第一章~辻畑②

「はい」

 中から女性の声がした為に、彼は告げた。

「先程連絡した者です。宜しいでしょうか」

 するとドアが開き、中から被害者の妹の彩が現れた。

「どうぞ、中にお入りください」

 彼女は昼夜働いている為、事前に訪問時間を伝え家に居るよう伝えていた。よって忌引き休暇を取っていた彼女は、部屋で待機していたのである。また日曜日の為に学校が休みの航にも、同席して貰うようお願いをしていた。

「失礼します」

 二人は三和土に足を踏み入れ、辻畑が後ろ手でドアを閉めてから頭を下げた。

「愛知県警の辻畑です。今日はお時間を頂き有難うございます」

「いえ。お上がり下さい」

 緊張した表情のままそう言った彼女に促され、二人は靴を脱ぎ中へと入った。昨夜からお昼過ぎまで捜査員や鑑識が何度も出入りし徹底的に調べ、ようやく解放された直後だからだろう。まだ落ち着かない様子でいるのは当然だった。

 被害者が寝ていたベッドはそのままで、手前に置かれた低いテーブルの向こうに、彼女と同じく動揺を隠せないでいる男の子が座っていた。彼が彼女の息子の航だろう。

「すみません。こんな汚い物しかなくて」

「いえ、そんな事はありませんよ。お気遣いなく」

 使い古された座布団を二人分用意され、そこに辻畑達は腰を下ろした。彼女は航の横に座り、テーブルを挟んで向かい合った。

 被害者が亡くなり、本来なら葬式等の手続きで忙しくなるはずだが、それは先延ばしになっている。遺体が県警指定の病院に搬送され、司法解剖に回されているからだ。

 その結果が出てから遺族に返されるのだが、これはまず間違いなく殺人事件と考えていい。よってどうしても彼女達に対する事情聴取が優先される。

 尾梶がまず口を開いた。

「早速ですが、昨夜の話をお伺いできますか」

 現時点まで複数人の捜査員達に同じ説明を繰り返してきたからだろう。大きな溜息を吐きながらも彩は渋々ながら話し始めた。

「私は昨夜、金山にあるお店に六時から働いていました。姉の意識が無く救急車を呼んだと、隣の加藤さんから十一時半頃に連絡を頂きました、それで店長に事情を説明し、タクシーに乗って急いで帰った時には警察の方がいらっしゃいました。そこで喉に物を詰まらせ亡くなっていると聞き、そんなはずは無いと伝えました」

 彼女のアリバイは既に確認が取れている。死亡推定時刻は加藤夫妻が部屋に入った少し前だと推測された。よって犯行は不可能だ。それからの行動は現場にいた捜査員達が把握している為、説明を省いて貰った。

 次に航がおずおずと口を開いた。

「ぼ、僕はお母さんが出かけた後、美香伯母さんの世話をしていました。夜の食事はいつものように母が出かける前、チューブを鼻に通した栄養剤の補給で済ませていたから、僕はその後のトイレや、お風呂に入る手伝いをしただけです。伯母さんは大体九時過ぎには寝てしまうので、それから勉強をしていました」

 日暮家の家庭事情は複雑だ。被害者達の両親は三十五年前に離婚し、共に母親が引き取ったけれど捨てられた。別の男と失踪したらしい。被害者が十歳、彩が二歳の時である。

 その為姉妹は母方の祖父母に育てられるが、不幸にも二十年前に二人共交通事故で亡くなった。その時二十五歳で看護師として働いていた被害者が、祖父母の残した遺産と自らの稼ぎで、まだ高校二年生だった彩を経済的に支え大学卒業まで面倒を看ていたという。

 ちなみに祖父母のただ一人の子である母親は、当時既に病で亡くなっていたと分かった。よって彼女達が遺産を代襲相続したようだ。しかし彩は在学中に付き合っていた男性の子供を妊娠して結婚。航を出産するが三年後に離婚し、幼子を抱えシングルマザーになり働き始めた彼女は、独身だった美香の世話に再びなったようだ。

 伯母と母子の三人暮らしの生活は、比較的安定し上手くいっていたと聞いている。けれど美香が四十歳になった五年前、突然難病を発症してから環境は大きく変わった。

 これは脳の中の神経細胞が減少し、初期にパーキンソン病とよく似た動作緩慢や歩行障害等が見られる難病だ。近年では一万人に一人から二人ほど発症しているが、治療薬は無く詳しい原因も解明されていないという。

 四十歳以降で、五十代から七十代に多く発症するらしく、主には転びやすい、目の動きが悪く下を見ようとしても上手くできない、しゃべり難い、飲み込みが悪い、認知症といった症状が挙げられる。被害者の場合、この中で歩行障害と嚥下障害を発症していたようだ。歩行障害は姿勢が不安定になると共に危ないと判断する力が低下し、注意しても転倒を避けられず防御する反応も起きないので、顔面や頭部に外傷を追いやすい。

 よって自力歩行に危険が伴う為ほぼ寝たきりとなり、トイレ等へも他人の手が無ければ移動できなかった。そうした介護を彼女達がしているのだろう。また嚥下障害により、鼻から栄養を体に流し込む経管栄養の方法を取っていた。これは医師からの指導があれば、家族でも出来るようだ。その為喉に物を詰まらせ死んだと聞き、彩は即座に嘘だと言ったのだろう。

 経済的に最も稼いでいた美香が倒れ、仕事を辞めざるを得なくなり、しかも寝込んで介護が必要となった為に彼女達は困窮。その為安い今のアパートに引っ越し、彩は水商売とパートの掛け持ちを始め、美香の面倒や家事等は主に航が担った。所謂社会的問題となっている典型的なヤングケアラーだ。

 しかも今は中三で高校受験を迎える時期だから、大変な苦労を抱えていたに違いない。それでも幼い頃から面倒を看てくれた伯母の為だと思い、必死に頑張って来たのだろう。

 彼の昨夜の行動は既に裏が取れていた。またもしコンビニに出かける前、被害者の口にお粥を流し込み窒息させたなら、隣の部屋にいた加藤夫妻が気付いただろう。夜遅く静かで壁の薄いアパートなら、そんな異常事態が起これば苦しみ抵抗する被害者の声を聴き直ぐに分かる。実際物音がした為、彼らは外に出ているのだ。

 恐らくその時間に何者かが部屋へ侵入し、被害者の口にお粥を流し込んで塞ぎ、窒息死させた思われる。そして加藤夫妻が物音に気付き、様子を見に来るまでの間に逃走したのだろう。その時航はコンビニにいたと店員の目撃証言や防犯カメラで確認されていた。

 けれど犯人が何故、被害者の家に忍び込み殺したのか、その動機が謎だ。彼らの家庭は明らかに裕福だとは思えない。さらに例えドアの鍵が開いていたとしても、中に人がいると直ぐに分かる状態だった為、何か盗みに入るとは考え難かった。

 しかし最大の問題は、捜査員が部屋を調べている際に発見したという、一千万円の現金の存在だ。家庭の状況からまずあり得なかった為に事情を聞いた所、その存在自体を知らなかったと証言した彼女達は、とても嘘をついていると思えない程驚いていたらしい。

 百万円ずつ束になった一千万円は、被害者が寝ているベッドマットの下に隠されていた。遺体を外に運び込んだ後、鑑識が周辺を念入りに調べている最中、見つけたという。

 そこから犯人の目的は、その現金だったのではないかと推測された。けれど同居している二人が知らなかったものを、どうして第三者が知り得たのかが疑問となる。

 その点を明らかにすることが、今回の辻畑達の訪問における主な目的だ。その為昨夜の状況を時系列で確認した後、尾梶が質問した。

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