第3話 40歳過ぎてコンタクトレンズに挑戦した話3

 おじさんの若かりし頃、世間のサブカルに対するイメージはまだ悪かった。

 ゲーム機が広く普及し、スタジオジブリの作品やエヴァが大ヒットして社会現象となったとはいえ、所謂『オタク趣味』は褒められたものではなかったし、まだまだ人目を忍んで楽しむものだった。

 

 そんな青春時代を過ごしたおじさんは思った。

 「いやー、VRっていうんですか? あれをやってみようと思いまして」と素直に話していいものだろうか。VRというのはサブカルではないのか? 市民権を得ているのか? 「趣味はVRです」と面接で言っても許されるレベルか?

 しかも相手は看護師さんとはいえ、若い女性である。雰囲気も陽キャっぽい(偏見)。仕事なのだから気にしないだろうが、「これだからオタク君はさぁ」と内心思われたりしないか?

 おじさんは被害妄想が激しかったし、見栄もあった。


 

「あっ、その、マリンスポーツとか挑戦したいなと思いまして。スキューバとか気持ち良さそうじゃないですか。そろそろ行けなかった旅行も行きたいですし。沖縄とか」 


 一瞬の葛藤の末、私から出たのはそんな言葉だった。

 それっぽい理由は、最近見たYOUTUBERの話をパクっただけである。

 実際のところ、おじさんは暑いのが嫌いなので沖縄より北海道に行きたいし、軽い深海恐怖症なので20年以上海に入っていない。これから入る予定もない。


「そうなんですか。スキューバいいですよね。私も何回かやったことがあるんですよ。ただコンタクトでも目に海水が入ると駄目なので、インストラクターの方に確認してください。

 それでは、日常的な使用ではないんですね?」


「そうです。メガネに慣れてますし、コンタクトは目に負担をかけるって今聞きましたしね。趣味の時に、短期的に使っていこうかと」


「そうなると1dayタイプですけど、焦点距離は少し遠めが良いかもしれませんね」


「――焦点距離、ですか」


 いかにも分かっていないおじさんの反応に、看護師さんが説明してくれた。

 焦点距離とはざっくり言うと『一番よく見える距離』のことで、使用用途に合わせた方が良いのだという。コンタクトを付けて近くをよく見るなら焦点距離も近めに、遠くをよく見るなら焦点距離も遠めに。そういえばメガネ作る時もそんなことを聞かれた気がした。

 そしてスキューバを何度か体験している看護師さん曰く、焦点距離はちょっと遠めにした方が恐らく良い、とのことである。


「特に今回はレジャー用途の使用を予定されてるようですから、デスク仕事のような近距離より遠めに合わせた方が使いやすいと思います。その方が目も疲れにくいですし」


 しかし、ちょっと待って欲しい。

 それは確かに理にかなってそうだが、おじさんの本当の使用目的はVRなのである。VRの適切な焦点距離は知らないが、少なくともスキューバで数メートル先の魚を愛でるよりは近いだろう。

 おじさんは慌てた。


「あっ、そうなんですか。でもまあ、まだスキューバとか沖縄とか予定をちゃんと組んでるわけじゃないですし、その、出来たらいいかなーって軽い気持ちなんで。コロナの状況も分からないですし。だから普通で、普通で大丈夫ですよ。初めてのコンタクトですから、ある程度日常でも使いやすい方が良いというか、他の使い方も見つかるかもですし」


 しどろもどろである。



 そんな風に墓穴を掘って焦ったりはしたものの、とりあえずオーソドックスな感じのコンタクトを選ぶと、すぐさま実物が私の前に運ばれてきた。


「それでは、コンタクトを付ける練習をしましょう」


 ――大変だった。思ったよりもずっと大変だった。

 人生で一番大きく目を見開いた。

 指でぐあっと瞼を広げるのだが、あまりに入らないので力を籠めすぎ、目の周囲の骨が若干痛くなった。普段から目をもっと見開いて生活していればと後悔した。やっぱり眼球に直接レンズなんて頭おかしいと思った。まつ毛の存在がこんなに憎いとは想像できなかった。1dayタイプのコンタクトをいくつか無駄にし、看護師さんに申し訳なくなった。


 しかし、「慣れるまではみんなこんな感じですから、大丈夫ですよ」と励まされ、目を潤ませながら練習を繰り返し、なんとか私はコンタクトの装着技術を得たのだった。





 今、私の手元にはコンタクトレンズがある。

 クリニックから帰った数日後、私は家でコンタクトをつけた。それまでは目の周囲が痛かったのだ。

 2回失敗して3回目でようやく入ったが、ゴミも一緒に入ってしまい痛かったのでやり直した。

 数日経っただけで、おじさんの装着技術は低下していた。


 そしてようやく、私はストレスないVR体験をしたのだった。

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