第一章~辻畑③
「ところで一千万円の現金ですが、本当にお二人は知らなかったのですか」
彩は深く頷いた。
「はい。ここへ引っ越ししてベッドを備え付けた時から、そんなものはありませんでした。それに一年に一回程度ですが、湿気を取り除く為にマットを干したこともあります。最近だと昨年の夏、天気が良い日にやりました。その時にはありませんでした」
「つまりあのお金は、あなた達のものではないと」
すると彼女は慌てて首を振った。
「そうは言っていません。恐らく姉がこっそり隠していたお金だったのでしょう。姉は中学卒業後に専門学校で看護師の資格を取り、直ぐに働き始めました。病気になって辞めるまで二十年以上働いていましたし、祖父母が亡くなった際に受け取った遺産も多少あったはずです。そうして貯めた一部を、私達には内緒で隠し持っていたのかもしれません」
「しかし夏にマットを干した際には無かったのですよね。美香さんが病気に罹ってから、お金の管理はどうされていたのですか」
痛い所を突かれたという表情を見せながら、小声で答えが返ってきた。
「一人で出歩けなくなってからは、私達がキャッシュカードを預かりました。基本的に私の稼ぎでやりくりしていましたけど、出費が重なって足りない時はそれを使っていました」
「お金を降ろす役目はあなたですか」
「主に私がしていましたが、航に頼んだ時もありました」
「でもあなたは美香さんの口座から、一千万円を引き出していない。そうですね」
「もちろんです。初めて渡された時でも、そんな残高はありませんでしたから」
そこで尾梶は航に視線を向けて尋ねた。
「君も美香さんに頼まれて、お金を用意した覚えはないんだね」
「あ、ありません」
顔を伏せ、怯えるように首を振る彼が何かを隠している気がした。けれど庇うように彼女が言った。
「航は何も知りませんよ。それに姉は病気だと分かって、すぐ寝たきりになった訳ではありません。だからその時点で万が一の将来に備え、現金を隠し持っていたのだと思います」
「どうしてそんな真似をしたのでしょう。そうする必要があったのですか」
「もし銀行にお金を預けたままなら、私達が浪費するかもしれないと考えた可能性はあります。やがて寝たきりになり、動けなくなると医者に言われていましたからね。いずれはカードなどを預けざるを得なくなるでしょう。その前に引き出してこっそり隠していたとしてもおかしくはありません」
「しかしどうやって。ここに引っ越してきた時は、まだ一人で歩ける状況だったようですね。でもお金を隠していたら、その後あなた達が見つけていたはずではないですか」
「そ、それはそうかもしれませんが、上手くどこかに隠していたのかもしれません」
納得のいく説明ができなくなったからか、彼女も視線を伏せた。二人の経済状況から、一千万円があるとないとでは大きく違ってくる。よって身に覚えはないけれど、なんとかして自分達の金だと主張したいのだろう。
それに美香の死亡で介護が必要なくなった為、彩と航の生活は助かるはずだ。そう考えれば現金の存在を知った二人の内どちらかが、被害者を殺したとしてもおかしくはない。
けれど彼女達はアリバイがある。そうなると金の在処を知った犯人が、それを奪う為に被害者を殺したけれど隣人に気付かれた為、奪えず逃走したとも考えられた。そうなると事情を知り得た人物が怪しい。この家に出入りしていた人物はそう多くなかった。かかりつけ医とその看護師、区役所の福祉課職員の他には、加藤夫妻を含めたアパートの住民だ。
しかしそれらの人物は全員アリバイが証明されている。強いて挙げれば、第一発見者の加藤夫妻が疑わしい位だろう。航が出かけ鍵をかけていないと知り忍び込み、被害者を殺害してから一一九番通報したとも考えられるからだ。
ただそうなると、金が残されていた点に疑問が残る。一千万円の存在を彩達が本当に知らなかったのなら加藤夫妻は被害者を殺し、金をどこかに隠した後で第一発見者として通報すれば良かったはずだ。または殺さずとも金だけをこっそり奪えば済む。つまり辻褄が合わない。
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