第四章

 休日となる土曜日。朱里は新宿駅へ降り立った。駅構内は、目に余るほど大勢の人間が行き交っている。


 朱里は、駅構内から、東南口を通って外へ出た。そして、目の前の階段を降り、その先にある広場で足を止める。


 この東南口広場は、待ち合わせでも良く使われる場所であった。今も、人が沢山いる。


 朱里は今日、ここで『蜘蛛の巣』を張る予定だった。ようはナンパ待ちをするつもりである。


 自分の獲物を立て続けに奪った犯人。もしかすると、自分を監視している可能性があった。それならば、ここで獲物を狩る自分を見て、何かしら動きがあるかもしれないと踏んだ。仮にそういかなくても、それはそれで好都合である。やってきた男を食料にすれば良いだけの話だ。本来、ナンパによる狩りは避けたかったが、この際、背に腹は代えられない。


 朱里は、広場の中央にあるベンチの側に立ち、手持ち無沙汰な様子を演技する。そうやって、誰かが声をかけてくるのを待った。普段は、ただの待ち合わせでも、すぐに男から声をかけられる。この時も、即座に男が寄ってくるはずだと確信があった。


 だが、予想に反して、ナンパしてくる男は現れなかった。周囲にいる男達は、朱里に目を留めるものの、スルーしていた。こんなことは滅多にない。


 もしかすると、自分の捕食者のようなギラギラした雰囲気を感じ取り、忌避しているのかもしれない。そんな気がした。


 それからしばらく粘ってみても、状況は変わらなかった。誰も声をかけてくることなく、時間だけが過ぎていく。


 このまま続けても無意味かもしれない。そう思い始めた。ナンパしてくる男はいないし、犯人の動きらしきものもない。かえって、朱里が不審者扱いをされる恐れもあった。すでに二時間近く、ここに『蜘蛛の巣』を張っているのだ。もしも今の状況で、警察に目を付けられでもしたら、面倒だ。さらに食料を入手する手段が減ってしまう。


 朱里はこの場を立ち去ることにした。今日は狩り日和ではなかったということだ。『蜘蛛の巣』だって、何も引っ掛からない時はある。また次に期待しよう。


 朱里は、新宿駅へ向かって歩き始める。そこで、ふと、一人の人間に目が留まった。


 あれは。


 目の前にある階段を登った先――新宿駅へと繋がる東南口。そこへ、見覚えのある一人の男が入っていく姿が朱里の目に映った。


 あいつは西阪将彦。同じ会社の同僚だ。


 朱里が視認するとほぼ同時に、西阪は、構内へと姿を消す。しかし、見間違えようがなかった。それに、なんだか、朱里が動き出すのに合わせて、駅へと逃げ込んだような、そんなタイミングと雰囲気を感じた。


 ずっと見られていたのだろうか。


 朱里は、ぞっとするような嫌な予感を覚えた。



 

 その後、朱里は家に帰り、シャワーを浴びた。残り少ない人肉をちょっとだけ食べ、栄養剤を飲んだ後、ベッドの上で、ぼんやりと西阪のことを考える。


 あの男には前々から不自然な所があった。態度にしろ、言葉にしろ、どこか妙なのだ。そして、今回の件。偶然、西阪が同じ場所に居合わせたのでなければ、その感覚は、勘違いではないということになる。


 もしかすると、すぐにでも犯人を捕らえることができるかもしれない。世間を騒がせている食人鬼を。


 朱里は西阪に目星を付けた。




 平日となる翌日、朱里は西阪の動向に目を光らせていた。西阪は、朱里の思惑とは裏腹に、普段とは変わらないままである。


 昼休みになり、一人で食堂にやってきた朱里は、西阪のいるグループの元へ歩み寄った。


 「ご一緒いいですか?」


 西阪のいるテーブルには、いつものメンバーが揃っていた。西阪に、武谷、それから新田。


 真っ先に反応したのは、新田だった。好色そうな顔が、明るくなる。


 「あれ、朱里ちゃん。珍しいね。わざわざ僕らの所にまでくるなんて」


 「ええ。今日はシフトの都合で、一人で昼食になっちゃって。座っていいですか?」


 「もちろん」


 新田は、朱里を隣の席へ座らせる。朱里は弁当箱を広げた。中身はなけなしの男の肉。


 朱里は、三人と雑談を行う。しばらくしてから、さりげなく、話題を変えた。


 「皆さん、そう言えば、休日って何をして過ごしてますか? 私、最近新しい趣味を見つけたくて……。参考にお聞きしたいのですが」


 すぐに新田が食い付く。


 「僕はね、ゴルフをやっているよ」


 新田は、ゴルフの話を始めた。興味がないので、適当に聞き流す。


 次に武谷の話に移る。彼は、飄々とした顔で、自身の趣味を『釣り』だと語った。


 「そうなんですね。何だかイメージとは違う感じ」


 もっとチャラついた趣味を持っていると思っていたが、意外とオーソドックスな娯楽が好きなようだ。


 そこで、新田が横槍を入れる。


 「こいつの釣りは、別の意味なんだよ。いわゆるガールズハントってやつ」


 本当は、ナンパが趣味だということなのだろうか。


 「違いますよ。ちゃんとあちこちで釣りを楽しんでます。穴場も結構見付けているんですよ」


 武谷は、なぜか、少し焦りながら弁解する。いずれにしろ、どうでもいい話なので、朱里は言及しなかった。


 そして、西阪に訊く。


 「西阪さんは?」


 西阪は、朱里を見て、さらりと答える。


 「僕はインドア派だから、室内でやる趣味ばかりだよ。外にはほとんど出ない」


 「この間の休みの日もずっと家にいたんですか?」


 朱里が質問すると、西阪は頷いた。


 「うん。そうだよ」


 ここで嘘をつくということは、先日、朱里に姿を目撃されたことは気付いていないようだ。


 「西阪さんって、どちらにお住まいなんですか?」


 朱里の問いに、西阪ではなく、新田が反応した。


 「なになに? そんなこと訊いて。もしかして朱里ちゃん、西阪に気があるの?」


 「いえ、そんなわけじゃあ」


 朱里の弁明をよそに、西阪は気にする素振りを見せず、口を開く。


 「僕は御徒町の方に住んでいるよ」


 同じ山手線沿いの街にはなるが、新宿とはほぼ正反対の位置にある。やはり、新宿に何かしらの用事がないと、あの場所にいるはずがなかった。


 そこで新田が、怪訝そうに言う。


 「朱里ちゃん、全然弁当に手を付けていないね」


 朱里は頷いた。確かに、弁当は手付かずだ。腹は減っているが。


 「ええ。ちょっとダイエットしてて」


 朱里は、弁当箱を差し出した。


 「食べます?」


 新田はにやりと笑う。


 「いいの? この前といい、悪いね」


 新田は、ひょいっと人肉製のウィンナーをつまみ、口へと運ぶ。武谷も、ミートボールを食べた。


 本当は、なけなしの食料なので、他者に献上するのは非常にもったいないのだが、これは必要経費なのだ。仕方がない。


 そして朱里は、西阪に弁当を勧めた。西坂の反応を伺う。


 西阪は首を振った。


 「僕はいいよ」


 新田達が、朱里の弁当を誉めそやす中、彼はにべもなく断った。それからこちらが良いと言わんばかりに、手元にあるカレーを口に入れる。


 何かある。朱里は直感した。




 その日の夕方、朱里は西阪を尾行することに決めた。


 仕事が終わると、朱里は会社を後にし、人目に付かない場所で待機する。そこで、西阪が出ててくるのを待った。


 しばらく時間が経ち、西阪が会社の玄関から姿を現した。一人だ。


 西阪は、周囲を警戒することなく、品川駅の方へ向かって歩いていく。朱里は隠れていた場所から出ると、西阪の後を追い、尾行を開始した。


 尾行はこれまで何度も経験してきたことなので、慣れたものだった。決して対象を視界から外さず、間に人を挟んで、一定距離を取るように心掛ける。相手が警戒していない場合は、視界に入らない限り、まず悟られる恐れはない。


 やがて、西阪は品川駅へと辿り着いた。やはり、JRを使って帰宅するようだ。


 西阪は、山手線のホームで電車を待っている。品川駅のホームは、普段と同じく、帰宅途中の人間でひしめき合っていた。


 ほとんど間を置かず、電車はやってくる。西坂は、それに乗り込んだ。朱里は西阪と同車両の、別の出入り口から車内へと足を踏み入れた。


 朱里は電車が出発しても、西阪を視界に収め続ける。西阪は、こちらの尾行に気付いた様子は見せていなかった。車内は満員状態だったので、少なくとも、電車に乗っている間は、こちらの姿が発覚する心配は低いと言えた。


 朱里は西阪の姿を観察する。西阪は、吊り革に掴まり、窓の外をぼんやりと眺めていた。物思いに耽っているような、そんな感じである。他の乗客は、スマホを弄ったり、会話をしている中、どこか異質な雰囲気を醸し出しているように見えた。


 電車は東京駅を過ぎ、やがては御徒町駅へと到着した。そこで西阪は降りる。朱里もそれに追従した。どうやら、御徒町在住という西阪の発言は嘘ではないらしい。


 西阪の後を追い、駅を出ると、西日が体を包んだ。もう日が傾き、血を思わせる夕日が街を照らしている。


 西阪は、台東区方面へと向かっていた。竹松公園を通り過ぎ、三丁目から南下する。


 朱里の記憶によれば、この先は住宅街だったはず。そこに西阪の住居があるのだろうか。


 周囲の景色は、次第に地味なものへと変化していった。スーパーなどの商業施設は姿を消し、民家が目に付くようになった。この辺りは下町のような雰囲気を持っており、多少入り組んだ立地になっているようだ。


 西阪は、朱里の尾行に気付くことなく、ずんずんと住宅街の中を進んでいく。振り返ることすらしなかった。


 いつしか、周囲から人の気配がなくなっていた。とても静かな場所だ。遠くの大通りから、車のエンジン音が聞こえてくる。


 西阪は、路地の奥まった場所へと入っていった。もうそろそろ住居に着く頃かもしれない。その予感があった。朱里は、懐に入れてあるスタンガンをスーツ越しに触る。


 今日の目標は、西阪の住む場所を突き止めることにある。それ以上の深追いをするつもりはないが、万一、彼に尾行がばれ、襲われるようなことになったら、このスタンガンを行使する予定だった。必要な『防衛措置』である。


 西阪は、先にある路地を左に曲がった。完全に姿が見えなくなったことを確認し、朱里もそこを曲がる。


 曲がった直後、眼前にある路地を見て、朱里ははっとした。


 路地には誰もいなかった。先ほどまで、視界に収めていたはずの西阪が、煙のように消え失せているのだ。どこかの建物に入ったのだろうか。いや、それならば、こちらも気付くはず。だったらどこに……。


 背後に気配を感じた。とっさに振り向こうとした瞬間、手が口元を覆い、がっしりと後ろから羽交い絞めにされる。


 朱里は口の中で、くぐもった声をあげ、振りほどこうとした。


 背後から、声がかかる。静かで、落ち着いた口調。


 「僕の後をつけていたみたいだね。何か用かな? 近内さん」


 声の主は、西阪だった。しまったと思う。油断していた。尾行はとうにばれていたのだ。


 朱里は、西阪の拘束から逃れようと、大きくもがく。だが、西阪の腕に両腕をガッチリとホールドされ、身動きがならない。巨大な蛇にでも巻きつかれた気分だ。これまで、男を何人も狩ってきたが、それは人事不省の状態を狙ったものであり、改めて、男と女の力の差を思い知らされた。


 声を出すことができないので、せめて、スタンガンを取り出したい。朱里は何とか懐に手を伸ばそうとする。しかし、無駄だった。相手は片腕だけにも関わらず、こちらの両腕を見事押さえ込んでいる。こいつは、体格も良い方なのだ。


 「抵抗しないで。怪我するよ」


 有利であることの余裕か、あくまで西阪の声は落ち着き払っていた。ちくしょう。

 そして、西阪は、恐るべきことを口にした。


 「僕の後をつけていたってことは、僕の肉を食べるために狙っているのかな?」


 朱里は、自身の顔から、血の気が引くのを感じた。やはり、この男は、朱里が人を殺して、その肉を食っていることを知っている。ということは、こいつが由佳と彩夏の肉を奪った犯人ということなのか。


 西阪は続けた。


 「いいかい。よく聞いて。これから僕は君を解放する。その後で、話を聞いて欲しい」


 話? どういうことなのだろう。意図が読めない。何のつもりだ。


 西阪はゆっくりと説明を始める。


 「君がこれまで、何人もの人間を殺して、人肉食を行っていることを僕は知っている。証拠だってある。もしも、ここで拘束を解いて、君が逃げたとしたら、証拠を持って、僕は君のことを警察へと伝える。かと言って、その改造スタンガンで僕に逆襲しようとしても、無駄だ。これほど体格差のある男には勝てない。だから」


 西阪は言う。


 「だから、解放された後、君は僕が話す言葉を聞くしか道はない」


 変な説得だった。何を考えているんだこいつは。朱里は困惑した。人の獲物を奪うような輩が、何を話すというのだろう。


 「わかったね?」


 西阪は、有無を言わせぬ物言いをする。このままでは何も進展せず、不利な状況のままだ。ここは、大人しく従っておいた方が得策かもしれない。


 朱里はコクリと頷いた。


 重りを外したかのように、すっと、体が軽くなる。西阪は拘束を解いたのだ。一瞬、スタンガンを手に取り、突き出すことを考えたが、彼が言ったように、無駄に終わると悟った。相手は警戒している男なのだ。細身で、しかも、空腹により弱っている女など簡単に制圧するだろう。


 朱里はゆっくりと振り返り、正面から西阪の顔を見据えた。西阪は、地味な顔に、温和な表情を刻んでいる。何かを期待しているようでもあった。


 朱里は口を開いた。


 「……あなたが、犯人なの?」


 掠れた声が出る。西阪は肩をすくめた。


 「上野と目黒であった殺人事件のことかい? 残念だけど違うよ。僕じゃない」


 西阪が嘘を言っているようには見えない。だが、それならなぜ、朱里の犯行を知っているのだろう。いや、それ以前に、不可解なことばかりだ。


 「話って、何?」


 朱里の方から切り出す。西阪は笑みを浮かべ、頷いた。目が、西日を受け、ギラギラと光を放っている。飢えた虎のように。


 「お願いがあるんだ」


 「お願い?」


 西阪は静かに深呼吸をすると、言う。それは、思いもよらない『お願い』だった。


 「僕の肉を食べて欲しいんだ」


 西阪の言葉に、朱里は耳を疑う。今、なんと言った? すぐに理解ができなかった。


 すると、西阪は、朱里の感情を悟ったのか、再び言葉を発する。今度は、どこか気恥ずかしそうに、まるで告白を行う男子学生のように。


 「だから、僕は君に解体されて、食べられたいんだ」


 西阪は、そう言い切ると、目を逸らし、こちらの反応を待つ風情になる。


 朱里は、未だに理解が追いつかず、唖然としていた。傍から見ると、とても間抜けな顔をしていることだろうと思った。




 その後、朱里は少し離れた所にある喫茶店に西阪と共に入り、話を聞いた。


 彼の話によればこうだった。


 二年前、朱里が入社してきた時、西阪は朱里に『一目惚れ』をしたらしい。心の底からこう思ったそうだ。『この人にいじめられたい』と。


 彼はマゾヒストだった。綺麗な女の人を見ると、自身の体を傷付けられたくて堪らなくなるらしい。それが高じて、SM風俗にも頻繁に通っているそうだ。


 『一目惚れ』をした後、西阪の中の被虐願望は、日増しに膨れ上がっていった。やがてそれは朱里への執着へと変貌し、ついには朱里の近辺を探るようになった。つまりストーカー行為を始めたのだ。


 すぐに西阪は、朱里の『特性』を知ることとなる。朱里の住むマンションは、防犯が手薄なので、比較的簡単に内情を探ることができたようだ。


 朱里の所業を垣間見た西阪は、その時、強くこう思った。自分も『食べられたい』と。朱里の手によって、自分の体を解体され、肉を食われる光景を想像するだけで、興奮の波が押し寄せるのだという。


 だから、西阪は、警察に朱里の犯行を伝えることはしなかった。ストーカー行為を続けつつ、なおも被食願望を抱えたまま、悶々とした日々を過ごしていたらしい。


 そして、今回の事件で、彼は己の願望を叶えるチャンスを迎えた。内情を把握している西阪は、意図的に自身へ疑惑を掛けさせるように仕向けた後、思惑通り動いた朱里に、全て打ち明けることにしたのだ。


 西阪の話を一通り聞き、朱里は眩暈を覚えた。自分も人のことを言えた義理ではないが、こいつも異常なのだ。


 同時に、朱里は己の不運を嘆く。朱里の犯行を知って監視を始めたのならともかく、そうなる前に、別の理由で朱里をストーキングする者が現れるとは、想像すらできるわけがなかった。こんな事故みたいなことで他者に犯行が発覚するのは、悔しさよりも、情けなさが先行した。


 だが、いくつかわかったことがある。その一つが、朱里の住居の問題。自身の犯行のために、防犯カメラも警備員もいないマンションを選んだのだが、それが仇になったようだ。もしも、朱里のことを探ろうと思ったら、西阪がやったように、他の誰かでも達成は可能かもしれない。


 それから、犯行時のこと。朱里をストーキングしていたとしたら……。


 朱里は訊く。


 「あの事件の時も、私を見ていたの?」


 西阪は首肯した。


 「うん。ずっと見ていたよ。ターゲットの近辺を探っていた時から。だから、君が上野と目黒で起きた殺人事件の犯人じゃないことは知っている」


 どうやら、時折感じた視線は、この男のものだったようだ。


 あの事件の実情を知っているとしたら、話は早い。


 「由佳と彩夏を殺した犯人をあなたは目撃したの?」


 西阪は、ため息をつき、首を振った。


 「残念ながら、そっちの方はわからない。被害者二人のことを、特別にマークしていたわけじゃないから」


 朱里は肩を落とした。これで再び振り出しに戻ったわけだ。疲労感が強くなる。


 朱里は、西阪の発言で気になっていたことを質問した。


 「証拠があるって言ってたけど、それはどんなもの?」


 西阪は、得意げに笑みを浮かべると、スマートフォンを取り出し、操作をする。それから、画面を朱里の方へ突きつけた。


 西阪のスマートフォンの画面には、写真が写っていた。朱里が男と一緒に並んで歩いている写真や、女の後ろを尾行している写真など。それらの人物には、見覚えがある。これまで標的にし、『食料』にした者達だ。それに加え、被害者達の部屋を出入りする姿も収められている。


 これらを警察に渡し、行方不明者のリストと照らし合わせれば、朱里のマンションの扉を警察がノックするのは時間の問題だろう。


 朱里は後悔する。こうも易々と証拠を撮られていたとは。十全に警戒していたつもりだったが、この有様では、考えが甘かったと言わざるを得ない。もっとも、この証拠にしても、予め、朱里の犯行を知った上でないと得られるものではないため、西阪のような特殊な例でもない限り、他者に証拠を握られる恐れはまだ低いと言えるが。


 朱里はスマートフォンから目を逸らすと、西阪に訊いた。


 「それで、この証拠を使って、何をするつもり? 脅すの?」


 西阪は、スマートフォンをポケットに戻しながら、首を振る。


 「そんな大層なものじゃない。言ったろ? 僕は、君から解体されて食べられたいんだよ」


 西阪の声が、大きかったため、朱里は周りを見渡した。場末の喫茶店内は、人がほとんど入っておらず、こちらの会話を聞かれる心配はなかった。


 朱里は西阪に目を戻し、訊く。


 「本気で言ってるの?」


 「もちろんさ」


 「食べられたら、あなたは死ぬのよ」


 「そんなことは百も承知さ。それでも食べられたいんだ」


 西阪の顔は、あくまで真剣だった。


 朱里は西阪の体を見る。体格は悪くないが、やはりどうしても、美味しそうとは思えない風体だ。言葉そのものは、今の朱里にとって、願ってもいない提案だったが。


 「警察に黙っておく代わりに、あなたを食べればいいってこと?」


 「そうさ」


 西阪は興奮したように頷くと、続けた。


 「君が人を殺して解体している事実を知って、僕は死ぬほど興奮したよ。その場で射精したくらいさ。本当に被害者達が羨ましいって」


 「羨ましい?」


 「ああ。僕もあんな風に解体されてその肉を食べられるなら、どんなに幸せな最期か」


 朱里は自身の腕に鳥肌が立つのを感じた。こいつは気持ちが悪い。確かに自分も殺人を行い、人肉食を行っている異常者だが、それは生きるために止む得なく行っていることだ。だが、こいつは完全に性欲のみで動いている。そこに生理的嫌悪感があった。


 この男の肉は食べたくない。


 朱里は顔を伏せた。


 「悪いけど、あなたを食べる気はしないわ」


 西阪の気落ちした声が聞こえる。


 「それはないよ近内さん。理由は知らないけど、人の肉しか口にできないんでしょ? わざわざターゲットを探すより、こうして望む僕を食べた方が絶対にいい」


 異様な会話。目の前の人間と、その肉を食べるだの食べないのだの押し問答する会話など、この地球上でなされたことがかつてあったのだろうか。


 朱里は顔を伏せたまま考える。これからどうするべきか。こいつの肉は食べたくない。かと言って、このまま引き下がるようにも見えない。下手をすると、警察へ垂れ込まれ、逮捕される恐れがある。そうなると、間違いなく自分は死刑だ。あれほどの人間を殺しているのだから、当然である。世界的にセンセーショナルなニュースになるだろう。下手をすると、『令和の食人事件』の犯人にすらされるかもしれない。


 そして、目下、最大の脅威である肉を奪った犯人の存在。そいつをどうにかしなければ、逮捕されるより前に、自分は餓死してしまうだろう。


 八方塞がりの状況に、朱里は頭を抱えそうになる。濁りのような不安が、足元から全身に広がっていく。


 すると、西阪が、明るい声を出した。


 「わかったよ。君が嫌なら、無理強いしない。今はまだ、食べなくていいから」


 西阪は言葉を継いだ。


 「上野と目黒の犯人、その人物のせいで、君は食料が得られないんだね? 多分、意図的にその犯人は、君の獲物を狙っている。そして、君はその犯人を捜そうとしている」


 朱里は顔を上げた。そこまで察しているのかと驚く。だが、よく考えると、この男は、この二年間、ずっとこちらの動向を探っていたのだ。新宿での自分の姿も監視されていた。その上で、あの現場の状況を見ているのならば、そのような帰結に至るのは当然のことかもしれない。


 朱里は頷いた。西阪の顔を見つめる。西阪は、真摯な面持ちだった。


 「だから提案だ」


 西阪は身を乗り出す。


 「僕も犯人探しに協力するよ。そして、見事犯人を見つけ出せた暁には、その時こそ、報酬として僕を食べてくれ。もちろん、そうなったら証拠も消すよ」


 常軌を逸したギブアンドテイク。だが、朱里にとって、メリットはあった。このまま一人で犯人に立ち向かうのには、分が悪いと思っていたのだ。それを朱里の『特性』と実情を知っておきながら、警察に伝えず、協力を申し出ている。これ以上に、都合の良い存在はいないと言えた。


 この男を食べるつもりはさらさらないが、利用価値はある。犯人を突き止め、肉を奪うことを阻止できたら、その後で、この男について対処すればいい。今はとにかく、犯人を見つけることが先決だ。


 藁にもすがる思いとは、このことを言うのだろうと思う。


 「わかった。お願いするわ」


 朱里の言葉を聞き、西阪は、プロポーズが成功した時のような、喜びに満ち溢れた顔をした。




 次の休日、二人はさっそく捜査を開始した。


 まずは、最初の被害者である船崎由佳が住んでいたアパートを訪れることにした。


 これまで幾度も調べ回ったアパートである。目撃者がいる可能性もあるので、朱里は軽い変装を行った。


 由佳のアパートへ二人が到着した時には、正午を回っていた。昼間にこうして、別の事情で訪れてみると、全く違った印象を受けてしまう。


 由佳の部屋は、まだ規制線が張られたままであった。ただでさえ侘しいアパートが、白昼にも関わらず、妙にくすんだ瘴気を放っているように見える。


 角にある由佳の部屋の隣は無人なので、さらにその隣の住人に話を聞くことにした。


 朱里が部屋のインターホンを鳴らすと、すぐに中から人が出てきた。冴えない感じの、小太りの男だ。汚い太り方なので、食肉としては論外だ。空腹でも食べたいとは思わない対象である。


 男は、朱里の姿を見ると、一瞬だけ目を丸くし、何度か瞬きをした。それから、隣にいる西阪に気が付くと、怪訝な面持ちになる。


 「なんか用?」


 男は、朱里に視線を固定したまま訊く。朱里は自分が一番素敵に見える角度で笑みを作り、男に言った。


 「この前あった殺人事件について、ちょっとお尋ねしたいのですが」


 男は、目を奪われた様子で、頷いた。


 「あ、ああ。あの事件ね。いいけど、あんた達、警察の人?」


 「そんなところです」


 朱里は曖昧な返答を行う。だが、男は、疑義の念を抱くことなく、納得したように首肯した。これまで朱里が手を掛けた被害者や、情報収集で話を聞いた人間達同様、朱里の容姿を見て、警戒心を完全に解いたらしい。


 男は口を開く。


 「事件のことと言っても、俺は大したこと知らないよ」


 「事件が起きる前に、不審な人物を見かけなかったか?」


 西阪が刑事のような口調で、男へ質問する。


 男は、仏頂面で答えた。


 「前にきた警察官にも言ったけど、そんな人物は見かけた覚えはないなぁ。この辺りは人通りが少ないから、変な奴がいれば、すぐにわかるし」


 次は、朱里が訊く。


 「それなら、事件の直前は? 夜九時頃だったと思うけど、何か物音とか、悲鳴は聞きませんでしたか?」


 男は、どこか嬉しそうに、首を横に振った。


 「何も聞こえなかったよ。一部屋空いているとは言え、悲鳴とか争う音とかすれば、さすがにここまで聞こえるだろうから。壁も薄いし」


 何も聞こえなかった――。朱里の頭に、何かが引っ掛かった。そう言えば、ニュースでも同じようなことを伝えていたような気がする。両事件とも、争った形跡も物色の様子もなく、予め侵入して待ち伏せしていた痕跡もないため、マスコミや警察は、共通の知人が犯人である可能性を示唆していたが……。


 当時、由佳の部屋には鍵が掛かっていたはずだ。チェーンロックも。犯人は由佳の元を訪れ、それをどうにかして外させたのだ。そして、近隣に響くような音を立てずに、由佳を殺害した。


 その点は、朱里の犯行に類似している。だが、朱里は入念に下調べと計画を立て、自分の性別と容姿を利用し、警戒を解かせてから犯行に及んでいるのだ。しかも、手馴れた上で。


 しかし、犯人の場合はどうなのだろうか。一人の人間、しかも、女性を、見ず知らずの人間が夜間に部屋へ訪れて、そのまま殺害することの難しさは、自身が一番よく知っている。誰でもできることではない。


 そのため、警察やマスコミが、被害者両名の共通した顔見知りの犯行だと推察するのは、当然と言えるのだ。


 だが、自分はそれが間違いだと知っている。


 しかし、それならば、どうやって……。


 男は言う。


 「ニュースじゃあ、顔見知りの犯行だって言ってたから、物音がしなかったのはそのせいなんじゃない? 男友達とか、知り合いの大人の男とかの仕業だとか」


 西阪が、思い出したように訊く。


 「被害者の女の子の部屋には、友達はよくきてたのか?」


 「ああ、よくきてたよ。友達は多かったと思う」


 その点に関しては、身辺調査の過程で、朱里もしっかりと把握していた。明るい性格の由佳には、友人が多い。ニュースで流れた由佳の葬式にも、大勢の友人が参列したようだ。


 豪華に飾られた祭壇を前に、友人達が、振り絞るようにして泣きじゃくっている姿をカメラが捉えていた。そして、それを遺影の中から、天真爛漫な笑顔で由佳が見下ろしている――朱里が垂涎の思いで、眺め続けた肉付きの良い容貌のまま――。


 朱里の脳裏に、あるイメージが明滅した。なぜだが自分でもわからないが、気が付くと、それを口に出していた。


 「この辺りで、事件の前後、拒食症みたいな、そう、ガリガリに痩せ細った女の人を見ませんでしたか?」


 自分でも妙な質問だと思う。男も同じだったようで、眉根を寄せる、しかし、ちゃんと答えてくれるようだ。太った腕を組み、うーんと唸る。


 「ガリガリねぇ。それくらい目立つ姿なら、記憶に残るはずだけど……。見てないなぁ」


 「そうですか」


 自分ですら意味不明な質問なので、期待した返答でなくても、仕方がないことである。


 「事件の犯人がそんな人だって情報あるの? ガリガリの女の仕業だと」


 男の問いかけに、朱里は手を振った。


 「いえ、ただ参考のために訊いただけです」


 男は、怪訝な表情を崩さないまま、首をかしげる。


 もうこの男からは、何も情報は出てこないだろう。そう考え、朱里は西阪とアイコンタクトを取り、礼を言って立ち去ろうとした。


 その時である。男が、突然、素っ頓狂な声を上げた。


 「あ、そう言えば、やせ細った女のことを聞いて思い出した。事件の少し前、話し声を聞いたんだ」


 朱里は訊く。


 「話し声ですか?」


 男は朱里を見つめたまま、頷いた。


 「ああ。被害者が玄関で誰かと話す声。別に怪しくなかったから忘れていたけど、多分セールスかなんかだね」


 「どんな内容か覚えていますか?」


 「離れてたし、トイレにいる時にだけ聞いたから、一部しか覚えていないけど……。確か、ダイエットやらカロリー云々の話だったと思うよ。体型が気になるみたいな。サンプルがどうこうっていう話も聞こえたから、多分、ダイエット商品のセールスかな」


 「それは何時頃?」


 「昼過ぎだったと思う。ちょうど今みたいな休みの日の」


 もしも、それが犯人だったら、白昼堂々、由佳を尋ねたことになる。さすがにそれは大胆すぎる気がした。朱里ですら、真昼間にターゲットの住居をノックしたことはない。


 西阪が質問を行う。


 「そのセールスの人は、男性だったのか?」


 男は首を振り、答えた。


 「いや、間違いなく、女性だったよ」


 「女性?」


 「うん。でも多分、その人は無関係じゃないかな? 事件の犯人は、人を殺して、解体してたんでしょ? いくらなんでも、女性がそんなことをする腕力なんてないと思うよ。ワイドショーでも男が犯人だって言ってたし」


 女でも、人を解体するのは可能であることは、自身が体現している。だが、それは動物の精肉作業に慣れていた場合であって、経験が少ないと、女なら不利であることは変わりがない。そう何人も、動物の精肉作業に慣れている女がいるとは思えなかった。


 まず第一に、女なら、生き物の体を解体することに拒否感を覚える場合が少なくないだろう。朱里の母がそうであったように、見ることすら受け付けないケースもあり得る。


 そのセールスは、男が言うように、無関係なのかもしれない。


 「ありがとうございました」


 朱里は礼を言って、西阪と共に、部屋を離れる。しばらくの間、男の撫で回すような視線を背中に感じていた。




 その後、朱里と西阪は、アパートの他の住人に話を聞いた。だが、そのほとんどが、最初の男と似たり寄ったりの内容だった。


 大した成果を得られないまま、二人は上野を後にした。


 次に向かった先は、二人目の被害者である柊彩夏が住むアパートだ。


 山手線を使い、目黒駅で降りる。朱里の居住地も目黒なので、ちょうど舞い戻ってきた形だ。


 三田地区にある彩夏のアパートへ辿り着いた時、由佳のアパートとは違う雰囲気が漂っていることに気が付く。


 その正体は、人の多さだ。三脚やカメラを持った人間が路上に複数いて、忙しそうに歩き回っている。まだ事件を報道しているマスコミが張り付いているのだろう。


 「これじゃあ話を聞けないね」


 西阪が、残念そうにぽつりと呟く。朱里も肩を落とした。


 この中で、刑事のごとく、住人に話を聞いいて回ったら、間違いなくマスコミの目に止まるだろう。下手をすると、カメラのファインダーに収められるかもしれない。それは避けたかった。


 朱里達は彩夏の事件の情報収集を断念し、目黒駅へと戻った。行く当てもなくなり、これからどうしようかと思った矢先、西阪が休憩を申し出てきた。昼食も食べず、動き回ったので、何か口に入れたいと言うのだ。


 そこで朱里達は、目黒駅構内のアトレにあるレストランへと入った。


 西阪は、ステーキ定食を頼んだ。朱里も強い空腹を感じているものの、通常の食べ物は摂取できないので、オレンジジュースのみを注文する。


 「そうだったね。気が回らなくてごめん」


 西阪は、申し訳なさそうに謝罪した。


 「別に気にしなくていいわ。家に帰ったら、まだ食べ物はあるから」


 それももうすぐ尽きそうだが。


 西阪は、水を一口飲むと、大胆な質問をする。


 「どうして、近内さんは、人の肉しか口にできなくなったの?」


 朱里は、周囲の様子を窺った。休日の店内は、大勢の客で賑わっている。皆、自分達の食事や会話に夢中で、こちらに注意している者はいなかった。話し声も、喧騒でかき消されるだろう。


 どうせ、全てを知られているのだ。話しても問題はないはずである。


 朱里は、西阪に自分が食人鬼になった経緯を打ち明けた。


 話を聞き終わった西阪は、神妙な顔をして、腕を組む。


 「そんな事情があったんだね。大変だったろうに」


 西阪は、気を遣うように言う。


 初めて、人を食うようになった経緯を他者に打ち明けたため、どこか心の重みが軽くなった気がした。その上、特殊な嗜好の相手とは言え、本来は拒否どころか、警察沙汰にでもなる告白である。それを受け入れられたのは、素直に嬉しかった。


 「確かに、大きな足枷になっているわ。でも私は、前向きに考えた。できるだけ人肉食を楽しもうって」


 西阪は、ゆっくりと頷いた。


 「立派だよ」


 感銘を受けたのか、深く息を吐く。


 それから続ける。


 「でも、そのお陰で、俺は近内さんに食べて貰えるんだ。それは俺にとって、ラッキーだったな」


 朱里に再び嫌悪感が生まれた。以前に決断した通り、この男の肉を食べるつもりはない。だが、彼自身は、本気で自身の肉を喫食して貰えるものと信じ込んでいるらしい。


 朱里は水を飲み、唇を潤すと、訊いた。


 「どうして、そこまでして私に食べられたいの?」


 「前にも言ったろ? 僕はマゾヒストだ。美人な女の人からいじめられたくてしょうがないんだ。そして、その最大級の快楽が、殺されて食べられることなんだよ」


 「理解できないわ」


 朱里自身は、人を食うことを栄養補給の一環として捉えていた。確かに、食を楽しんでいる面はある。美味しそうな標的を発見すると、興奮に打ち震えることもしばしばだ。しかし、それは食欲の延長線上であり、野生動物が、獲物を前に、舌なめずりする行為と何らかわらないものである。しかし、こいつは完全に性欲そのものを食人と結び付けているのだ。そこが、朱里にとって、不可解極まった。


 西阪は、テーブルに両肘をつき、ゆっくりと話し始める。


 「僕は思うんだ。カニバリズムこそが、究極の支配だって」


 「支配?」


 「ああ。そうさ。相手を殺し、その肉を全て食べる。これほど完全無欠の支配はないよ。相手の命どころか、肉体まで奪って自らの体に取り込んでいるんだから。そして、僕は、それを美しい女性からされることを望んでいる。相手に支配されることこそが、マゾヒストの本望だからね」


 吐き気がするような性癖の吐露。しかし、何となく、西阪の願望の真意がわかった気がした。


 そして、犯人のことを考える。以前も思ったことだが、もしも、犯人が、被害者の肉を食うためではなく、別の理由で奪っているとしたら、今の西阪のように、何かしらの願望が含まれているのかもしれない。それは何だろうか。


 やがて、注文したメニューが運ばれてきた。朱里の目の前には、オレンジジュースのみが置かれる。


 西阪は、ステーキを頬張りながら、オレンジジュースだけを口にしている朱里に向かって言う。


 「もしも、食料がなくなったら、本当にその時は僕を食べてくれよ。そうしないと、犯人を捕まえるより前に、君が餓死しちゃうから」


 ほら、と言い、西阪は大切れのステーキを口に入れる。


 「こうやって栄養ある物食べているし、それなりにジムで鍛えている。体格は悪くないだろ? だから、多分僕は美味しいと思うよ」


 西阪の自信満々な言葉に、朱里は頭痛がした。

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