこないウルリーケを見て、更に眼差しを険しくしたスヴェンは、吐き捨てるように言う。


「命令がなければ動けない……。ただ言われる事を受け入れ、流されるだけ。まるで人形だな」


 人形。

 それを耳にした瞬間、ウルリーケの脳裏に優しく甘い口調の言葉が蘇る。


 かわいいウルリーケ。

 おまえは、お母様の大切な大切な、かわいいお人形さんのような娘。

 お母様は、世界で一番お前をわかっているし、お前を愛しているの。

 だから、ウルリーケ。

 おかあさまのいうことは、絶対に正しくいの。

 おかあさまのいうとおりにするのが、全部、お前の為なのよ……?


 それは、もはや数え切れぬほど繰り返された、ウルリーケという人間の軸に沁み切った、甘い甘い言葉。

 自分にとって毒となると本能でわかっていても、求める事をやめられなかったもの……。

 ひとつ、透明な雫が伝って落ちた。

 それを目にした瞬間、スヴェンの表情に初めて怒りや苛立ち以外の色が生じる。


「スヴェン様……!」

「殿下、それはあんまりです……!」


 薄く驚愕を滲ませる主に対して、漸く双子の使用人がそれぞれに抗議の意を表す。

 二人もまた、驚いた様子を隠しきれていなかった。

 三つの眼差しの先で、また一つ、一つ、雫が生じては伝い、落ちていく。


「わたしは」


 ウルリーケの陶器のように白い頬を伝い、濡れた筋を残して涙が静かに零れ落ちていく。

 呆然と目を見開き、何かを拒絶するように激しく首を振るウルリーケ。

 その動きに合わせて、淡く輝く金色の髪が激しく揺れて舞う。


「わたしは、違います……!」


 ウルリーケは、気が付いた時にはそう叫んでいた。

 何が違うと言いたかったのか、もう自分でも分からない。

 何を抗議したかったのか、何を訴えたかったのかも、裡の感情は激しく綯交ぜとなり、自分が自分で分からない。

 ただ、心の中にあった言葉は「いやだ」という三文字だけだった。

 涙に濡れた瞳で、ウルリーケは初めてスヴェンを強いこころを込めて見つめ返す。

 銀の大公から返る言葉はない。けれど、揺れた瞳から、彼が微かに狼狽えたのがわかった。

 何かを言いかけた様子だったが、それを飲み込んだようだ。

 一瞬だけ辛そうな表情を見せたけれど、気のせいかと思う程の刹那の事だった。


「庭園は好きにしろ。……必要なものがあればフィーネかフェリクスに言え。……あとは勝手にするがいい」


 踵を返し冷淡に言い放つと、スヴェンはフェリクスを伴ってその場から足早に立ち去っていく。

 残されたのは、一週間前と同じくウルリーケとフィーネの二人だけ。

 あの日のように言葉はない。フィーネも少しだけ困った様子なのが分かる。

 申し訳ないとも思う。巻き込んでしまった、要らぬ仕事を増やしてしまった、他にも、他にも……。

 けれど、少女に見える年上の女は、ただ黙ってハンカチを差し出してくれた。

 手に触れた柔らかな感触に、ウルリーケはただ「ありがとう」と声にならない呟きを返すしか出来なかった――。

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