第三章
朱里は高校卒業まで、千葉県の鴨川で暮らしていた。
野菜農園を営む両親に、普通の娘以上に愛情を持って育てられ、何一つ不自由のない子供時代を送ることができた。それも、朱里が一人っ子であることが影響しているのかもしれない。ただ少なくとも、実家に住んでいた時のほとんどは、幸せ一杯だった記憶がある。
小中高と続く学生生活も、充実の一言だった。朱里の恵まれた容姿は、様々な好意を引き寄せる。外見が良いというだけで、人は優しくしてくれるのだ。
朱里が通っていた高校は、隣の南房総市にある共学の安岡高等学校だった。それなりの偏差値を誇る進学校であり、そこでも朱里は常に中心人物だった。いつだろうと周りに人がいて、大したことをしなくても、何かをする度に、皆は朱里を称賛した。困っていることがあれば、すぐさま誰かが手を貸してくれた。自分から立候補したわけでもないのに、ミス安岡高に選ばれたこともある。
男子からの告白も後を絶たなかった。高校の間は、彼氏ができたことはないが、それでも何度か試しにデートをしたことがあった。男達は、高校生のなけなしの小遣いを切り崩して、朱里に尽くそうとした。中には、アルバイトした金を全て使い込んでくれた者もいた。そのお陰でファッションも充実させることができ、朱里の容姿に磨きがかかった。そのため、さらに男が寄ってくるようになった。俗に言う、マタイの法則のような好循環が訪れていた。
教師からの告白も受けたことがある。さすがに了承もデートもしたことはないが、彼らの目は本気だった。本気で生徒である女子高生を狙っていたのだ。
朱里はその時期、自信に満ち溢れていた。全てが自分を中心に回っているような錯覚に陥っていた。だが、それはあながち間違った考えではないだろう。容姿が優れているだけで、皆が下僕のようにかしずいてくれるのだ。まるで、朱里が女王であるかのごとく。
だからと言って、朱里は傍若無人に振舞っていたわけではない。ある程度、慎みをもって、他の生徒と接していた。だからこそ、必要以上に敵を作ることがなかった。中には、朱里がモテる美少女だというだけの理由で、敵意を持つ女子もいたが、それは極少数で、朱里の相手ではなかった。何せ、こちらには味方が山ほどいるのだ。
今にして思えば、高校の時が、人生で最後の『人として』幸せだった時期だったのかもしれない。
人が絶頂から落ちる時は、大抵が何気ない出来事の時だ。あたかも快晴の大海原を出航し、いつの間にか嵐に見舞われ、沈没するかのような、少しの予兆も感じさせない穏やかな瞬間。そのような時こそが、運命の歯車を狂わせる悪魔が舞台裏に潜んでいるのだ。
本当に、何気ない出来事が発端だった。
「ねえ、朱里少し太った?」
高校三年生になり、そろそろ受験勉強に追われ始める時期の頃。教室で一緒に弁当を食べていた
朱里は、母が作った弁当を食べていた手をピタリと止めた。少しだけ、ドキリとする。
「え? そうかな」
朱里は訊き返す。半ば冗談のような形で受け取っていた。
その問いに、可奈子ではなく、
「うーん、私にはそうは見えないけど……。でも、太ってたって朱里は可愛いよ!」
初美は、気遣うような口調で言う。思い込みかもしれないが、朱里が本当に太っていることを隠そうとしたような、そんな雰囲気を感じた。
そこで朱里の体型の話は終わった。言いだしっぺである可奈子は、自分の発言など忘れたかのように、別の話題を喋っている。朱里もすぐに、可奈子の発言をほとんど忘れてしまった。ただ、心の片隅に、ほんのちょっとだけ、小魚の骨のように、引っ掛かっただけだった。
それから月日が経った。朱里は都内の大学へ進学した。初めて親元を離れての一人暮らしであるが、期待に満ち溢れていた。
大学生活は、高校の時とは質が違う楽しさがあった。とても晴れやかなのだ。
朱里はここでもすぐさま中心人物になった。入学すると同時に、様々なサークル活動から勧誘を受け、合コンの誘いも数多くお呼びがかかった。
朱里は、まだサークル活動を決めかねていたので、どれも曖昧な返事で返した。だが、合コンには積極的に参加した。別に彼氏が欲しかったわけではない。合コンに参加すると、皆が朱里を称賛してくれるのだ。男の誰もが、朱里をものにしようと、目の色を変えてアピールしてくる。これが愉快でたまらなかった。
鴨川の田舎とはまるで違う煌びやかな東京でも、朱里の容姿は、十二分に魅力を発揮した。かつてはクラスのアイドル的存在であろう美人でも、朱里の引き立て役になることもあった。
朱里は神に感謝した。これほど楽しい人生。生まれ持った容姿のお陰で、成立しているのだ。
私は天に愛されている。
大学へ入学して、しばらく経ったある日。
再び、あの言葉を聞くこととなった。
「近内さん、最近太った?」
合コンの時である。話の脈絡は覚えていないが、一緒に参加した同じ学年の女の子がそう訊いてきたのだ。
朱里は、その言葉にはっとする。脳裏に、可奈子の――今は何をしているのかすらわからない――姿が思い起こされた。可奈子もかつて、私にそう言っていた。
「そ、そうかな?」
あの時と同じく、少し動揺しながら、朱里は訊き返した。同時に二の腕を触る。さほど肉が付いているとは思えないが……。
「そんなことないと思うよ。近内さんは充分に痩せてるさ」
正面にいた有名大学に通う男子学生が、執り成すように言った。しかし、それは気遣いで、本当は太っているのかもしれないと思った。
「そうそう。それに女性は少しぽっちゃりしている方が可愛いよ」
別の男子も援護射撃を行う。それは聞きようによれば、朱里が太っていることを示唆するものでもあった。
その後、合コンが終わってからも、ずっと頭の中に、『太った』という言葉がこびりついていた。これがもしも、この時だけの話なら、朱里は気にも留めなかったことだろう。体型の維持管理には、常に気を張っているため、相手の勘違いか、あるいは当て付けだと一笑に付したはずだ。
だが、以前にも別の人間に一度言われていることである。もしかしたら、自分が気付かないだけで、本当は太っているのかもしれない――そんな考えに捕われた。
その日から、朱里は体重計に乗る回数が飛躍的に増えた。お風呂上り、帰宅時、朝の起床時、就寝前。まるで、減量トレーニングを行っているボクサーのように、細心の注意を払って、体重に目を光らせた。
体重そのものは、問題がないように思える。自分の身長に対し、針が示している体重は、極めて適正であった。BMIの数値も普通体重の域を指している。ネットを元に計算表と照らし合わせて調べたので、間違ってはいないはずだ。
しかし、それはあくまで数字の話。大切なのは、外観である。適正体重でも、太って見えたら台無しなのだ。これまでずっと称賛されてきた自分の容姿が、劣化するのは耐えられない。手遅れになる前に、対処する必要があった。
朱里は、ダイエットに励み始めた。食事量をそれまでの半分に減らし、朝晩ランニングを行った。一人暮らしだったので、誰にも咎められることはなかった。
やがて、朱里の体重はみるみる減少した。減っていく体重計の数値を見るのは愉快だった。成績が上がっていく様を見ているようで、強い達成感を朱里にもたらした。
体も明らかにスリムになった。大学でもそのことについて褒められるようになった。その度に、朱里は喜びに打ち震えた。ただ、中には痩せすぎでは、と指摘する声もあった。だが、それは嫉妬によるものだと朱里は解釈し、無視をした。
そして、ちょうどその頃に、初めて朱里に彼氏ができた。日本でトップとも言える有名大学に通っている男子だ。長身で、イケメン。絵に描いたような、法学部のエリート候補である。
二人はデートを重ね、親密な仲になった。彼と一緒に過ごす時は楽しかった。生涯初めてと言っていいほど、本気で人を好きになった時かもしれない。
やがて、セックスをする時が訪れた。彼の部屋に誘われたのだ。今夜、泊まらないかと。
彼は一人暮らしなので、つまりはそういうことだろうと、朱里はすぐに理解した。そして、了承する。
夜、彼の家で、軽くお酒を飲んだ。それから、お互い、交代でシャワーを浴びる。
バスタオルを巻いて浴室から出てきた朱里を、彼は優しくエスコートした。こちらに警戒心を抱かせない、慣れた手付き。彼が経験豊富であることを窺わせた。
彼はベッドへ朱里を座らせる。その後、そっと肩を抱き、それから、体に巻いてあるバスタオルを外そうとした。
その時だった。朱里は強い嫌悪感を覚えた。己の汚い部分を無理矢理こじ開けられて、覗かれるような嫌な感覚。秘部を見られることとは違う、不快な羞恥心。
「いや!」
朱里は、彼の手を振りほどいた。彼はギョッとした表情を見せた。まさかここまできて拒否をされるとは思わなかったのだろう。ショックが一瞬だけ表出した。
だが、彼はすぐに気を取り直し、男性アイドルのような爽やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫。優しくするから。安心してまかせて」
彼は、再びバスタオルに手を掛けた。
瞬間、再度怖気が走る。彼が嫌なのではない。裸を誰かに見られることが嫌だったのだ。それは最早、恐怖と言えるレベルだった。
「やめてっ!」
朱里は悲痛な声を上げて、体を抱え込み、顔を伏せた。どうしても、裸を誰かの目に晒すことができなかった。
なぜなら、自分の体型は、美しくないからだ。まだまだ私は太っている。もっと痩せてからでないと、裸は見せられない。嫌われてしまうかもしれないから。
顔を伏せたまま、朱里は彼が怪訝な面持ちで自分を見つめていることを、肌で感じ取っていた。
「心の準備が整わないまま、誘ってごめん」
あの後、彼はそう謝ってくれた。明らかに残念そうだったが、文句は言わず、それ以降も優しく接してくれた。
どうやら、彼は朱里の拒否を初心な感情のせいだと思ったらしい。だから、時間をかけて慣れさせれば、いつかは成就できると踏んでいるようだ。
朱里としても、彼と体を重ねたい気持ちはあった。だが、この体型のままでは駄目なのだ。もっと痩せてからでないと、彼を失望させてしまう。
朱里はさらに、ダイエットに邁進した。食事量を大幅に減らし、元の量の四分の一以下に収めるよう調整した。ランニングも欠かさず行い、風呂も長時間入るようにした。
朱里の体重は、これまで以上に、減り始めた。朱里は歓喜に包まれた。
その頃から、朱里は周りの友人達から、痩せすぎだと、忠告を受けるようになった。だが、朱里は聞く耳を持たなかった。私がスリムになったから、皆は悔しがってるんだ。
それと同時期に、体がだるくなるようになった。ちょっと動くだけで、息が上がり、座り込みたくなる衝動に度々襲われた。その上、些細なことでイライラすることも増えた。
やがて、生理が止まった。だが、朱里は大して気にしなかった。ダイエットに生理不順は付き物である。そう思った。これはいわゆる好転反応に違いない。つまり、ダイエットは順調だということであると。
鏡を見ると、とても素敵な体型が映し出された。あばら骨はくっきりと浮き上がり、足も枯木のように細い。頬も削げている――その姿が一切おかしいこととは思わず、朱里は痩せたことを極めて誇りに思った。
これで、気後れすることなく、彼に裸を見せることができる。セックスもすることが可能だ。幸い、生理が止まっているため、妊娠する危険性が低いのも好都合だった。
絶対に、彼は喜んでくれるはずだ。
彼から別れを告げられたのは、それからすぐだった。
彼はこう言った。「もう見ていられない」と。
朱里が意味を尋ねると、彼は気付いていないのかという顔をした。
「君はあまりにも痩せすぎている。これ以上いると、俺は苦しくて、一緒にいられない」
朱里は、彼のその言葉がショックだった。別れを告げられた以上に、自分が痩せすぎだということが信じられなかった。だって、こんなにスリムになったんだもの。称賛されこそすれ、否定される道理はないはずだ。
それなのに。
朱里は、彼に食って掛かった。浮気をしているのだと疑った。それを悟られたくないがために、朱里の体型のせいにしたのだと思った。
押し問答の末、彼は、呆れ返った口調で怒鳴った。
「いい加減にしろ。もうお前に魅力を感じないんだ。誰かお前みたいなガリガリの女を抱くかよ」
そう履き捨てると、彼は朱里の前から姿を消した。もう二度と彼と会うことがないことを確信した。
それからである。次第に朱里の周辺で変化が起こり始めた。
まず、人が寄り付かなくなった。あれだけ色々な人に囲まれていたのに、今では腫れ物に触るような扱いを受けるようになった。誰かが寄ってきても、話す言葉は、朱里の体型を危惧する声ばかりである。
次に、朱里の体調だ。生理が止まったことも含め、すこぶる不調だった。体のだるさはさらに増し、一日中ろくに動けない時もあった。毎日続けていたランニングも、もうほとんどやれていない。大学も休みがちになった。
それでも朱里は、ダイエットを続けた。さらに体重は落ちていった。
あまりにも体調が悪くなったので、朱里は両親に頼ることにした。久しぶりに実家へ帰ったのだ。
そこで再会した両親の反応を見て、朱里は初めて、自分が異常な状況下にいることを知ったのだ。
精神内科に連れて行かれ、拒食症と診断された。
ここから、拒食症との長い長い戦いが幕を開けた。
精神内科に通院するようになってから、朱里は点滴を度々受けた。その頃には、食べ物をほとんど口にすることができず、食べても吐くようになっていたためだ。点滴がなければ、とうに栄養失調で死んでしまっていただろう。
しかし、それでも点滴だけでは限度がある。人間が点滴だけで生きていけるわけがないのだ。所詮、ただの延命処置に過ぎない。やはり、食物を摂取できるようにならなければならなかった。
治療には、投薬と認知行動療法が取られた。処方された薬は、SSRIなどの抗うつ薬だった。その時聞いた話だが、実は拒食症に対し、投薬はあまり有効ではなく、投薬されるにしても、ほとんどが抗うつ薬のみの処方となるらしい。朱里の場合は、睡眠障害も併発していたので、睡眠薬も処方されたが、大抵は認知行動療法(精神療法)による治療がメインとなる。
しかし、拒食症は、明確な治療方法が確立されておらず、どの方法を取っても、確実に治る見込みがないのが現状なのだ。
朱里が受けた認知行動療法は、『認知の歪み』を修正する精神療法だった。朱里の場合、自身が肥満であるとの思い込みと、摂食すると、太るのではという恐怖が拒食症の原因であった。その歪んだ二つの認知を正すのが、認知行動療法のメソッドである。
朱里は治療を受け続けた。両親も必死になって協力してくれた。その甲斐があってか、ほんの僅かだけ、回復の兆しを見せた。
少量だが、食べ物を口にすることができるようになった。飲み物も、それまで水だけだったのが、栄養剤などの飲料類も飲めるようになった。
点滴と併用すれば、かろうじて、餓死する危険は避けられた。だが、それでも、栄養失調のラインを上下するレベルに留まり、根本的な解決には届かなかった。相変わらず末期がん患者のように、痩せ細っている体はそのままである。
治療を受けている間も、朱里は大学に通い続けた。もう友達も全員離れていき、男も近付きすらしなかったが、朱里は休学も退学もしなかった。これで、大学を離れてしまえば『普通』の女の子じゃなくなる。その恐れがあったからだ。私は、化け物ではない。普通の女の子なんだ。
そのような生活が二年は続いた。気が遠くなるような時間だった。拒食症は何年も続く可能性がある病気だと聞いたことがあるが、まさか自分の身に降りかかるとは思わなかった。
やがて、就職活動の時期が訪れた。朱里はボロボロの体に鞭を打って、就職活動を行った。
なかなか内定が決まらなかった。原因はこの体型のせいだ。見るからに、拒食症の病人である。そんなゾンビのような新卒を取る企業など、そうそう存在するわけがなかった。中には、面接の際に「君、病気?」とあからさまに聞かれたこともある。
それでも朱里は諦めなかった。他の同期が次々と内定を勝ち取っていく様を横目で眺めながら、朱里は治療と就職活動を両立させた。
そして、ようやく就職先が決まった。横浜にある中小企業だ。そこの事務員として雇ってもらえることになった。
この内定は、朱里本来の美貌と学歴から考えれば、あまりにもレベルが低いと言えた。拒食症にかかる以前、朱里の容姿なら大手に就職可能だと友達から言われたことがあるが、それは事実と言ってもよかった。特に新卒の女子の採用基準は容姿が大半を占めるので、朱里なら相当な大手でも引く手数多だったに違いない。
しかし、それが拒食症のせいで、この有様である。だが、朱里は前向きに考えようとした。採用してくれたということは、まだ朱里を人間として見てくれる者がいることの証である。私は、まだ化け物ではなかった。
就職が決まったことに対し、両親は強く反対した。再び親元を離れて生活などせず、一旦実家に戻り、治療に専念するべきだと主張した。
だが、朱里は決して首を縦に振らなかった。若い女がそんな介護老人のような境遇に置かれるのは、普通ではないのだ。他の学生達と同じように、新社会人生活を送りたかった。
両親の説得も虚しく、朱里は横浜に移り住んだ。
そこで、新生活が幕を開けた。今にも朽ちそうな痩せた体のまま、未来への一歩を踏み出したのだ。
新社会人生活は過酷だった。テレビドラマや映画では、新社会人生活を艱難辛苦あれど、夢と希望が溢れる生活として描いてあるが、少なくとも朱里の場合は地獄そのものであった。第一に、拒食症の身では、人生で初めてである『仕事』をこなす体力がついていかなかった。かかる負担は激甚なものである。
それから、朱里に対する風当たりの強さ。今まで朱里は持ち前の美貌により、他者からの好意ばかりが与えられてきた。多少の失敗や、迷惑行為でも、皆が笑って許してくれていたのだ。それがこの醜い容姿に変貌したことで、そのアドバンテージが失われてしまった。これまで受けたことのない罵詈雑言が、朱里へと浴びせられた。
ただでさえ擦り切れていた精神が、さらに削り取られていく。拒食症は悪化し、再び少しの食べ物も喉を通らなくなった。
両親は、一人娘が心配で堪らないため、頻繁に横浜のアパートまで訪ねてきていた。日に日に弱っていく娘を見て、両親は措置入院の提案を行った。かねてより、その話は出ていたが、朱里が了承しなかったのだ。まともな人生を歩む女は、精神病棟などには入院しないから。
今回も、朱里は拒否をした。その意思は、鉄のように強固だった。入院するくらいなら死んだほうがマシ。そう両親に告げた。そのため、強制的に朱里を入院させることは不可能だった。
再び飲み物と、点滴だけが数少ない栄養補給源となった。栄養失調で死ぬのは時間の問題かと思われた。
そのような中、一人の男が、朱里の前に現れた。
その男の名前と顔は、今でははっきりと思い出せない。ただ、ラガーマンのようにがっしりとした体格をしていたことは覚えている。その男は、朱里の同僚であり、三つ年上の先輩だった。
多くの男が、朱里に興味を抱かない中、その男だけは、朱里に好意を寄せた。
今にして思えば、おそらくは、そういった性癖を持っていたのだろう。ガリガリに痩せ細った女性に対し、強い興奮を覚える男なのだ。
男が朱里に向ける目は、一種の、獣のような強い肉欲で占められていた。朱里もその点は、当時から察していた。本来なら、下心剥き出しの男は願い下げだったが、針の筵のような現状況の中では、そういった下賎な思考を持っている人間だろうと、興味を抱いてくれるだけで嬉しかった。ゆえに、朱里は男の接近を許した。
ある時だった。仕事が終わり、男は朱里の部屋に行きたいと申し出てきた。少し仲良くなっただけなのに、あまりにも厚かましい願いである。しかし、朱里は断れなかった。断ったら、この男も離れていくだろう。それが嫌だった。
朱里が了承すると、男は爬虫類のような嫌らしい笑みを浮かべた。
男を部屋に上げた後、朱里が淹れたお茶を飲みながら、雑談を行う。その過程で、朱里の体型の話になった。
男はなぜ、そこまで痩せているのか訊いてくる。男の表情は、嫌悪感ではなく、興味で満たされていた。そのため、朱里は尻込みすることなく、正直に話すことができた。
拒食症であると。
男は、真剣に話を聞いてくれた。時折、纏わり付くような視線をこちらの痩せた体に向けることはあっても、否定的な態度は取らなかった。
話が終わると、心底同情したような口調で言ってくる。
「近内さん、本当に苦労してきたんだね。頑張ってるよ。俺にはそれがわかる」
言葉の裏に、下心という汚泥が満ちているのはわかっている。だが、それでも朱里は男の言葉が嬉しかった。思わず泣きそうになる。
それを見ていた男が、突然明るい声を出した。
「そうだ。俺が料理を作ってやろうか? 食材ある?」
男は朱里の返事も待たず、キッチンへと向かった。
朱里は男の唐突な行動に、戸惑いながら言う。
「食材は少しはあるけど、私、食欲ないよ?」
ちょっとでも食欲が戻ったら、いつでも食べられるようにと、両親が常に食材を揃えてくれていた。もちろん、その大半は廃棄になるのだが。
「普段と違う人が作ったら、もしかすると食欲が戻るかもしれない。一緒に食べよう」
おそらくは、なし崩し的に事を進めていき、最後には肉体関係まで辿り着く。そんな腹づもりなのだろう。察しがついた。
男は料理を始めた。朱里は止めず、男の好きにさせた。限りなくゼロに近いが、もしかしたら本当に他人の作った料理で、少しは食欲が復活するかもしれない――一縷の希望があったし、男を止めて機嫌を損ねさせるのも嫌だった。
料理が進むと、男の手際が悪いことがわかった。料理を作ることを自ら進言してきたにもかかわらず、男はあまり料理の経験がないようだった。おそらく、出来栄えはどうであれ、料理を作ったという実績が欲しいらしい。結局は、下心のみが行動原理なのだ。
それでも、一応は形になるくらいの腕前はあるようだ。徐々に完成へと近付いていく。メニューは野菜炒めと玉子焼きだ。
最後に男は、みそ汁のたまねぎを切る。その時だった。男は、突如、小さくうめき声を上げた。包丁を乱暴に置き、慌てたように、左手を右手で押さえる。
「どうしたの?」
朱里は男の元へ駆け寄り、男の手に目を落した。男の左手からは、真っ赤な血が滴り落ちている。
彼は自分の手の指を切ったのだ。相当深く切り込んだらしく、流れ出ている血の量も、かなりのものであった。
「切ったの!? 救急箱持ってくる」
朱里は急いで救急箱を取りにいく。その後、男の傷の手当に取り掛かった。最初見た通り、傷はなかなか深い。キッチンの周りにも血が飛び散っている。
絆創膏と包帯を巻き終えると、男への処置は終わった。もしかしたら病院に行った方がいいかもしれない。そう思わせるほどの深手だった。
朱里がそのことを伝えると、男はしょげた顔で頷いた。
「うん。そうするよ。悪いけど、今日のところは帰るわ」
男は、すっかりテンションを落としていた。負傷により、満ち満ちていたリビドーがどこかへ吹き飛んでしまったらしい。己の性欲よりも、やはり身体の危機を生き物は優先するものなのだ。
やがて、男は部屋を出て行った。
途端にシンと部屋が静まり返る。テレビすら点けていなかったことに気付く。
朱里はキッチンに目を移した。そこには男が残していった完成間際の料理が並んでいた。湯気もまだ立ち昇っており、野菜炒めの香ばしい匂いが鼻腔をついた。
朱里はその料理を見ようとも、匂いを嗅ごうとも、全く食欲が湧かなかった。長い間、まともに食物を胃に入れていないはずなのに。
料理を捨てよう。朱里はそう決めた。まるで料理が汚物のように見える。目と匂いが届く範囲に食べ物があるだけで、吐き気すら感じられた。
キッチンへいき、料理を全てゴミ袋に捨てる。皿をシンクへ置いた時だった。朱里の目がある物を捉えた。
キッチンの天板に付着した、赤い斑点。薔薇の花びらのようにも見えるそれは、男の血液であった。指を切った際に、飛び散ったものである。
朱里はしばらくの間、その血液を見つめていた。ごくりと喉が鳴る。気が付くと、なぜか、口腔内に唾が溢れていた。
美味しそう。不思議にそう思った。男の血液は、じっくりと煮込んだ芳醇なトマトソースのようだった。
無意識に朱里は、付着している血液へ顔を近づけた。それから舌で舐め取る。口の中に、鉄錆に似た味が広がった。これは、とても美味しい。
朱里は夢中で、男の血液を舐め続けた。血液は、天板の至る所に飛び散っている。その全てを舐め取る勢いで、舌を這わした。まるで
やがて、天板は布巾で拭き上げたかのように、綺麗になった。男の血液は少しも残っていない。
朱里は、唇を舐めながら、少しだけ満足感を覚えた。
男の血は大変に美味だった。『食べ物』を美味しいと思ったのは、いつの日以来か。その上、久しぶりに『栄養』を口から取り込んだのだ。ちょっとは、体が回復するかもしれないと思う。
そして、奇跡が起こる。ある音が聞こえた。最近、全く耳にしていないため、最初は何の音かわからなかった。だが、すぐに察する。お腹が鳴ったのだ。ぐうっと。
襲いくる数年ぶりに覚える空腹。朱里は感動を覚えた。今の私が空腹なんて!
朱里は慌てて、男の血液が残っていないか、キッチン中を探した。だが、当然、全てを舐め取ったので、もう血は付着していなかった。
朱里はやきもきする。せっかくお腹が空いたのに。けれども、まだ普通の食事は摂る気がしない。
そう。私がもっと口にしたいのは、人の血だ。それから肉。そう確信した。人の肉と、血。その食材なら、吐くことなく、お腹一杯に食べることができるだろう。
朱里の脳裏に、先ほどまでこの部屋で調理をしていた男の姿が蘇る。突如、映像がぐにゃりと歪み、いつしか、その男は、調理される側となっていた。かつて、父の手伝いで解体した猪の死骸のように、朱里が男の肉を削いでいた。
そして精肉した男の肉を丸ごと焼き、かぶり付く。肉汁が口一杯に広がり、脂の旨みが舌の上で踊るのだ。
朱里は溢れる涎を拭い、その妄想をひたすらリピートした。夢にまで見た空腹を感じながら。
それから、朱里は、その同僚の男に対し、強い食欲を覚えるようになった。朝、挨拶を交わす時、朝礼の時、仕事中、会話をする時。全てのシーンにおいて、男の筋骨隆々とした体に、つい目が向いてしまう。同時に、お腹も鳴った。
男の肉が食べたい。その衝動が、日に日に強くなっていった。
そこで朱里は、男を『狩る』ことにした。すでにそれしか道がないように思えた。もう何も食べられないのだ。このまま点滴だけを受けていても、いずれは栄養失調で死んでしまうだろう。だったら、ようやく現れた食欲が湧く『食材』を、犯罪行為だろうと手に入れるしかないのではないか。餓死か殺人者か。二択に一つなら、選ぶ道は一つだ。
朱里は、『計画』を立て始めた。自分の命がかかっている狩りである。入念に事を進める必要があった。失敗は許されない。
数日後、計画は完成し、実行に移す時がやってきた。朱里は当日、会社にて、口頭で男へ約束を取り付けた。今夜うちに遊びにきてと。
その時に勤めていた会社は、社内恋愛が禁止されていたので、口外される恐れはなかった。男は一も二もなく快諾した。
その夜。朱里の部屋へ再度喜び勇んで訪れた男に、睡眠薬を入れたお茶を出した。お茶を飲んだ男は、たちまち眠りへとついた。
それから男の首へ、朱里はロープを巻きつけたのだ。
その時に食べた男の肉の美味しさは、今でも覚えている。珍味佳肴とはこのことを言うのだと思った。
男を解体して取れた肉を食べ終える頃には、朱里の体型はすっかり元に戻っていた。まさか人の肉を食べて快復したとは思っていないであろう両親は、涙を流して喜んでくれた。
その時から、朱里は人肉を求めるようになった。もう人肉以外は口にできない体質となっていたのだ。ただ、人肉と一緒なら、ある程度、他の食材も食べることはできた。そのお陰で、栄養が偏ることはなかったが、それでも人肉がないと栄養源が失われるのは同じだった。
その後も、順調に『狩り』は成功を収めた。本来の美貌を取り戻していたため、有利に事を進めることができたのだ。
ある程度、人肉に余裕が生まれた時点で、朱里は、会社を退職した。それからもっと、大手でなおかつ、人肉を得るために適した環境である会社を探した。今の朱里の容姿なら、難なくそれは叶えられた。
そして、現在勤めている四谷総合商事株式会社へと就職を果たし、目黒のマンションへと移り住んだのだった。
朱里は思う。人の肉しか食べられないグールと化した自分。ジェフリー・ダーマーすら真っ青の連続殺人鬼。そんな運命を背負っていても、朱里は生き抜きたかった。望んでこんな人生を歩んだわけではないのだ。悲観に暮れる必要はなかった。
生き物は、別の生き物の命を喰らって生きている。虫は草木を。動物は虫を。その動物を人間が喰らう。食物連鎖の世界。その中で、ピラミッドの頂点にいる人間を喰らう生き物が、世の中に一人くらいいてもいいのではないか。あくまでも自然の摂理の一部なのだから。
自分はこれからも人を殺し、肉を食べ続けるだろう。邪魔が入らない限り、死ぬまで一生。
もしもその邪魔者が現れた場合、生きるために、全力で排除しなければならない。
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