忘れられた夢の形見

 足を踏み入れて、思わず呆然とする。

 確かに、そこは庭園『だった』場所としか言いようがなかった。


 アーチやフェンス、オブジェは朽ち果て野ざらしのまま。

 緩い曲線を描く錆びた細い鉄に、申し訳程度に絡みついている蔦は途中から宙に垂れて風に揺れている。

 整えられていたであろう煉瓦を敷いた小道は、枯葉に埋もれてどこまでが道なのか分からない。

下草は伸び放題な上に概ね枯れて乾いた姿を晒しており、木も同じく枯れているか、剪定されずに好き放題伸びているか。

 中央にぐるりと柱状に巡る壁には何やら扉があるけれど、錆びついた鉄の扉はどうにも開く事ができなさそうだ。

 硝子を張った温室と思われる場所もあるけれど、既に玻璃は粉々になって散らばり、光を受けて悲しく輝いている。

 石と錆びた金属と枯草、灰色と茶色で構成された寂しい景色にウルリーケは立ち尽くしてしまう。

 城内が美術品や瀟洒な装飾で飾られて美しくある分だけ、広い庭園の荒廃振りが際立ってしまう。

 何故、スヴェンはここだけをこのままにしているのだろう……。

 言葉を失ってしまっているウルリーケに、気遣うようにそっとフィーネが言葉をかける。


「先々帝……ライナルト陛下がご存命の頃にはきちんと手入れされていたようですが、その後は……」


 この城は、かつてライナルト帝が私的な静養の為に利用していた事で有名だ。

 先々帝は十五年前に亡くなり、その際にこの城を孫であるスヴェンに遺すとされた。

 その事がある憶測の種にもなってしまったのだが……。

 スヴェンがこの城の主となったのが、確か約十年前。

 もしや、十年前からまるで手つかずという事なのだろうかと疑問を抱きながらフィーネを見ると、彼女は苦笑して静かに頷いた。

 フィーネによると、この城にきたスヴェンは庭園の存在を知ると、閉じておけと命じてそれっきりだという。


「せっかくこれだけの庭園があるのに……」

「あの方は、花や植物といったものはお好きではないのです……」


 周囲に視線を巡らせながら嘆くウルリーケに、フィーネは哀しそうに答える。

 確かにそうなのだろう、とは思う。

 好きではない、という控えめな表現を選んではいるが、実際の処『嫌い』なのだろう。

 そうでなければ、積極的にこのまないとしてもここまで荒れた状態で放置しておくわけがない。

 フィーネは溜息をつきながら瞳を伏せて、更に続ける。


「あの方が傍におくのは、変わらないものだけなのです」


 ウルリーケは、戸惑いの表情を浮かべる。

 フィーネが何を言いたいのかを今一つ理解できず、問うような眼差しを向けたまま首を傾げてしまった。そんなウルリーケを見て苦笑しながら、フィーネはふと問いかけた。


「ウルリーケ様には、私が何歳に見えますか?」

「……私と、そう変わらないか、少ししたぐらいに見えるけれど……」


 ウルリーケは今年で十八歳である。

 フィーネはおそらく、同じぐらいの年齢。離れていたとしても二つ、三つといったところではないだろうか。そう考えながら答えを口にしたウルリーケを見て、フィーネはゆっくり首を左右に振る。


「……私もフェリクスも、恐らくウルリーケ様のお母上に近い年齢です」

「え……?」


 何の冗談かと思った。

 どう上に見積もっても十代半ばから後半という相手が、ウルリーケの母と同年代、など。

 ウルリーケが意気消沈しているから、笑わせようとしてくれたのだろうか。

 けれども、更に戸惑いながら見つめた菫の視線の先、フィーネの顔にはからかいの色は欠片もない。真っ直ぐにウルリーケを見つめ返す瞳には、真実を語る真摯な光のみがある。


「私たちは何の因果かわかりませんが、加齢が止まってしまいました。そして、生まれ育った村で疎まれて人買いに売られて……」


 フィーネとフェリクスは双子なのだという。

 男女の双子というだけで不吉と疎まれ、村の外れに親子で密やかに暮らしていた。

 しかし、年を重ねるごとにある事実が明らかになっていく。

 双子が二十の年を数えたあたりには、皆がそれを囁くようになる――あの二人が年を取らないと。

 あれは不吉どころか化け物だ、その声にもう抗う事が出来ずに、父母は二人を人買いに売った。

 怯えて肩を寄せながら、様々な人の手を転々として。

 最後に辿り着いたのは、この国の底にある『闇』だったという。


 ウルリーケは何も言えなかった。

 初めて見た時、少女と少年にも見えるけれど、どこか不思議だと感じたのは気のせいはなかったとぼんやりと思う。

 フィーネとフェリクスがどこに辿り着いたのか、どのような生き方をしてきたのか。

 少女の姿をした女も、それ以上は口にしなかった。

 ただ、ある出来事によりスヴェンと出会い、救われ、今のように傍に仕えるようになったのだという。

 スヴェンは、二人が年を取らないと言う事を大変気に入ったらしい。


「あの方のお側が許されるのは、宝石や美術品のように時を留め、姿を変えずにあるものだけなのです……」


 今は此処に居ない相手に思いを巡らすように哀しげに目を伏せると、フィーネは呟いた。

 そして、何故かと問われれば、フィーネは答えた――『移ろわないから』だ、と。

 花も植物も、そして人も。

 容易く姿を変え、移ろいゆく。だから彼はそれらを好まない。

 一つの時を留めるものだけが、彼の側に在る事を許される。


 ――移ろうものの勝手な思惑に翻弄されて、傷ついた少年の後ろ姿が過ぎったような気がした。


「あの方は、本当はお優しい方なのです。……ただ、ひどく人との関わりを恐れてしまっているのです‥…」


 ウルリーケも俯いて唇を噛む。

 聞いていたからだ、スヴェンの出生に纏わる噂を。

 知らないものはいない、醜聞とも言える先帝夫婦の不和の理由を……。

 スヴェンは恐らく、幼い頃からそれに苦しめられてきた。

 無責任に好き放題に、時として面白半分に囁く人々に傷つけられてきた。

 如何に優しい言葉を口にしていたとしても、人は……人の心は移ろうものとして、それらを疎んじ遠ざける程に。

 傷つき、枯れ、隔離されるように封じられた庭。

 この荒れ果てた庭は、もしかしたら彼の人の心を映しているのではないか――。

 ウルリーケはふと、そんな事を心に呟いた。


 フィーネが口を閉ざすと、二人の間には少しばかり重い沈黙が流れた。

 何か言わねばと思うけれど、何を紡いでよいかも分からず、ウルリーケは再び庭園を見て回るべく歩みを再開した。

 灰と茶だけがある世界を更に進み、ふとある事に気付く。

 最初は気のせいかとも思った、けれど違うのだ。

 視界の端を掠めたものの正体を確かめると、それは確かに翠の色だ。

 生きている植物が、荒廃した場所に確かに存在している。

 小さな緑の芽が枯葉に埋もれながらも伸びようとしている。それに、まだ完全に枯れてしまっていない木もある。

 まだ、息づく命がここにはある。

 この庭は、完全に死んでしまっているわけではない――!

 それを話すとフィーネは大変驚いていた。彼女は、もうこの庭は駄目だと思っていたらしい。まさか生きている植物があるとは思ってもなかったと目を瞬くフィーネの呟きを聞きながら、ウルリーケは更に詳しく庭園の様子を見ていく。

 放置された事で荒れたものもあるが、病虫害でやられたものもあるようだ。

 このあたりの花は病気で死んでしまっている……と状態を確認しては独り言を口にしながら見ていたウルリーケが、突然叫び声をあげた。

 フィーネが慌てて駆け付けてくるのを見て、まずは驚かせた事を詫びるウルリーケ。

 彼女の視線の先にあったのは、乾いて咲く事なく落ちた蕾だ。それを手に取り、怪訝そうな視線を背に感じながらも、無言のままにウルリーケは熱心に観察する。

 そして、落ちていた場所にある枯れた花の残骸を目にして、これは……と思わず呟いてしまう。

 けれども、思い当たった可能性に興奮が隠しきれない。

 父から聞かされた、園芸家が語りついできた言い伝えの一つにある花。皇宮の秘されし庭からも失われてしまった、旧き時の中に名だけ留めた花。

 葉の形と伸び方、株の増え方。散った花びらにかすかに残る色、結実したであろう実。

 落ちてしまった開かぬままの蕾が乾燥してほぼそのままの形で残存して居る事は奇跡だと裡にて呟くウルリーケ。

 枯れてしまっているけれど、これは、まさか……。


「フィンストーゼだわ……!」


 フィンストーゼは、過去には広く一般に知られた花であったという。

 咲き誇る姿が美しいばかりではなく、薬としても貴重な薬ともなり、その存在は大変に人々に重宝された。

 けれど、何時しか皇宮にある許された者のみ立ち入る事が出来る庭園と、ある伝承の場所にのみ生息するようになってしまったのだという。

 そして伝承の場所は消え、何時しか皇宮の庭からもフィンストーゼは姿を消した……。

 それ以上は知りようがない。何故なら、知識が皇帝の名のもとに厳しく封じられているからだ。

知識に触れるには国から許可を与えられ資格を有する者でなければならない。特に過去に通じる知識に触れるには、皇帝陛下の許可が絶対となる。

許可なく過去から続く知識、そして『霧の壁』の外について触れようとする事はこの国における絶対の禁忌である。

 何故、そのように過去に関わる知識が厳しく管理されているのかは分からない。

 ただ、ウルリーケにわかるのは、この花が恐らく消えてしまった幻の花であるということ。

 ウルリーケとて、王宮の庭に関わっていた父から密かに伝えられた情報しか知らない。証拠はあるのかと問われれば困るだろう。けれど、何故かこれが「そう」だという不思議な確信があった。

 そして、ここにくるまでの道のりで抱いたある疑問と目の前にある花が、一つの結びつきを見せる。

 荒れ野もまた灰色と土色の光景が拡がっていたが、そこに少ないものの緑は残っていた。それも、ある特徴のある植物の数々が。

 フィンストーゼが咲く事が出来る環境であること、そして道中で見かけた荒れ野に僅かばかり残る植物の植生。

 それらを考えて、もしかしてとウルリーケは呟いた。


「……まさか……この枯れ谷が、あの言い伝えにあった『花の谷』なの……?」

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