歩道橋のかさぶた

柚木有生

歩道橋のかさぶた

 週末に、香織かおりはひとりで夜道を歩いていた。

 家から大通りに出る道の途中には、一台の自動販売機が置かれている。煌々と明かりを放ち、その可動音は静かな住宅街に響いていた。ここにしか売っていないメロンソーダを飲みながら、夜に散歩をするのが香織の日課だ。

 といっても時刻は午後二十二時を回っている。あまり長い時間は出歩けない。

 明日には始業式だ。また学校が始まると思うとどうにも気分が落ち込む。高校ももう最終学年だというのに、小中学校と変わらず楽しくないなんて、なんだか裏切られた気分だ。

 春の夜はもう温かい。優しく包むような空気は、香織の気分を少しだけ落ち着かせてくれる。家にいると後ろ向きな気分にのまれてしまうから、外に出て正解だった。

 大通りに出ると、ふと、歩道橋が目に映った。桜並木の先には横断歩道もある。どちらもわざわざ渡る必要はない。ないと思いながら、香織は階段を上がっていた。

 いつもより少し高い目線で、夜の街を眺めてみたかった。

「え、」

 思わず声が漏れる。歩道橋には、先客がいた。見覚えのある制服、灰っぽい金色の髪。

 同じクラスの女子生徒、笹川由紀ささがわゆきだ。

 道の端に設置された外灯の淡い白さが、彼女を桜の花びらが舞う夜に浮かび上がらせていた。

 なかに着ているのか、パーカーの白いフードが制服の襟から飛び出している。首まで伸びた髪の毛は、無造作に内側へふんわりと巻かれていた。

 彼女は橋の真ん中あたりに座り込み、手に持った筆のような長細いもので欄干に触れている。

「あ、」

 由紀が気づいた。香織は反射的に驚いて、のぼった階段を急いで下りる。走って、気づくと来た道とは違う夜道を歩いていた。

 額ににじむ汗を手で拭う。シャッターのおりた店舗が並ぶ商店街をぬけながら、香織はため息をついた。

「なんで逃げちゃったんだろ」

 思い当たる理由はいくつかある。急に人がいて驚いたから。寝間着同然の服装を恥ずかしがったから。しかもそれが同級生だったから。

 いや違う。どれも後付だ。本当は彼女だったから、香織は逃げていた。


「話かけてくれなくても大丈夫です。あと二年ですし」

 二年生の春に転校してきたばかりの由紀がした自己紹介はよく覚えている。あの言葉に、教室は静まり返っていたっけ。

 由紀は転校初日から話題の的だった。

 それもそうだ。明るめな髪色はだいたいの生徒と違う。肌は白く、小さい顔に大きい瞳。身長は香織と同じくらいと平均だけどすらっとしていて、廊下を歩けば自然と生徒は目を向けた。由紀は美人だった。

 この一年、香織は由紀と同じクラスだった。彼女の意思に反して、はじめ周りは由紀に声をかけた。無理に、ではないと思う。でもそれは善意というよりは、もっと邪悪な、なにか欲求のようなものを満たすためだったように香織の目には映った。

 香織には友達がいないけど、いらないと思って過ごしてきたわけではない。友達をつくりたいと考えていた時期もある。自分から出来上がったグループに飛び込んだことだってある。でも、続かなかった。友達が欲しいと思っても、友達になりたい人は学校にいないと気づいてしまったのだ。

 由紀に声をかけ、そのまわりで賑やかな笑い声をだす男女を見て、香織は自分の気づきが間違っていなかったと改めて思った。

 季節が巡るたび、由紀の環境は彼女の意思に関係なく変わっていった。冬になると、あれだけ熱心に声をかけていた男女は彼女の周りから姿を消した。むしろ、避けるようになっていた。彼らだけでなく、学年全体にそういう空気が流れていた。

 あれはどういう流行なのだろう、と香織には疑問でしかなかった。いまではもう、由紀に話しかける生徒はいない。それがあたりまえになっている。

 今年もまた季節は巡るけど、由紀の周囲はきっと変わらない。学校の空気は流れが決まっていて、逆向きになんてなったりしない。それこそ季節みたいに、初めから決められたとおりにしか進まない。

 これからどうなるのだろう、と観客気分で眺めていた香織は、だから歩道橋で彼女に遭遇して驚いた。

 由紀という存在は、香織にとって眺める対象でしかなかった。でもあの日、目が合って分かってしまった。

 自分は観客ではなく、由紀と同じ舞台に初めから立っている、ひとりの人間なのだということに。

 毎日がつまらない、たのしくない。あたりまえだ。香織がこれまでにしたのは、最初からできあがったグループに飛び込んで入れてもらおうとしただけ。自ら関係を築こうとしたわけではない。

 いつまでそうするのだろう。これからずっと?

 踏み出すきっかけを、香織はずっと探していた。


「これは……」

 翌日、香織は唖然としていた。昇降口に貼りだされたクラス表。香織と由紀の氏名が、同じ列に記されていたのだ。運命はあるのかもしれない、と俗っぽい言葉を言いたくもなる。言うような相手はいないけど。

 そこから一週間が経ち、香織は行動を起こそうかまだ決めあぐねていた。

「でもな……」

 いままで眺めていた自分が、いまさら彼女に関わろうとして良いのだろうか。

 教室の前方で、担任が板書をしている。黒板に書かれた白いチョークの文字を、香織はまだひとつもノートに書き写していない。手は動かさず、視線は左斜め前に見える由紀の後ろ姿を捉えていた。窓際に座る彼女の髪は、ガラスの向こうに広がる一面の淀んだ雲よりずっと綺麗で、だから香織はまだ迷っていた。

 彼女に話しかけようとした動機は、言ってしまえば自分の学校生活に彩りを与えたいからにすぎない。それは彼女の周りへ身勝手に集まったあの男女と、まったく同じではないのか。

 動かない自分を正当化することにすら嫌気がさしていると、チャイムが鳴った。授業が終わり、これから昼休みが始まる。それは香織にとって、開戦を告げる鐘の音でもあった。

 教室を出た由紀の歩く行き先は購買だった。香織もついでに昼食を買おうと並ぶ。すぐ横で、由紀が個数限定のメロンパンを買った。香織もならって残りふたつを買い占めた。それが原因か後ろに立つ女子生徒たちに不満顔でひそひそと話をされてしまったが、気にしてはいられない。

 香織は由紀を昼食に誘おうとしていた。だが、中庭のベンチでひとりパンを頬張る彼女になかなか話しかけられず、木陰でうだうだしていると、午後の授業の予鈴が鳴った。


 廊下に響いていた足音が小さくなっていく。校舎のなかで音の居場所が広がって、香織は放課後を実感した。

「ああ〜」

 誰もいない教室に残り、香織は自身のふがいなさを嘆いていた。動いたら動いたでこの体たらく。思っていたより自分は臆病な人間だったらしい。

「香織って変だよね」

「へっ!?」

 香織以外に誰もいなくなったはずの教室で、声をかけてきたのは由紀だった。いつの間にか戻ってきたらしい。

 椅子に座って机でうなだれていた香織は、正面に立つ予想外の人物に素っ頓狂な声をあげてしまった。

「あの、笹川さんですよね?」

「そうだけど」

 回っていない頭でなにを聞いているんだ自分は。

 香織は必死に思考を巡らせようとするが、いざ望んでいた状況に言葉がのどで止まってでてこない。

 そんな香織をどう捉えたのか、由紀は困ったように笑う。

「ごめん、話しかけない方が良かったかな」

「違う、違うの」

 香織は胸のまえで慌てて両手を振って否定する。

「突然で、その、驚いて」

 心が落ち着いてようやく話せるようになってきた。香織はまず、一番に伝えたいことを言葉にする。

「こないだ、逃げちゃってごめん」

 由紀は覚えていないのか首を傾けていたが、少しして思い出したらしい。

「あー、あれね。全然、むしろこっちこそ急に声かけちゃったし」

 あっけらかんとした表情で語る由紀に若干の拍子抜けをしながらも、香織は安堵する。

 よかった。不快な思いをさせてたわけじゃないんだ。

「そっか、だから今日ずっと見てたんだ」

「見てた?」

「うん。今日ずっと私のこと見てたでしょ?」

 バレてたのか。

「見てたというか、まあ、その、うん」

「購買までついてきて、私と同じパン買って」

「ああ言わないで! 改めて言われると……変な自覚はあるから!」

 指先を口元にあてて微笑む由紀。その表情は柔らかくて、自己紹介での印象が薄れていく。

 笹川由紀は、本当はこんなにも温かく笑うのか。そう思うと、香織はなんだか泣きたくなった。

 友だちになりたい人が誰もいない。いままで抱いていた、環境を拒絶する心が惨めに思えてくる。

「香織?」

「笹川さん、自分がした自己紹介の言葉覚えてる?」

 由紀の表情が、少しだけ強ばった。

 自分はなにを言おうとしてる?

 ここで止めよう。止めたほうが良い。口にしない言葉はないのと同じ。それなのに。


「もし無理して私に話しかけてるなら、そんなことしなくても大丈夫だよ」


 柔らかい笑顔の由紀を目の当たりにしてから、もう数時間が経過している。すっかり薄暗くなった教室で、香織はぼーっと時計を眺めていた。

 あのあと、由紀は「どういうこと?」と微笑んで、それから静かに教室を出ていった。

 まるで希望が絶たれたように、哀しい瞳だった。そんな気がした。

 わたしはなにをしているんだろう。

 変わりたかった、新しい学園生活が欲しかった、集うだけの男女と自分は違うと実感が欲しかった、楽しいと感じたかった、由紀と話してみたかった、笹川さんじゃなく由紀と呼びたかった、ただ、友達と過ごしたかった。それだけだったはずなのに。

 分かっている。由紀から話かけてくれたのが嬉しくて、同時に怖くなったのだ。

 友好を築いたとして、その先は?

 もう最終学年だ。香織はまだ進学か就職かさえも決められていない。そんな自分が、いまさら友達を作ってどうなるという。

  結局、香織は逃げたのだ。楽しくない生活は、これからもきっと香織の人生そのものになっていくのだろう。でも、仕方がない。楽しくいたいけれど、同じ、いやそれ以上に、変化を怖がる自分に気づいてしまったのだから。

「帰ろっかな」

 立って背筋をうんと伸ばす。香織は深く息を吐き、カバンを肩に提げてから教室の電気を消した。

 薄暗い廊下には、窓ガラスから差した月明かりが映っていた。この道を歩けば、違う場所にたどり着けるだろうか。逃避だ、と理解しながら香織は月明かりの道を歩きだす。この先にきっと違う世界があって、そこでの私は大勢の友達と笑い合いながら、誰かひとりの悲しみにはみんなで涙を流しているはずだ。

「バカみたい」

 自嘲した自分の笑い声は渇いていて、香織はもうどうでもよくなった。今日はこのまま家に帰らずに、どこか遠くまで行っちゃおうかな。そう思いながら、遠くだからと電車の時間を考えて、終電を意識して、頭の隅では今日から親はふたりとも出張だと覚えていて、明日からは自分も週末の連休だ、と香織は知っていた。知っていたから、香織はどこにも行けないのだと分かっていた。

 そんな自分を、好きになれるはずがない。

 そこからは、ぼーっと町を歩いていた。外は暗いけれど、まだ家に帰りたくもない。どうせひとりだし、帰宅が遅くても問題にならない。

 香織は気づくと、大通りをなぞって足を進めていた。

 目の前に、歩道橋が見える。由紀は今日も橋にいるのだろうか。なんて、考えても仕方がない。

 香織はそこからまた暫く歩き、補導されない時間帯にはしっかりと帰宅した。無性に音が恋しくて、リビングでテレビを付けっぱなしにしてソファに寝転んだ。天井を眺めながら、世界に放り出された自分、という物語を考えた。

 ばかばかしい。一蹴して目をつむり、今度は寝ようと努めてみたけど難しかった。なにをしても、頭から由紀のあの表情が離れない。

 ごめん。

 言葉にできない気持ちは、そこから眠りに落ちるまで、香織の胸のなかでずっと反芻し続けていた。


 週が明けて登校すると、教室の入り口に生徒指導の教師が立っていた。教師はその筋肉質な体躯にみあった声で、生徒の名前を呼ぶ。

「笹川由紀いるか」

 その名前に、まったく関係のない香織が声を出しそうになる。自分が嫌な汗をかいているのが分かる。どうして彼女を?

「はい」

 落ち着いた声で教室から出てきた由紀は、教師とと二、三言葉を交わすと、ともにどこかへ行ってしまった。

 その日はとくに由紀の噂を耳にした。

『笹川さん、昨日補導されたらしいよ』

 誰とも話していない香織でさえ何度も聞いたのだ。きっと由紀自身の耳にも届いているだろう。

 由紀から回されたプリントを、うしろの席の女子生徒が受け取った。女子生徒は隣の男子と笑みを浮かべている。

 ああ、やっぱり嫌いだ。

 噂が事実かどうか、香織は知らない。でも話に尾ひれがついて、由紀に悪い噂までもがついてまわるのは嫌だった。たしかに香織だって、教室で賑やかな男女が補導されたと話を聞いたらよからぬ想像をしてしまうかもしれない。

 でも香織は知っている。夜遅くに歩道橋の上にひとりでいる由紀を知っている。彼女が歩道橋でなにをしていたのかはわからない。もしかしたら褒められたことではないのかもしれない。でも、少なくとも誰かと一緒にいるわけではない、と香織は思いたかった。そして由紀もきっと、ひとりなのだと。


 数日が経っても、香織の気分は晴れなかった。それどころか、学校での不快感は怒りとなって増幅していた。潜めた声はやたらと耳障りだ。

 怒りの矛先は、香織自身、そして由紀にも向いていた。話しかけられないふがいなさはある。でも、由紀も香織を避けるようになっていたのだ。

 一度、廊下で向かい側から由紀が歩いてきたとき、合った視線を逸らされたのは決定的だった。

 香織はこの数日、夜の散歩を欠かさなかった。そして毎日、歩道橋へと出向いていた。

 さすがに補導されてすぐ出歩くことはないかと思ったが、その心配は的中した。一昨日は歩道橋の階段をのぼっていく姿、昨日は橋の上で背筋を伸ばす由紀の姿を目撃していた。

 いずれも後ろ姿だったから気づかれてはいないと思う。でも、気づいてほしかったとも思っていた。声をかけられれば、香織はしたかなく、といった形で心配を言葉にするだろう。

 また関わろうとするきっかけを、香織は求めていた。

 放課後になり、香織は一目散に教室を出た。用事はない。でも今日は、廊下に月明かりの道が浮かび上がるより早く帰りたかった。

 家に着いても漠然とした不安が胸に残っていた香織は、制服のまま家を出た。暗くなる前の、まだ陽が差す時間に散歩をするのは久しぶりだった。町の時間は穏やかに流れていた。もし香織が学校を苦手としていなければ、放課後の音の広がりもこれくらい心地よいものだったのかもしれない。

 夜には目立つ自動販売機も、夕方には景色の一部と化していた。財布は持ってこなかった。もし持ってても、メロンソーダを今日は買わない気がした。

 ふらつきながら気づくとまた、あの場所に足が向いていた。

 夕日に照らされた歩道橋の影が車道に伸びている。まだ明るい時間帯は、外灯も点いていない。古びた住宅街だからか、歩道橋を利用している人はあまり見かけたことがなかった。すぐ近くの小学校に通う子どもたちは、登下校で渡っているのだろうか。

 奥に伸びる並木通り。春には桜を撮ろうとする人が歩道橋からカメラを構えていた。いまはもう、桜は散ってしまった。色が変わり、ぽつぽつと裸木も並ぶ寂しい道になっている。

「あ、」

 橋の欄干から顔を出した由紀と目が合った。その視線が、今度は逸らされない。

「こっち来ない?」

 歩道の香織にも聞こえるような、由紀の大きい声。逆光で眩しさに目を細めながら、香織は逡巡した。その手を掴んだのは、階段を下りてきた由紀の細く白い手だった。

「こないだは私も逃げたから、これでおあいこ」

 由紀はそう微笑んで、香織の手を引く。

 彼女も制服姿のままだったから、香織と同じ。一緒に歩く歩道橋は、まるで学校からの帰り道みたいだ。

 香織が歩道橋の階段をあがるのは小さい頃以来だった。思えばあの時から、香織はひとりになろうとしていたのだ。

「さあ、座って」

 車道のちょうど真上あたりまで歩くと、由紀は腰をおろす。橋には人がふたり座れる面積ほどの、薄緑色の小さビニールシートが敷かれていた。その色は歩道橋によく似ていた。

 言われるがまま、香織もシートに座る。カバンも置いて、靴を履いた足だけは直接橋の上に置いた。

 以前にも見た光景どおりに由紀はいた。由紀の横にはパレットと絵の具があり、彼女は筆で欄干をなぞっている。筆のさきに付いた薄緑色が、剥がれた歩道橋の塗装を覆っていく。

「なにしてるの?」

「見たまんま、橋に色を戻してる」

 たしかにそのままだけど、そういう意味で聞いていない。香織の疑問を、由紀はきっと分かってあえて答えていないのだ。

「香織もやってみる?」

 目的も分からないまま奇妙な行動に付き合う理由が思い当たらない。だからこそ、香織は「やる」と言葉を返していた。

 由紀がスカートのポケットから取り出した、少しこぶりな筆。香織はパレットの薄緑をその先端に付け、欄干へ腕を伸ばす。塗装が剥がれ、剥き出しになった鉄骨は、ところどころ赤いさびがついていた。その赤さを隠すように、香織は筆を押し付けて横になぞる。何度も、何度も。色が薄くなったらまた絵の具を付けて色を塗った。隣で由紀も、同じ作業を繰り返している。

 気がつくと、景色は夕焼けのオレンジ色から日が沈み、藍色の夜へと移り変わっていた。

 いつの間にか点いていた外灯が、香織と由紀を夜に浮かび上がらせている。

「これ、犯罪だよね」

 薄々気づいていたことを香織はわざと確認する。

 由紀は、短くきるような息で笑った。

「だね。そっちも共犯だから」

 なんだ、由紀ってそんな顔もできるんだ。

 香織が思わず呆れたその表情は、ひとをバカにするようなもので、また由紀の新しい一面を知ってしまったらしい。

 なんだ、誰かと夜な夜な悪いことをしているって噂、あながち間違っていなかったんじゃない。

 それでも香織に暗い気持ちはなく、むしろ晴れやかな心持ちになっていた。その相手が自分だというだけで、こんなにも。

「なんでこんなこと、って聞かれると思ってた」

 夜空を見上げながら、由紀が声を出す。

「いや、ずっと思ってたよ。聞かなかっただけで」

 筆をパレットに戻し、香織は答える。指が薄緑色になっているのに気がついて、思わず胸の前で眺めた。

「思ってても聞かないタイプだ、香織は」

「バレちゃったかー」

 抑揚のない声を出し、香織は次に指を空へ向けてみた。なぜか隣で由紀も同じポーズをとっている。

 いまなら言えそうだ。

「こないだはごめん。変なこと言って」

 香織は指と、遠い空から目線を逸らさない。隣は見れない。だって、どんな顔をしているか見るのは怖かった。それでも顔が強引に横へずらされたのは、由紀が香織の両頬を手で掴み、ぐっ、と自分へと向かせたからだ。

「なにすんの」

 思わず目を細めた香織に、由紀はただ一言、

「うん、許した」と、微笑んだ。

 その表情に安心した香織は、自分にも謝ってと言った。

「何を?」

「学校で私を避けてたでしょ」

 ろくに会話をしたこともないのに、避けたもおかしいけれど。

「だってもし今の私に話しかけてくれたら、香織まで変な噂に巻き込んじゃうから」

 それは想像もしていなかった理由だ。自分を想ってくれる人がいたなんて、考えもしなかった。

「じゃあ、謝らなくていい」

「なによそれ」

 謝って、許してもらって、なにも変わらないようで、香織は自身の変化に胸が熱くなる。

 こんなことで、情けないな。

「香織も覚えてた自己紹介さ、本心といえば本心なんだ」

 由紀は腕を下に垂らしうつむいた。すぐに上げた顔はまた香織を向いたが、その視線はもっと、遠く離れた場所を見ているようだった。

「卒業まで短い期間なのに、わざわざ気の遣われる友好関係なんて嫌だったの。だから、近づいてきた人も無視した」

 由紀はまた筆を持って、絵の具をつける。目に見える塗装の剥がれた部分は、もうない。

「元々転校が多くてね、ずっとそうしてきたの。新しい場所で、人を突き放して、自分からひとりになっていく。そうして出来る私専用の孤独な空間は、とても居心地が良くて、ほんの少しだけ、寂しいんだ」

 淡く白い明かりのなかで、由紀の仄暗い表情は、哀しさを世界に訴えているみたいだった。

「だから私はずっとこうしてるの。なくなったものを補って、元に戻ったふりをして、どれも本当は元からそこには存在しないのに」

 由紀は反対の手で、やさしく上塗りした薄緑色をなぞる。乾いていないから、指先に色がうつっている。

 歩道橋、剥がれた塗装、薄緑色、元の鉄骨。

 由紀が伝えたいことは、香織には正確にはわからない。由紀も分かってもらうと語ってはいないはずだ。それに、もし簡単に分かったなんて言ったら、きっと彼女は香織をもうこの場所へ連れて来ることはないだろう。 

 それでも、伝わってくる感情がある。言えなくとも似ていると、口にしたい想いがある。忘れたくない出来事がある。失いたくない機会がある。

「初めから存在してないのなら、きっとまだなにも失ってないよ」

 香織も握り直した筆を、由紀へ向ける。

「それに由紀はここにいる。存在してるし、失ってない。だから補うんじゃなくて、いちから作ろうよ」

「いちから? ってちょっと」

 由紀の頬に、まるくついた絵の具のあと。

 香織が筆で押し付けたその薄緑は、由紀がここにいると伝えたかった、香織からの想いそのものだった。

「私もたぶん、由紀と似たようなこと考えてた。でもきっと、ひとりは楽しすぎるからさ。どこかで面倒な関係も欲しいんだよ」

「そんなまとめ方ありかな」

「ありあり」

 道具一式とカバンを持ったふたりは、階段を下りる。由紀の家は、香織の家とそう遠くはなかった。この歩道橋を選んだのも、帰りに寄り道をしたとき偶然見つけたからだと、由紀は教えてくれた。

「犯罪云々ってのも気にしなくて大丈夫。あれ、水溶性の絵の具だから」

 それは水で簡単に落ちる絵の具。香織へスマホを向けながら、由紀は微笑んだ。画面に映った明日の天気予報欄で、傘マークが揺れている。

 いじわるな笑顔。香織がこれからも、きっと見るであろう笑顔。

 香織は歩道橋を振り返る。外灯の淡く白い明かりに照らされたそこは幻想的で、本当はあの場所は、ずっと私が行きたかった、ここじゃない場所だったのかもしれない。そこでの新しい出会いが、香織のいまを彩ってくれたのかも。

 なんて、考えすぎかな。

 並木通りの新緑が、新しい香織を祝うように風に揺れている。

「そういえばこないだ私のこと、変って言ってなかった?」

 香織の問いかけに、由紀はあれね、と声をあげる。

「だって、他の子に睨まれてでもメロンパンを買い占める勇気、私にはないもの」

 どうやらあのときの行動は、まったくの無駄ではなかったらしい。

 おかしさと嬉しさで、香織は軽くスキップをしようと足を動かした。慣れていないからか、すぐにつまずいてよろけてしまう。

「なにやってんの」

 由紀が呆れたように笑う。

「またここ来ようね」

「いいよ。あ、でも次は違うとこにしよ。歩道橋なんてそこら中にあるでしょ」

 だね、と頷いてから、香織は空を向く。一面雲が張っているのか、星は見えない。

 ――そうだ。

「今度さ、夜の学校に残ってようよ」

「どうして?」

 首を傾げた由紀に、わたしははきはきと伝える。

「月あかりの道を歩けるからね」

「なにそれ」

 微笑む由紀を目の当たりして、香織は、明日が少しだけ待ち遠しく思えた。

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歩道橋のかさぶた 柚木有生 @yuki_noyuki

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